第34話 契約破棄


 ローブ野郎がぶらぶらと手を振り、仮面の下の瞳が怪しく光を放ち始める。

 ベアトリーチェが俺たちを庇うように前に出た。

 互いに魔力を放出し、牽制する。

 ベアトリーチェはこの時点で顔を青褪めさせた。奴の放つ力が……桁違いに強すぎる! 素人目に見ても、二人の力の差は歴然に見えた。

 ふざけた態度をしているが、戦えば間違いなく殺される。

 くそ、どうすれば……!


 俺もベアトリーチェも、蛇に睨まれた蛙のように動けずにいる。

 対して、向こうはにやにやとほくそ笑んで状況を楽しんでいやがる。

 しばらくそうして睨み合っていたが、何故か不意にローブがふっと力を抜き、俺たちへと背を向けた。


 「ま、いいや。君……ほっといても、死にそうだし。仕掛けも無駄になってないし、目的は達したも同然。もういいかな。あんまり張り切ってやりすぎちゃうと、楽しみが減っちゃうもんねぇ。簡単にクリアできるゲームほどつまらないものは無いって、ね。君もそう思うだろ?」

 「ゲームなんてやったこと一度もねーよ」

 「嘘!? ざんねーん、人生損してるぅ。あ、もうすぐ死んじゃうのか? なら、あの世に行ったら、ゲームできるといいね。じゃあねぇ」


 そう言って、ローブ野郎は天窓の向こうへ身を翻した。

 雲がさあっと流れて、星たちも既に夜空を去っていった。


 「な……なんだったんだ、いったい……」


 奴の気配が完全に遠ざかったのを確認すると、緊張の糸が切れたのか、その場に尻もちをついた。

 ベアトリーチェも、安堵の表情を浮かべている。

 

 『……底知れん奴じゃったな。今の儂らなど瞬殺できたじゃろうに、戯れに見逃したか。その選択、後悔させてやろう』

 「へっ、馬鹿言うな。あんな奴と関わり合いになるなんて、二度とごめん……」


 最後まで言葉が続かず、俺はうつ伏せに倒れ込む。


 「ゾルバ! いや、いやぁぁぁ!!」


 リリーがすぐ傍で悲鳴を上げた。

 ……そうだ、リリーを……。


 「ゾルバ! あつっ、なんて熱……!」

 「起きて! ゾルバ! 起きてよ!」

 「う……あんま、揺らさねーでくれ……」


 目が霞んで、開けていられない。身体じゅう痛いのに、もうそれもじんじん痺れて輪郭が曖昧になって、俺という存在がどろどろになっていってるような感じだ。

 頭も、ぼーっとしてきた……。

 もう何事か考えているのも辛い。


 「とにかく、ここを出ましょう。早く安全な所へ――」

 「いや……俺は、もう駄目だ。アンタと、リリーだけで……行ってくれ」

 「そんな! 今すぐ医者に……いえ、ブリュー様に診てもらいましょう! そうすればきっと――」

 『その必要は無い』


 俺を包むように悪魔が二人の手を引き剥がす。

 悪魔はただ端的に、事実だけを俺たちに突きつける。


 『魔力も気力も霊力も全て使い切ったのじゃ。肉体は既に死を迎え始めておる。万に一つも助かる見込みなどない。』

 「悪魔! お前がゾルバを唆したのでしょう! 何とかしなさい!」

 『あっさりと敵に眠らされておいてよく言う。儂が手を貸してやらねば、お前もそこで殺されておったろうに』

 「く……!」

 『第一、こやつは儂のものじゃ。そういう契約を交わしたのだからな。指の一本とてくれてやる気などない。ほれ、せっかく拾った命、みすみす散らしたく無かろう?』


 悪魔の放つプレッシャーが、リリーたちを竦ませる。

 それでもベアトリーチェはダガーを向け、リリーを後ろ手に庇いながら、ゾルバを返せと抵抗する。


 「もう、いい、やめろ……。ベアトリーチェ、早くリリーを連れていってくれ」

 「ゾルバ、あなた……」


 ローブの奴がいたときはまだ何とか根性で耐えていたが、それも限界だ。

 もう目を開けていることさえ辛くなってきた。

 不意に、胸のあたりに温かな光が灯る。

 リリーが魔術をかけてくれていた。

 前にもかけてもらった、あの癒しの魔術。……しかし、その優しい光は俺を満たすことなく、身体は無情にも冷たさを増していく。


 悪魔が何事か呪文のようなものを唱えると、禍々しい紋様の陣が礼拝堂の床に現れ、徐々に俺の体を影に呑み込んでいく。

 俺は何と声をかけようか迷って、結局、何も言えずに、


 「みんなに謝っておいてくれ」


 ベアトリーチェにそう伝えて、目を閉じた。

 彼女は一瞬、両手で顔を覆った。

 しかしすぐに顔を上げて、


 「……わかったわ」


 と、約束してくれた。

 彼女がリリーを連れて行こうとする。

 が、リリーは俺を掴んで離そうとしない。

 ベアトリーチェは優しくリリーの手をほどいていこうとするが、何度も何度も振り解かれてしまう。


 「離してください……姫、離して……」


 空しい抵抗が続いた後、やがて悪魔が静かにリリーの小さな体をするりと持ち上げ、ベアトリーチェへと預けた。彼女の手のひらから零れた温かな光の残滓が、俺の胸に降り積もる。

 悪魔はただ目線だけで、もう行け、と告げていた。

 

 リリーは彼女の腕の中で何か言おうとして、けれども口から洩れてくるのは、痛々しい嗚咽だけだった。

 

 「~~~~~っ! ~~~~~~っ!!」


 ベアトリーチェは下唇を噛み、リリーを抱えて走って行った。

 足音が次第に遠ざかっていく。

 胸に残った光は、少しずつ沁みるように溶けて、ほどなく消えた。


 (……契約は破棄された)


 悪魔が呟く。

 その声に応える者はいない。


 (全く素晴らしい。お前ならば、儂を満足させてくれることじゃろう。そして、いつの日か……あやつの悲願も……)


 静かな闇が礼拝堂を支配する。

 悪魔の影が床一面に延び、横たわる少年の肉体を引きずり込んでいく。

 そしてついでとばかりに周囲に転がる男たちも全て、真っ黒な影に捕らわれて吸い込まれていく。


 (しかし、お前もこれでは浮かばれまい? なぁに心配は要らん。お前には儂が憑いている)


 くはは、と掠れるような笑いとともに世界から音が消える。 

 悪魔の口から再び呪言が紡がれ、正三角形の陣の上で悪魔とゾルバの魂が重なり合う。


 (さぁ、もうひと暴れといこうか? 親愛なる友人よ)


 いつしか夜が明けて、開け放たれた扉から日の光が差し込む頃、礼拝堂から一切の人影が消えた。


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