第3話

 依頼を受けたのは早朝の出来事だったので、帰り道はすでに十時頃になっていた。

 静かだった通りも、賑わっている。

 隣で時仁が、ぐうと腹を鳴らした。


「そういえば、朝ごはん食べ損ねた……」


「帰ったら作るから我慢しなさい」


 かつてはどうだったのかは知らないが、時仁は早苗の作るご飯が大好きだ。

 特に凝ったりしているわけではないが、早苗が作ってくれたという事実だけでも至上の食事になるらしい。

 なんとなく複雑な気持ちになるが、時仁がそれでいいのなら早苗もそれでいいのだが。


「今日の早苗ちゃんもかっこよかったぞ」


 にこにこ笑ってそう言ってくれるが、なかなか早苗の気持ちは上がらなかった。


「……そう」


「あれ。嬉しくない?」


 ひと仕事終えたあとなのに、どこか沈んでいる早苗に、時仁はなにか気分を悪くさせてしまったのかと動揺している。


「だって結局……あんなの、きれいごと、じゃない」


 成海に散々言った言葉は、結局のところ綺麗事にしかならない。


「それがいいんだよ。あの人たちには、そのきれいごとが必要だったんだからさ」


 確かに、あの家に流れていた暗い気を浄化するにはそういう言霊が必要だったことは分かっている。

 だが、早苗はどうしても言い表せない歯がゆさを抱えてしまう。


「都合のいいことばっかり言って、自分のことすら治せないくせに偉そうにして、私は……」


 どれほど奇病を祓うことができても、自分の記憶はどうしたって治せやしない。

 その事実だけが唯一、早苗の心にわだかまりとなって固く重くのしかかっている。

 そんな未熟者の言葉に、なんの価値があるのだろうか。

 全部忘れた薄情者の自分の隣で寄り添ってくれる時仁を見ていると、どうしても、それだけが早苗の心を覆い隠してしまう。


 だが、早苗が次の言葉を紡ぐことは無かった。


 少し無遠慮に、時仁の唇が、早苗の唇に重なる。


「そういうこと言う口は、黙らせようかな」


 いたずらっ子のような口調で、妖しい笑みを浮かべている。

 ほんのわずかな口づけだったが、早苗を黙らせるには十分すぎるほどだった。


 午後から早苗は遠十郎の元を訪ねた。

 もちろん、今回の件を報告する為である。

 時仁には店番をお願いして、早苗は遠十郎に事の発端を話し、拾った式神を渡す。


「やはり、あの男がいたのか……」


 予想通り、彼も六檀が関わっていることに気づいていた。

 ふむ、と考え込んでしまう。

 美形が真剣な表情で黙り込んでいるのは大変絵になるので、この様子こそ皆が見たがっているものなのだろうなぁと思ったり。


「早苗、今回の件は何も言わずに任せることになってしまってすまなかった。俺の不手際のせいだ」


「そんなの気にしないでいいわ。遠十郎さんにはいつもお世話になっているから」


 遠十郎には本当に世話になっている。

 早苗が記憶をなくしてからも、早苗のことを心配して面倒を見てくれていた。

 彼いわく、早苗は妹みたいなものだからということらしいが、要するに他の人よりも幼く、頼れる大人もほとんどいない早苗を心配してくれているのだ。


「あとは俺たちに任せてくれ。褒賞は何がいいだろうか……」


「いつも通りにお任せするわ。私たちは偶然関わっただけだもの」


 遠十郎は色々あれが良いかこれが良いかと呟いてから、おもむろに早苗に向き直った。


「早苗、何か悩みでもあるのか」


「別に、ないけど……」


 目敏い男だ。

 明らかにありそうな返事なのに、遠十郎は敢えて聞き出そうとはしなかった。

 彼の優しさと気遣いが、ますます荒れかけの心にしみるようだった。


「そうか。気をつけて帰れよ。また何かあれば俺に連絡してくれ。もちろん、相談事も受け付けているぞ」


 朗らかに笑って早苗を送り出してくれたが、早苗は未だに先程のことで悩んでいた。

 

 記憶をなくしてから、もうすでに季節が二つも変わった。

 このまま永遠に時仁とのことを忘れたまま、上書きしていくしかないのだろうか。

 そう考えると、時仁に対する申し訳なさが溢れてしまってどうしようも無くなる。


 記憶を失って目覚めてから今日まで、ひたすらに早苗に尽くしてきた彼に、何も与えられていない。

 好きの気持ちも思い出せないのに、もらってばかり。


(なんて狡いのか……)


