第8話 鶺鴒

 夢と現の境はどこか、少女には分からない。


 母が優しく笑い掛ける。

 ──泣きながら母は拳を振り落とす。

 父と小指を絡めて約束する。

 ──閉まった扉の向こうで父の笑い声が響く。

 両親はソファーに座り語り合う。

 ──残された母は泣き叫ぶ。

 汚れ知らずの自分の手を見つめる。

 ──手の中で赤い涙が散らばる。


『貴方はどうする』


 どこからともなく聴こえてきたボーイソプラノが、さもつまらなそうに少女に問い掛けた。


過去幸せに浸るか、未来幸せを追うか』


 少女は首を傾げて答える。


「別に……このままで」

「何がだ?」


 もはや聞き慣れた生首の声に、少女は何も答えず頭上を眺める。見知った天井は汚ならしい。掃除の必要がある。


「……」

「カエデ?」


 名前を呼ばれ、少女は気付いた。どうやら自分は夢を視ていたらしいと。ぼんやり天井を見つめながら、どんな夢だったか脳内を探るが、まるで思い出せない。

 夢などそんなものかと、吐息を溢し、生首に視線を移した。自分と負けず劣らずの無表情。寝惚けているのかと、低い声は重ねて問うた。


「……おはよう、シャムロック」

「あぁ、おはよう」


 カーテンで閉められた窓の外はすっかり暗くなっているが、少女と生首はその言葉で挨拶を交わした。


「なんか、変な夢を視た」

「そうか」


 少女は上半身を起こし、生首を持ち上げて顔の前に掲げる。


「シャムロックは何か視た?」

「……ワインを飲む夢だ」

「好きなの? ワイン」

「そうだな、人間の作った物で一番好きだ」

「吸血鬼って好きそうだよね」

「好みだろうよ」


 ふーんと気のない返事をしながら、少女は自身の首筋へと生首を近付けていく。


「ごはん」

「いただこう」


 袖ごと腕を噛むこともあれば、指の腹を突き刺して溢れでた血の雫で済ますこともある。けれど、結局は首からの吸血が一番満たされるのだと、主従は口を揃えて言っていた。

 誰にも邪魔されることなく、生首の牙が少女の首筋に埋まる。顔を歪めた少女を特に気遣うこともなく、血を啜る音が寝室に響いた。

 痛みは徐々に和らぎ──再び枕元へ倒れこみたくなるほどの心地好さを覚える少女。生首を支える手を離してしまわないかいつも心配になる。

 いっそ自身が横になって生首に吸わせた方が楽だと少女は思っているが、吸血鬼からそれは駄目だと何故か言われているので、できそうにない。ウブな少女はその理由を想像することもなく、生首に血を吸われていく。

 倒れる、と思う頃に生首の牙が離れていき、乱れた息を整えた後で、また自身の顔の前に生首を持ってきた。

 そうしていつも通り、味を訊ねようとすれば──伸びやかな鳴き声と共に、一羽の鳥が掛け布団の上に降り立つ。


「……知ってる?」

「知らん。どこか窓でも開いているのか」


 生首を脇に置き、じっと鳥を見つめる少女。黒い羽根に白い腹、屋台で売られていそうな笛のごとき鳴き声、思い当たる名前はない。

 鳥から目を逸らさずに、少女は告げる。


「シャムロック、涙をちょうだい」

「待ってろ」


 手を伸ばし、生首のいる辺りを探っていれば、小さく硬い物に触れた。それを掴むと口に放り、アーモンド型の瞳を赤く染め上げた。

 名も知らぬ鳥をじっと見つめ、少女は念じる。──瞬きの間に、鳥を閉じ込めるようにして赤い鳥籠が出現した。シンプルなデザイン、中には鳥以外に何もない。突然閉じ込められて驚いたのか、鳥は激しく鳴き声を上げながら暴れている。


「魔法で静められないのか?」

「やってる」


 じっと、じっと、見つめ続ける。鳥は徐々に落ち着きを取り戻していき、鳥籠の底で羽根を休めた。魔法が成功した安堵からか、少女の身体から力が抜けていき、瞳の色が漆黒に戻る。


「ご苦労」

「うん。……貴方、どこから来たの?」


 少女の問い掛けに応じるかのように、鳥が一声鳴く。何度聞いても伸びやかで、聞き心地がとても良い。


「飼うのか?」

「どうしよう、飼ったことない。ある?」

「一時期、アスターが世話していたな」

「私が何か?」


 颯爽と寝室に入ってきた吸血鬼。その腕には少女のセーラー服が掛かっている。


「おはようございます、シャムロック様、カエデ。服のお届けとシャムロック様の回収に参りました」

「おう」

「おはようアスター。服、ありがとう」


 鳥籠を落とさないよう気を付けながら、少女はベッドから出て立ち上がり、吸血鬼から服を受け取った。


「おや、その鳥」

「どこかから入ってきたみたい。見たことない鳥。アスター、何か知ってる?」

「……すみません、心当たりはないですね」

「そっか。……昔、鳥のお世話してたんだよね?」

「一時期ですが」

「……この子、飼いたい?」


 少女の問い掛けに、吸血鬼は苦笑を溢して、首を横に振った。


「今はとても、そんな余裕がなくて」

「なら、仕方ないね。後で外に放とうか」


 静かにそう口にすると、少女は一歩横にずれる。吸血鬼は一礼して、ベッドの上の生首を手に取り、そのまま寝室から出ていった。


◆◆◆


 黒いセーラー服に身を包み、二つに縛った長い黒髪を揺らして、鳥籠を抱き締めた少女はダイニングには行かずに、書庫へと足を向けていた。

 円形に設計されたその空間、棚も壁に合わせて湾曲に造られている。

 用事がない限りほとんど近寄らないが、今回はどうしても調べなければいけないことがあるので、食事の前にここへ来た。


「貴方はいったい、誰でしょう」


 鳥籠を傍にあるテーブルに置きながら、歌うように訊ねてみる。

 逃がす前に、名前を知りたかった。

 鳥の図鑑があるか分からなかったが、それらしい棚を探している内に見つけると、鳥籠の傍にある椅子に腰掛けて頁を手繰る。


「……何て読むの、これ」


 似た鳥を見つけたが、見慣れない漢字に眉根を寄せる少女。


「脊椎の脊に、令和の令? ……せき、れい? 分かんない」


 や、と言い終わらない内に、鳥が一声鳴いた。


「……」


 じっと鳥を見つめた後、もう一度、せきれいと呼び掛ければ、返事でもするように鳥は鳴く。


「……貴方、せきれいって言うんだ」


 特に笑みも浮かべず、事実確認でもするようにそう口にすると、本を閉じてそのままにし、鳥籠を抱えた。


「さよなら、せきれい」


 歌うように呟いて、軽やかな足取りで書庫を出ていく少女。頭の中ではこの後のことについて考えている。

 ──鳥を逃がしたからすぐにでもダイニングに行って、生首と吸血鬼に教えよう。

 正しいかもしれないし、正しくないかもしれないけれど、今日という日に、少女はそんな名前を付けてみたかった。

 外に出る。月は雲に隠れている。

 涙の効果はまだ残っていたから、目に力を込めればすぐに熱を感じた。そうして念じれば、赤い鳥籠は一瞬で霧散し、鳥は伸びやかな鳴き声を上げて飛び立っていく。


「……さよなら」


 月に背を向けると、少女は自分を待つ者達の元へと走った。

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