第25話 悪魔に魂を売った日


 ベアトリーチェと別れた後。

 ひとり部屋に戻ってきてみても、苦すぎた珈琲のせいか、やはり眠る気にはなれず、ただベッドに腰掛けて呆然としていた。

 今朝、出かける前に整えたシーツはそのままで、ぴったりと寄せられた二つの枕もそのままだった。

 リリーのお気に入りだった、二百三十輪もある花柄の掛け布団も、皺一つ無い。


 何とはなしに、書斎の机にかけてみる。

 身の丈よりも大きな椅子に座ると、足が届かないのに胸が机に出ない。

 司祭様は随分大きな人だったんだな……。

 昔、教会の礼拝堂にある御神像が見たいと言っては、よく司祭様に抱き上げてもらってたっけ。

 

 「この方はあなたの母であり、私たちのところへあなたを遣わしてくださった方なのです。あなたも神様のように優しく、誰かを助けられる人になりなさい」


 俺はただ抱き上げてもらうのが好きだっただけで、司祭様のありがたいお説教は聞き流してしまっていたけど。もっと、ちゃんと聞いておけばよかったな。

 もうほとんど顔も思い出せないけれど、頭を撫でてもらった時の手の大きさを、その力強さを、何故か思い出していた。


 「……小せぇな、俺」


 前世で二十年ちょっと生きて、現世で五年ばかし生きて、それでもまだ俺は子どもだった。

 情けなくて、喉が渇く。


 暗い窓の外を見る。

 そこには何も見えず、ただ鏡のように自分が映っているだけだ。

 酷い顔をしている。リリーが見たら何て言うだろう。

 

 「リリー」


 掠れるような声で呟くと、不意に、体の奥底から荒れ狂うような魔力がふつふつと湧き上がってきた。


 ……俺は何をやってるんだ。

 騎士なんかあてにならない。

 先生も、ハロルドさんも、ベアトリーチェも、孤児院のみんなも……俺の大事な人みんな、失ってしまうかもしれない。


 魔力が全身を暴れ回る。

 胸元から溢れんばかりの光が溢れ出し、真っ暗な部屋を満たしていく。


 俺は自分でも気づかないうちに、書架から一冊の本を手に取った。


 『異端なる深淵の神也』。


 ぐいっと腕で目もとを拭い、零れ落ちそうな弱気を振り払う。

 泣いたって、誰も助けてくれない。

 他にやるやつがいないなら、俺がやるしかないんだ。

 だから、やるんだ! 俺がやるんだ!


 迷い無く本を開く。

 一瞬の静寂の後、高らかなる哄笑が脳内に響き渡る。


 現れたのは燃えるような影。

 ともすると獣のような長い尾が揺れているようにも見え、その背に映る透き通った翼らしき部分からは青白い燐光がちらちら舞っている。

 その輪郭、圧迫感、まさしく――


 「……悪魔……!」

 (くはははははは! よくも! よくも! よくも儂を起こしたな?)


 開かれた本から伸びる影はふるふると身震いするように大きく体を広げ、一瞬ののちに俺の眼前へと迫り、魂の奥底まで見透かさんとするべく覗き込んでくる。


 (お? お? よもや小僧……まさかお前か?)

 「……ああ、そうだ」


 両足を必死で踏ん張り、虚勢を張る。

 狼狽えるな、臆するな。

 こんな悪魔がなんだというんだ!


 「お前、これに封印されてた悪魔だろ? 強いんだよな?」


 俺が本を開いた、と示すと、悪魔は興味深そうに俺の周囲をぐるぐると回る。

 

 (ほほう。これはまた……なんとも珍妙な縁よなぁ。そしてその異様な魂、只人では無いなあ?)

 「どうでもいい。俺よりもお前のことだ」

 (急くな、急くな。お前から漏れる魔力、焦り、怒り。……くはは! ああ、哀れよなあ。儂に力を縋るか?)

 「良いから寄越せ、時間が惜しいんだ」

 (儂が言うのもなんじゃが、それで良いのか? その書は契約ではなく、封印よ。儂という災厄を解き放ち、あまつさえ自ら邪に堕ちようとは)

 「うるせーって言ってんだ!」


 誰が何と言おうと構うものか。

 俺はもう心に決めたんだ。たとえ先生にだって、俺を止められやしない。

 今やらなきゃダメなんだ。

 今やらなくちゃ、俺は俺を許せない。


 無意識にぎゅっと胸を締め付ける。

 掌の隙間から零れる光はなお溢れんばかりに煌めき、明滅を繰り返す。

 それから悪魔は眩しそうに眼をすがめ、小さく笑った……気がした。


 (くはは! 結構、さすれば取引といこう! お前の残りの生涯、その血肉を貰い受けよう!)

 「いいぜ。その代わりお前には、俺の望む結果を出して貰う」

 (さて、それはお前の器次第じゃなあ。なに、定められた縁よ。力は存分に貸してやろう)

 

 胸の光が一層強まり、封印の書が解けると影は瞬く間に霧散し、一筋の魔力の線になって宙に踊る。

 それはやがて俺の手のひらの上で黒く謎めいた宝石となって落ちた。

 考えるまでもなく、俺はその宝石を一思いに、喉へ流し込む。

 体中がカッと燃えるように熱くなる。

 俺から伸びた影が蔓のように俺の体に巻き付き、全身から発せられていく燐光が部屋中を青白い輝きで満たしていく。


 こうして俺はこの日、悪魔に魂を売っ払った。


 ~・~・~・~・~・~



 ようやくタイトル回収できましたー。ここまで長かった……。


 いつもお読みくださっている方々、お付き合いいただきありがとうございます。


 まだまだしばらく毎日更新していきたいと思っておりますので、


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