 口づけ一つで忘れられたら、どれほどよかっただろう。


 あの日、記憶を失って初めて目が覚めた日のことだ。

 ぱちりと目を開けると、いつもの天井が視界に飛び込んでくる。


「起きたか!大丈夫か、早苗」


 枕元にはなぜか遠十郎がいて、まるで、病人でも看病していたかのよう。


「遠十郎さん……?」


 起き上がろうとすると、頭に鋭い痛みが走った。

 遠十郎が心配そうに早苗の背を支えてくれる。


「頭が痛いのか?無理はいけない。他に痛いところは?」


「いえ……痛いところはありませんが、なんだか、変な気分ですね」


 心にぽっかり穴が空いて、なくしてしまったかのよう。


 なにか、忘れているような。

 そんな気がしてならない。


 とにかく、状況を確認したくて遠十郎になにがあったのかを聞こうとしたその時。

 ガタンっと障子が開け放たれて、見知らぬ青年が飛び込んできた。


「早苗……!」


 早苗は彼のことをまったく知らないが、彼は早苗の名前を呼び抱きついてくる。


「よかった……!起きられるようになったんだな!」


 そう言った声はとても嬉しそうで、心の底から早苗を慈しんでくれているのは分かる。

 けれども、早苗にとっては知らない男にいきなり抱きつかれて、困惑の気持ちしかない。


「あの」


 早苗は彼の言葉を遮る。

 

