背のび従者は追放された聖女のスローライフを守りたい

宇野六星

1-5 シリーン、あれは知ってる人?

1 予兆①

(42…43…44…)


 建物の裏手から温室へ続く道の端で、ぼくは木剣の素振りをしていた。もう日が暮れようとしていたけど、風は春の午後の日だまりの匂いをまだわずかに残していた。


(45…46…47…)


 ここは、王都郊外の薬草園だ。ここで寝起きしているぼくは、王都にある護衛職向けの鍛錬に毎日通うことはできない。それで騎士団のオリバーさんから、日課として自主練のメニューを与えられている。剣術はメインじゃないけど筋トレの一環だ。


 ぼくは、ヨハン。

 半年ほど前から、遠い国からここガレンドールへたどり着いて根を下ろしたある方のお世話をしている。彼女がやがて王都を出てこの薬草園で働き始めたので、ぼくも一緒に移って雑用をさせてもらっている。


(48…49…50…っと)


 区切りがついたところで、締めの型をなぞって木剣を降ろす。深呼吸をしていると、温室のドアが開いた。すかさずぼくは駆け寄った。


「シリーン、お疲れ様です!」

「ヨハンくんもお疲れ様。もう日課は済んだの?」

「はい、ちょうど。片付けを手伝いますよ」


 遠国から来たその人、シリーンはぼくを見てにっこり笑うと、手押し車に桶や農具を積んで出てきた。作業着と頭巾が板についていて、もうすっかりこの仕事に馴染んでいる。

 ぼくは木剣をベルトに差すと、手押し車を引き取った。桶に止まっていた蝶が飛び立ち、挨拶するようにぼくの目の前を過ぎって、シリーンの髪につかまった。

 つられてぼくもその絹のようなサラサラの髪に見とれる。ぼくの癖のあるくすんだ赤毛とは大違いだ。シリーンはこれを「よく陽を吸ったようなマンダリンオレンジみたいな色」ってほめてくれるけど、彼女の美しさにはとてもかなわない。


「今日は風が気持ちいいわね」

「ええ、だんだん暖かくなってきてますね!」

「春の盛りが楽しみね。この庭でも、どの花も咲きたくてうずうずしてるのを感じるわ」

「それも精霊魔法ですか?」

「ふふ。魔力がなくたって、毎日お世話してればわかるわよ」


 シリーンは覚えたガレンドール語で少しゆっくり喋る。笑い声が綿毛のように弾んでぼくの耳をくすぐった。ぼくは彼女のこの笑い方が好きだ。些細な話題でかまわないから、こうしていつまでも話していたい。十五歳のぼくにとって、シリーンは憧れのお姉さんだ。仕事が何であれ、側にいられる今が幸せだ。


 農具小屋の側まで来た時、急に空から白いものが落ちてきた。

 違う、鳥が降り立ったんだ。白い鳩だ。少しびっくりして立ち止まったぼくたちを、確かめるようにじっと見ている。


「どうしたのかな。もう日暮れだよ、巣にお帰り」

「この辺の子じゃないわよね?」


 シリーンの髪から蝶が舞い出て、鳩の前で羽ばたいた。すると鳩も羽をせわしなくばたつかせた。薄暗くなっていく庭の隅で、鳩の姿がぼやけていくように見えた。


「何だ!?」


 ぼくはシリーンを後ろにかばった。彼女は息を呑んで固まっている。シリーンは突然何かが起きるとパニックで動けなくなるから、ぼくが素早く守らないといけない。

 鳩の背からぼんやりとした何かが立ちのぼり、人の姿になった。でも幻のようにはっきりせず、目を凝らすと何もないようで、視線を外すと姿が見えた。ひょっとしたら幽霊なんだろうか?


「ニルファ!?」


 後ろでシリーンが声を上げた。人の姿はどうやら女性で、服の印象は初めて会ったときのシリーンのものに似ている。そして口を利いた。


『シリーン…』


「…知ってる人?」

「ニルファ、ニルファだわ。後輩なの」

「幽霊?」

「違うわ。精霊魔法で、鳩を通じてこちらの姿を見ているの」


 シリーンはぼくの前に出ると、幻に向かって声をかけた。彼女の故郷――トスギル天主教国――の言葉、トスギル語で話しているみたいだからぼくにはよくわからない。せめてすぐかばえるように注意しながら、彼女の傍らにいる蝶にも意識を向けた。


 …急に危ない話になったら困るから、ぼくにも聞かせてくれない?


 シリーンたちの会話は少し木霊のように響き、そして意味を感じ取れるようになった。ありがとう。


『シリーン様、本当にご無事だったのですね』

「そう書いたわ。でも、探さないでとも書いたはずよ」


 シリーンは、年明けにトスギルヘ出発するという隊商に知人への手紙を託していた。本当は消息を伝えるつもりはなかったけど、隊商を組織するガードナー商会のピートが押し切ったんだ。あいつはまだシリーンの覚えをよくしときたいみたいだけど、望んでないお節介なんか点数稼ぎになるわけないのに。


 するとこの幻の人、ニルファは手紙の宛先だったわけか。シリーンは、トスギルでは「聖女」の称号を持つ強力な精霊魔法の使い手だったそうだ。同じように使い手として修行している修道女が何人もいるという。教会ごとに派閥があるらしく、ニルファは同じ教会に所属している親しい知人なんだろう。


『教父ヴァシリイ様は、シリーン様を探しておいでです』

「お義父とう様が? …今さら?」

『はい。その…アルマ様が偽聖女であるとの噂が大きくなっておりまして、聖女認定の儀をやり直すべきかと教会や王家にて揉めております』


 アルマは確かシリーンの妹の名前だ。対立派閥の教会に引き取られたと聞いてる。儀式の場でごまかしをして無理やり聖女になって、その上でトスギルの王太子妃になったらしい。シリーンはやっぱり身内だからか、その辺はあまり詳しく話さなかった。


「…アルマはどうしてるの?」

『教父様のお話では、殿下の寵を失いつつあるそうだと…』

「飽きたのね。殿下はそういうお方よ」


 シリーンがすぱりと切り捨てるように言ったので、聞いてるだけのぼくは少しひやりとした。こんな声音も出せるんだ。そうか、本来ならシリーンがあの国の王太子妃になっていたはずだから、あちらの王子様とも直接知り合いだったのかもしれない。一体どんな付き合いだったんだろう。

 ガレンドールなら、ぼくが以前従者として仕えていた王太子アーノルド殿下と、婚約者だった公爵令嬢アナスタシア様みたいな関係だったのかな。

 …いけない、集中しなくちゃ。


『シリーン様、ともかくトスギルヘお戻りになられませんか』

「……」

『教父様もお待ちしています』

「…今さら…、今さら、嫌よ。もうお義父とう様の言いなりにはならないわ。わたしはこの国で暮らす、だからもう構わないで」

『ですが…』


 ニルファの姿が揺らいだ。


「ニルファ、もう鳩から離れないと魂が戻れなくなるわよ」


 その人の幻は、薄闇に溶けるように見えなくなった。もうすっかり辺りは暗くなっていて、鳩は困ったようにひょこひょこと走っていった。

 シリーンは背を向けたまま、肩ごと大きなため息をついた。それからぱっと振り返ると、もういつもの笑顔だった。


「さあ、さっさと片付けて中へ入りましょう。夕食を食べそびれちゃうわ!」

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