第29話 猿飛愛子の限界

 猿飛が初めて吐露した弱気に俺はぞっとした。


 戦闘狂そのものだと思っていた猿飛愛子のイメージを崩壊させるには十分なセリフだった。

 その瞬間、猿飛はやはり普通の高校3年生女子であるという現実が、改めて俺の眼前に突きつけられたのだ。


 いや、俺が勝手に猿飛はと決め付けていただけなのかもしれない……。



 猿飛はゆっくりと金網から離れ、だるまクンへと歩み寄った。

 それでも戦うのか? と矛盾を感じたが、彼女はだるまクンと十分な距離をとり、やはり戦闘の意志は薄いように覗えた。


「……おじさん、強いね」

 その声色は思ったよりはっきりとしているが、トーンは冴えない。

 お面のせいで表情は分からないが、明るいものではない事は想像に難くない。


 対するだるまクンは相変わらず不気味に笑っていた。

「おじさんじゃねぇよ。お兄さんだよ」

 ンフ、ンフという彼独特の笑い声が耳障りだった。


「……やっぱ、無理っぽいわ」

 猿飛の口から2度目の弱音が零れ落ちる。確認をするようなそれを、だるまクンは心地良く聞いていた事だろう。

「ンフッ!! ……だから? もうやめる? それこそ無理だよ。こっちは気が済むまでヤッていいって言われてんだ。まだ準備運動だぞ?」

「……」


 沈黙する猿飛。

 だるまクンは火の消えた様な彼女に圧倒的な優越感を感じていた。

「ンフッ! 怖いのか? 恐ろしいか?」

「……」

「泣いても喚いても誰も助けてくれねぇよ。逃げ場もねぇ。お前はもう終わりなんだよ」

「……」


 沈黙を守る猿飛に会場からは野次とも罵声ともつかない声が上がる。

 俺はその不穏な響きに胸が締め付けられ、吐きそうになった。 

 悪意を煮詰めた様な不愉快極まる空気は息苦しく、それを一身に受ける猿飛の心境は如何許いかばかりか。


 そんな猿飛は俯き気味に沈黙していたが、不意に顔を上げて言った。

「……あんまり愛子を追い詰めない方がいいよ」


 まるで他人事のような言葉に俺は何事なにごとか意味がわからなかったが、だるまクンにとっては単なる戯言にしか聞こえていない。

「ンフッ! 追い詰めたらどうなるんだ?」

「もう、あたしじゃ無理」

「ンフフッ! だから何がだよ?」

「愛子を抑えらんない……」


 猿飛の呼吸が急に荒くなった。

 先程までの軽快さが徐々に消えていく。


「……一応、言っとくね……程々にしないと……じゃないと、あの子……が……」


 がくん。


 猿飛の膝が落ち、両手がだらりとノーガードを晒す。

 荒い呼吸で肩を上下させるその様子は猿飛だった。


「……ンフッ!! ンフ〜〜〜ッ!!」

 一際大きいだるまクンの笑い声が不穏な空気をさらに禍々しくした。


 猿飛は既に戦意を喪失してしまった。

 彼は猿飛のを、そう判断したのだ


 だるまクンが何を笑っているのか、彼が何をしようとしているのか、俺を含めた会場にいる全員が理解していた。


「ヒャッハアアアッ!!」

 だるまクンは待ちに待ったパーティーが始まったかのように歓声を上げると、ただ立ち尽くす様な状態の猿飛を玩具のように蹴り飛ばした。


 ドムッ、という鈍い音と共に猿飛はキャンバスを転がったが、辛うじてガードが間に合ったようだ。

 が、それでも相当なダメージに違いない。


「ヒョウッ!」

 陽気な声で、今度はダウンしたままの猿飛を蹴り上げるだるまクン。

「ぅぐっ!」

 彼女のお面の奥から苦しそうな呻きが漏れた。

 それを聞いただるまクンは嬉しそうに顔を歪めると、猿飛の腕を乱暴に引っ張って大きく勢いをつけ、彼女を金網に叩きつけた。


「ショータイムだぜぇ!」

 両手を大きく上下させ、観客を煽るだるまクン。

 観客達も徐々にだがその熱を上げていく。見た目にも分かるほどに異様な一体感が形成されつつあった。

 予想通り、いや予定通り、だるまクンは対戦相手を『血だるま』にしようというのだ。


 中にはこの展開を期待していた下衆ゲスも少なくない。

 だるまクンの試合の名物とも言える『公開リンチ』だ。


 これを楽しみにしている悪趣味な輩が火付け役となり、熱気にてられた他の観客を巻き込んで巨大な渦を生み出していく……!