「どちら様、ですか」


「───────……え」


 そう言ったときの、彼の絶望の表情が忘れられない。


「さ、早苗……!まさかお前」


「遠十郎さん、この方はどなたなのですか?」


 遠十郎は目を見開いて、呆然としてしまった。


「時仁のことが、わからないのか……?」


 早苗は、わけもわからずにただ頷いた。

 早苗と時仁は恋人だ。

 郷にいたころから時仁とはそういう関係で、郷を出てからは二人で水明町で店を開いている。

 そう遠十郎から教えてもらったが、いまいちピンとこなかった。


 早苗の記憶の中では、郷では師匠と二人暮しで、独立してからはここで一人で店をやっているはずだった。

 師匠のことも、遠十郎のことも覚えているのに、時仁という男性のことは何一つとして頭にない。


 だが、この家にある二人分の食器や布団、男性の衣服などを見る限り、彼が共に生活をしていたというのは確かめるまでもなく事実である。

 遠十郎が医者を呼んでくると言って、家を飛び出していく。


 二人きりで室内に残された早苗は、気まずさを感じて、自分の家のはずなのに居心地が悪かった。


「ほんとに、何も覚えてないんだな……」


 蒼白な顔で呟いた時仁の声は、震えていた。


「ごめんなさい」


「謝んなくていいよ。早苗ちゃんは悪くない」


 少しの沈黙のあと、時仁は決心したかのように口を開いた。


「早苗ちゃんさ、郷に帰ってしばらく休んだ方がいいよ。俺と一緒に暮らすのも嫌でしょ。それか、俺が出てこうか」


 確かに、彼の言うことには一理ある。

 ここにいたところで、何も覚えていない恋人だった人と生活しなければならなくなるのだ、それならいっそ、郷に戻って体を休めれば思い出したりするかもしれない。


 けれど、早苗はどうしてかそんな気にはなれなかった。

 悲しそうな時仁を、これ以上突き放すことができなかったのだ。


「いえ、今まで通りにしてください。私たちは恋人だったんでしょう。そうしていれば、思い出すこともあるでしょうから」


 以前のようにしていれば、何かの拍子に思い出すものもあるはずだ。

 それに、忘れてしまったからさようなら、で終わらせてしまうのは、あまりにも時仁に申し訳ない。


 だが、早苗の言葉を聞いた時仁は喜んだりはしなかった。

 何かを思い詰めたような表情で、後ろめたいことでもあるかのように、早苗から視線を逸らしている。


「俺の本当の姿を見て、それでもそう言えるのか……?」


 震える声で彼はそう言った。

 その言葉とともに、彼の姿は徐々に変化していく。

 黒髪の間から獣の耳が生えてきた。

 口元には鋭い牙があり、ただでさえ長身で迫力のある彼の姿が、より一層恐ろしさを増していく。


 人狼、否……彼は狛犬だ。

 なぜだろうか、直感ですぐにそう思った。

 霊力が高いのか、巧妙に化けている。

 これほど近くにいても、今の今まで気づかなかった。


 時仁に強い力で腕を握られても、早苗は一切怯まない。

 彼がわざと怖がらせる為にやっているのだと、早苗はすぐに気づいた。

 先程抱きしめられたときは、綿でも触るかのように大切に優しく触れられたのだ。


「あなた、あやかしだったの。かわいい耳ね」


 早苗はそっと手を伸ばして、その頭を撫でた。

 途端に、鋭い刃のようであった彼の目付きが元に戻っていく。

 彼は、自身のことを乱暴で恐ろしいあやかしだという印象を早苗に植え付けて、遠ざけようとしていた。


 多分、今までのことを全て忘れてしまった早苗にとって、あやかしである彼の正体は受け入れられないものだろうと考えたのだろう。

 

 あやかしは人に恋焦がれるが、人はあやかしを忌み嫌うからだ。


「昔、最初に会った時も同じことを言ってた。俺の耳をくすぐって、尻尾を引っ張って、かわいいって笑ってたよ」


 そう言って彼は、早苗の肩に顔を埋める。

 温かな彼の体温が伝わってきて、そのぬくもりが、不思議と心地よく感じられた。

 



 何も思い出せないまま、無情に時は過ぎていく。

 時仁はそれでもいいと笑ってくれるが、自分の病すら祓えない己への不信感は募るばかりだった。

 今帰っても、時仁に無駄な心配をかけるだけだろう。

 そうしてしばらく落ち込んだ気持ちのまま、わけもなくぶらぶらと歩く。


 日が出ているとはいえ、真冬の外は寒い。

 雑踏の中、しゃん、しゃんと早苗の鈴の音だけがいやに耳につくようだった。


「お嬢ちゃん、考え事かい?」


 ふと、背後から声をかけられて振り返る。

 赤みがかった髪の、知らない男性がいた。

 彼は人の良さそうな笑顔で、早苗に近づていくる。


「迷子かなって思ったけど、なんだか深刻そうな顔してるから気になっちゃった」


「迷子じゃありません。それにもうそんな歳でもありません」


 彼は時仁と同じくらいの外見年齢で、知り合いにこんな人がいただろうかと思ったが、やはり初対面だった。

 まさかこの歳で迷子に間違えられるとは思わなかったが、見知らぬ人から声をかけられるほど沈んだ顔をしていたなんて。


「お気遣いありがとうございます。ですが、私のことは気にしないでいただけると」


「そんなこと言わずにさ、俺に相談してみなよ。よく知らない人の方が気兼ねなく話せることもあるだろ」


 軽薄そうな笑顔だが、言っていることは確かにと頷きたくはなる。

 だが、他人に話して解決する悩みなら、こんなに長い間苦しんだりしない。


「ですが、本当に私は……」


「そうだ!俺、この町には来たばかりでよく分かってないんだよね。良かったら、案内してくれないかな」


 断ろうとすれば、強引に話をすり替えられた。

 一体なんなのだと思いつつ、聞けば、寺に用があるのだが場所が分からないのだと。

 迷子はそちらの方じゃないかと言いたくなる気持ちを抑えて、しぶしぶ早苗は彼を案内することに。


「お嬢ちゃんってもしかして良いとこの娘さんだったりする?」


 早苗の身なりをみてそう思ったのだろう。

 相手に見くびられないよう、できる限りきちんとした格好を心がけているが、見ようによればそう思えなくもない。


「いえ、私は祓い屋をやっております」


「へぇ!そりゃすごいな!」


 彼の声が一段と跳ね上がった。

 早苗は一瞬驚くと、彼の顔をまじまじと見る。


「ああ、疑ったりはしてないからね?俺、祓い屋さんにはお世話になったことがあるから、君のこと尊敬するよ」


「……別に、私なんて尊敬されるような人ではありませんよ」


 無意識的に、拗ねたような返事をしてしまった。

 嬉しそうな顔で祓い屋へ感謝している彼を前にすると、どうにもその賞賛が受け取り難かった。


「もしかして、仕事で何か嫌なことでもあったのかい?」


 気遣うようにそう尋ねられて、こくりと頷いた。

 

