死神のつとめ

気分屋タコス

プロローグ

第1話 邂逅

 私は人の世で生きることに向いていないのだろう。そう思うようになったのは一体いつからだろうか。


日々の中でまざまざと自覚させられる自分の情けなさに、一体何度心を締め付けられればいいのだろう。

一体いつになれば、この苦しみから解放されるのだろう。


…思考の海に沈んでいることを自覚し、ふと顔を上げた。


薄汚く、暗い高架下にいることに気付く。

頭上を幾重にも走る高架が日光を遮り、昼間だというのに不気味なほど暗い。


「東京駅のすぐそばにも、こんな場所があるんだな…」


1人ごちながら歩みを進めると、巨大な箱のような空間にたどり着いた。



***



 私が立っているのは箱の側壁から内側へ突き出た、踊場のような場所だった。


錆びた鉄柵にそっと手を添え下を覗くと、深くに下水道が流れているのが見えた。

下水道の脇にはコンクリートの小道がある。


いっそこのままあそこへ落ちれば、楽になれるだろうか。

そんな考えが浮かんだ途端、抗いがたい衝動が私を襲った。


…下へ続く細い階段に手すりは無い。

…階段を数段降り、背を壁につける。

…ここから一歩踏み出せば、自分の人生に終止符を打てる。


あと一歩…



この足を……






「やめておけ。苦しいだけだ」

突如背後から投げかけられた声に、全身が凍りついた。



***



 ぎこちなく声の方を見れば、先ほど私のいた踊り場に一人の男が立っていた。

私よりも少し背の高く、身にまとった黒いロングコートは暗い背景よりも一層黒く感じられた。


「聞こえなかったのか。そこから飛び降りるのはやめておけと言っているんだ」


困惑と不気味さで私が口を開けずにいると、男はそう続けた。


「誰ですか、あなた」


乾ききった舌の根を何とか動かし、そう尋ねると


「誰でもいいだろ。そこで飛び降りをされると迷惑だから、やめてくれと言っているんだ。ここは俺のお気に入りなんだ。分かったら早くどこかへいってくれないか」


男は苛立った口調で、それでいてどこか落ち着いた声音で返答する。

言葉の節々に蔑みのようなものを感じ、私はむきになってまくしたてた。


「何ですか迷惑って、私にとっては大変なことなんですよ!

私が今どんなに苦しんでいるかも知らないで、偉そうに…!

それにさっき苦しいだけだなんて言ってましたけど、生きている方が私にとってはよっぽど辛いんです!」


「知るかよ、そんなこと。」


男は低いトーンで僕の言葉に被せるように遮った。


「ヒステリーで根暗な男なんて俺の一番嫌いなタイプだな。


さっきのは別に死ぬのが苦しいからやめろと言ったんじゃない。その程度の高さから飛び降りても死にきれないから、場所を変えろという意味だ。


言っただろ、ここは俺のお気に入りの場所なんだ。

未遂だろうが死んでいようが、自殺者なんて転がっていたら邪魔だし、この美しい景観を損ねるだろ」


「美しい景観って、こんな薄汚い下水道がですか」


勢いのまま、嘲りを込めて私はそう尋ねた。


「そうだ。美しい景観だとも。


無秩序に拡大する壮麗なビル群。

若者の多く行きかう賑やかな街並み。


そうした光あふれる都会の目と鼻の先に存在する、だれも見向きもしない空間。

輝かしい都会が秘めた退廃的な裏の顔。


それがここだ。

人間の業を美しく体現していると思わないか。

人々の羨望のまなざしを一身に浴びる人間もいれば、その裏で誰にも認められず人知れず朽ちていく人間もいる。


ここはそうした人間たちの行きつく先、日陰者たちの墓場だ。

下を流れているのは下水ではなく、日の当たらない人間たちの血涙かもな」



演説しながら、男はクックと小さく体をゆすり笑った。

普通の人であれば薄気味悪い変人の、可笑しな妄想話だと切って捨てただろう。


しかし、僕は何故かその世界に魅入られた。

目の前の不審な男にどこか親近感を感じ、この場所にもどこか安心感を抱き始めていた。


「でも、ここが日陰者の墓場なら、自殺者なんてお似合いだと思いますけど」


私はさっき降りた数段を登り、男のいる踊り場に戻りながらそう言った。


「…俺が好きなのは進退窮まった人間がそれでもあがく、その惨めで不格好な様だ。生を諦め、もがくことを止めた根性なしの死に様なんて見るに堪えない」


どこか苦し気な声色でそう言うと、男は眼下の下水道を眺め微動だにしなくなった。


場に沈黙の帳が下りる。


もう私の心に、飛び降りたいという衝動は無くなっていた。



***



「…あの、もう帰りますけど」


暫くの無音に耐えきれなくなった私は、男の背中にそう話しかけた。

男が小さく頷いたので、踵を返し来た道を戻る。


数歩歩いたところで、どうしても知りたいという欲求に駆られ振り返った。


「ちなみに、あなた何者なんですか」


なぜそう尋ねたくなったのかは後にも分からないが、


「…死神だよ」


そう言ってこちらを振り返った男の青白い顔だけは、いつまでも忘れることはできなかった。

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