「もういい! やめろ!」

 俺は考えるより先に声を上げ、金網に張り付いていた。

「試合終了だ! 猿飛! ギブアップしろ!」

 しかし、猿飛は俺の声なんて耳に入らない様子で金網にもたれかかったまま動かない。

 息も苦しい様子で、意識も曖昧なのだろうか。上半身に力が入っていない。

 その様子は瀕死と言っても過言ではなかった。

(まずい……早く試合を止めなければ!!)


 俺はタオルを探した。

 タオルをリングに投げ込むことがギブアップの意思表示であることは万国共通で、地下も例に漏れない。


 だがどこにもタオルは見当たらず、辺りの観客も誰も持っていない。

 この蒸し暑い地下だ、ひとりぐらい持っていてもよさそうなのに、皆ハンカチすら手にしていなかった。

 何事かと見回せば、有仁子の下僕が辺りのタオルを回収しまくっているではないか!?


「おっと総国ィ! 何か探してンのか? まさかオメー、これで終わりとかシケたこと抜かさねーよなァ?」

 有仁子が俺の肩を握った。

 まさかこいつ、猿飛を降参させないつもりか!?

 ……なんたる外道であることか!!


「こちとらメンツがかかってンだよ。けじめはつけてもらうぜェ!」

「何がけじめだ! このヤンキー脳症!」

 この緊急事態にこんな馬鹿たれなんかに構っていられない。

 俺はとにかく降参の意思表示ができそうなものを探したが、状況は急速に悪化していく。

 だるまクンがリングで絶叫したのだ。

「いっくぜええ〜〜〜!」


 アメリカのプロレスラーの様にオーバーリアクション気味に右腕を挙げ、声を張っただるまクン。

 彼は躊躇なくその豪腕を猿飛めがけて打ち込んだ。


「~~~ッ!!」

 鈍い音に混ざる、声にならない叫びは猿飛の悲痛な声か。

 中途半端なガードだ。これでは続く二発目、三発目、四発目……猿飛のか細い防御ガードがいつまでも続くとは思えない。


 だが、だるまクンは一切の慈悲も罪悪感もなく、ただただ嗜虐をたのしむように攻撃を続ける。


「……しょい、わっしょい、ワッショイ、ワッショイ! ワッショイ!!」


 観客からそんなコールが湧き始めた。


 俺も以前だるまクンの試合を収めたビデオを見た際、全く同じ光景を目にしていた。

 一方的に相手を叩きのめすだるまクンに向け、観客はこうして応援エールを送るのだ。


 客観的に見れば異常そのものだが、異常な事象はある種の一体感を生み出しやすい。

 これはまさにそれそのもので、弱者をいたぶる強者であるだるまクンに観客たちは自分を重ね、自らのうちに秘める鬱屈を晴らすのだ。

 全くもって他力本願甚だしい。俺は怒りさえ覚えた。


「もういい! やめろといっている!」

 が、俺の叫びは相変わらず届かない。

 もう何回殴られ、蹴られたかもわからない満身創痍の猿飛にだるまクンが止めの一撃を入れようとしたその時――!


 キュッ、と鋭い音がした。

 猿飛の足底がリングのキャンバスを激しく擦った音だ。

 一瞬の隙を見た猿飛が身をかがめ、だるまクンの懐から逃れたのだ。


 おお、と歓声が上がったがそれもつかの間。

 だるまクンはそれでも猿飛を射程に収めていた。

「逃がさねえよ!」

 背後に回った猿飛めがけ、まるで後ろに目が付いているかのように正確な後ろ蹴り一閃!


 その殺人的な蹴り足は猿飛の後頭部にクリーンヒットし、彼女は文字通り宙を舞った。


 だん!


 顔面から突っ伏す様にダウンした猿飛。

 彼女はそのまま動かない。

 しかし、試合は終わらない。

 なぜなら、ここは法の外にある地下の闘技場。しかも、相手はあのだるまクンだ。


「ンフッ! ンフッ! ンフ〜〜〜ッ!」

 

 異様な熱気に包まれた無法のリングに、だるまクンの不気味な笑い声が響き渡っていた。


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