 そんなつもりはなかったのに、彼の人懐こい雰囲気につられてしまったのだろうか。

 早苗は祓い師としての自信を無くしかけているということを思わず話してしまった。

 もちろん、時仁のことや具体的な名前などは伏せて。


「そうかぁ……それは、大変だっただろうなぁ」


 話を聴き終わって、彼はしみじみとそう言う。


「あんたは偉いよ。よく頑張ってる」


 立ち止まって、早苗の瞳をしっかり見つめる。

 飾り気のない素朴で率直な言葉は、早苗の心を溶かすようだった。


「……ありがとう」


 小さな声で呟く。

 いつしか早苗は敬語も忘れて、友人に話すように、ふっと表情を緩めた。


「もう少し、頑張ってみようと思う。きれいごとでも」


 早苗の言葉に、彼は大きく頷いてくれた。

 苦しい思いを抱えているよりも、こうして、誰かに話すことで楽になる。

 成海たち姉妹に言ったように、きれいごとでもその言霊は早苗の心を支えてくれるようだった。


 目的の寺はもうすぐそこのはずだ。

 思いがけない巡り合わせだったが、そろそろ別れなければ。


「ただ、俺が思うに……今の君に本当に必要なものは、もっと別にあるんじゃないかな」


「……え?」


 思わぬ言葉に、早苗は足を止める。

 どういうことだろうか。

 先程と変わらないような笑顔なのに、その視線は早苗を射抜くような鋭いものだった。

 なんだか急に、彼の雰囲気が変わってしまったような……。


 いつの間にか、早苗の鈴の音が鳴らなくなっていた。


「もっと別って、」


「例えば、失った記憶を取り戻す薬、とか」


 早苗は息をするのを忘れてしまったかのように、かたくなってしまった。


「なん、で……」


 先程まで隣にいた彼と、今目の前で喋っている男は、本当に同一人物だろうか。

 屈託なく笑っていた彼のその眼差しは、真冬の冷たさそのものだ。


 早苗の鼓動が早くなる。


 その言葉は、まるで協会で問題となっているあの人物、六檀のようではないか。

 甘い言葉で素敵な薬を売りつけて、人が呪いに蝕まれる様を眺めるような、そんな男。


「あなた、まさか隠世の……っ!」

 

 いつの間にか、周囲の景色が今まで通ってきた道と違うことに気づいた。

 気付かないうちに、結界に引きずり込まれたのか。


 一体いつ、どうやって。


 彼は祓い師ではないはずだ。

 隣にいた時、こんな結界を作り出せるほどの霊力は感じられなかった。

 混乱する中、なんとか札を取り出して身を守ろうとするが、いくら霊力込めても術は発動されず、早苗の指が震えているだけ。


「嬉しいねぇ、俺のことを覚えてくれてるなんて。君さえよければ、俺と一緒においでよ。君の悩みなんて、いくらでも解決してあげるさ」


 彼……否、六檀は早苗に恭しく差し伸べたが、当然その手をとるわけがない。

 こんな男についていってしまったことを心底後悔する。


「あやかしを恋人に持つ、不思議な術師の娘……君がいれば、きっともっと楽しくなる」


「……っ!」


 六檀は時仁のことを、知っている。

 時仁の正体は、早苗しか知らないはずのことだ。遠十郎はきっと勘づいているだろうけれど、敢えて知らないフリをしてくれているぐらいで、本当に極わずかな人数しか気づいていないはず。


 それにも関わらず、初対面であったはずのこの六檀が知っているということは、入念に調べ尽くしたとしか考えられない。

 今日出会ったのは偶然ではなく、仕組まれたものだったのだ。


 嫌だ、嫌だ。


 はやくこんな奴、霊力で吹き飛ばして退治してやりたい。

 でも、体は縛られたかのようにまったく動かない。

 真冬の寒さも忘れ、早苗の首すじを冷や汗が伝う。


「だめ、負けない……!」


 それでも早苗は諦めなかった。


「帰らなきゃ。時仁が待ってるから」


 早苗の言葉に、六檀は眉をひそめる。


「忘れてしまった男への未練は捨てた方が君の為だと俺は思うよ」


「それでもいいの。それに、忘れてしまったけど、彼のことをもう一度好きになったっていいでしょう」


 初めて、六檀が表情を崩した。


 明らかに苛立って、嫌悪感をあらわにしている。

 早苗はそれに構わず、今度は軽やかに札を振るった。


「『応えよ。現世の道を示せ』」


 景色がぐらりと揺れる。

 少しの間、霧のようなものに視界が包まれ、それが消えると早苗は元の世界に戻っていた。

 どこから道を支えられていたのか、水明町の外れにある林の中に来ていたようで、当たりは雪と木々以外何も無い。


 早苗の鈴が、しゃんと鳴った。


 その直後、早苗の予想通り、彼の気配がした。


「───────お前、俺の早苗に手ェだしやがったな」


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