また明日

京都橘大学文芸部

また明日

 水の流れのようになびく淡い赤の髪。端麗な横顔に無邪気の笑みを見せ、ほんのりと甘い匂いが彼女をまとっている。

 僕の生きてきた中で、いや、先祖代々の始祖に至るまでの時間の中で、今現在が最も幸福である。そして、これ以後更新されることはない。

 恥ずかし気もなくそんなことを思えるほど、僕の心は浮ついていた。

 香椎穂花かしいほのか。小学五年で初めて彼女を知る。と同時に惚れる。中学に上がって、僕の席の左後ろに座っているのを見た時、運命だと確信した。

 半年かけて慎重に外堀を埋め、今日、共に下校するに至った。彼女は部活の自主練習で音楽室に残ってフルートに青春の時間を投じていた。今日は、いつも一緒に残っている友達に用事が出来たらしく、一人で帰っていたところ、たまたま僕に出会した。たまたま。

 体の奥底から湧き上がる現状に対するあらゆる興奮を押し殺し、努めて冷静に香椎と会話する。

「顧問がホントにやかましくてさー、演奏の指導ならともかく、合わせ中に欠伸しただけで怒鳴ってくるんだよ? ヒステリーにも程があるよ」

「へへ、だね」

 無難に同調すると、香椎は目ざとく僕の顔を覗き込んでくる。

「えー? なんか緊張してる?」

「ま、まさか」

「ふーん、私と一緒に帰れて嬉しいんだ?」

 言った後、彼女は照れ臭そうに笑って「嘘嘘、冗談」と僕の肩を軽く叩いた。

 全くもっての図星であるので、言い返しようもなく、ただ叩かれることに甘んじた。


 やがて香椎との別れ道に立たされた。いつも長く思える道が、ほんの数十秒である。午後七時前の駅前の通りは活気に溢れ、今はこの騒がしさがありがたかった。

「やっぱり小中同じ学区だとラストスパートまで一緒だね」

 僕らは立ち止まって向き合う。

「ラストスパートって、帰り道の?」

 僕が尋ねると、「そう」と言って香椎はくすくす笑う。僕もそれにつられる。

「じゃ、また明日」

 手を振る彼女が背を向ける。一歩、二歩と僕から遠ざかる。

「あっ」

 別れを惜しむあまりに無意味の発音をしてしまい、言わんとしていたことが頭の中で霧散する。

 香椎は振り向き、僕の言葉を待っている。

「ば、ばいばい」

 違う。そんなことを言いたいんじゃない。

「バイバーイ!」

 街灯の明度にも匹敵するその笑顔に、思わず苦笑いする。

 まあいいか。

 後悔と自責はいつの間にか薄れていた。

 僕は家路を向いて歩き出す。多少の濁りはあれど、幾分か晴れやかな気持ちだった。彼女は「また明日」と言ってくれたのだ。明日には必ず言おう……タイミングが合えば。

 すぐ後方からの鋭い悲鳴が耳を貫いた。その方向に顔を向けると、多くの人が一箇所に寄り集まり、口々に緊張を孕ませた声が飛び交う。

 香椎はどこだ。別れてから長くない。まだ近くにいるはずだ。この漠然とした不安を彼女によって和らげたかった。しかし、どこに首を向けても見当たらず、嫌な予感が僕を追いつめる。足早に帰ったのだと信じながら、人混みの中心へ向かう。

「なに? 通り魔?」「えー……うわ!」「包丁持ってたって」「救急車は?」

 足元で僅かな水音がして、足の裏を見ると、赤黒の液体が付着していた。目線を落とすと、床のタイルの溝に血液が伝っている。それをゆっくり目で辿っていく。茶色のローファーに黒のハイソックス。チェック柄のスカートに紺色のブレザー。息を呑むほど整った顔に……淡い赤髪。赤色の水溜りに、香椎穂花の肢体が浮かんでいる。

「あ……ああっ……」

 僕は彼女の元へ寄って、しゃがみ込む。手を握って声をかけた。

「香椎……」

 彼女は薄く目を開けて、僕の顔を見た。それから、返事をするように僕の手を握り返して、やがてその力は抜け、瞼が落ちた。

 強烈に死を感じた。生き物から、そうでなくなる瞬間を肌で感じ、目の当たりにした。

「なんで……そんな……」

 香椎に残された体温に縋り付き、血の匂いを肺に入れる。それがどうしようもなくこの惨たらしい現実を思わせる。しかし、それだけが彼女を感じる唯一の手段だった。

 救急車のサイレンが近づいてくる。僕の嘆きを掻き消すような大きな音で、近づいてくる。


    ・・・


「やっぱり小中同じ学区だとラストスパートまで一緒だね」

 ぼやけた視界が徐々に鮮明になる。暗闇。下半分に街の明り。

「……おーい、どうした?」

 いた。すぐ目の前に、香椎穂花の顔がある。立って、動いて、生きている。足の底から、どうしようもない感情が込み上げてきて、思わず彼女の腹部に抱きついた。脈動する香椎穂花の中を聴く。僕は在らん限りの力で抱きしめる。

「えっ、ええ? ちょっとちょっとなになに! は、離してよ。痛いって」

 僕はしばらく香椎の腹を濡らして、冷静になった。彼女が僕の頬をぐぐぐと押して引き剥がそうとしていることに気づいた。

 僕は立ち上がる。

「……な、なんで、平気だったの?」

 彼女から手渡されたティッシュで鼻水を拭きながら訊く。

「今度は何? 平気かどうか訊きたいのはこっちの方だって」

 香椎は赤くした顔で、少し怒りながら言った。

「え?」

 その時、後方から悲鳴が聞こえた。聞き覚えのある悲鳴に僕は振り向く。

「びっくりしたー。なんだろうね……って、なんでそんなに手震えてるの?」

 僕は彼女の手を取って悲鳴が聞こえた方と反対方向に走り出す。

 後ろから黒い邪悪な塊が追いかけてくるような気がしながら、ずっと遠くまで走った。遠くに、遠くに。

 閑静な住宅街の通りまで来て、二人して両膝に手をついて息を切らした。後ろからは何も追ってきていない。香椎も近くにいる。

「はあ、はあ、ひい、もう、はあ、な、なんなの」

 香椎はすぐ横にあったフェンスに背中を預け、息と前髪を整えている。

「ごめん、だって」

「さっきから変だよ。急に抱きついてきたと思ったら泣いたり、ありえないくらい走ったり」

「だって、あんなことあった後だしさ。もしまた……」

「あんなことって?」

 どうも先程から会話が噛み合わない。彼女の記憶から、あのことが消え去ったような振る舞いである。それに、あれほど出血しておいて、今ではぴんぴんしている。

 香椎のすぐ背後で、鈍色の電車が通過する。通り過ぎてから、僕は彼女に尋ねた。

「……倒れてたでしょ? その……血が、たくさん出て……」

「……誰が?」

 香椎を指さすと、「何を言ってるの」と言われる始末だ。

 夢? 帰り道に寝るなんてことがあるか?

 夢ではない。あの匂いも手触りも今でも身に染みている。では、あれは一体……。

 その時だった。電車の警笛が静かな空気を揺らす。車輪から火花を上げた電車がすぐそこまで迫ってきており、脱線した電車はフェンスなど紙屑のようにして、僕達の立つ道路に倒れてくる。香椎穂花は、それに容赦なく轢き潰される。一方で、それを目の当たりにした僕は、横転した電車の軌道が逸れて奇跡的に助かった。六両編成の電車は、死骸のように横たわっている。僕にその姿を見せつけているみたいだった。

 遠くの方に聞こえる踏切の音を、静かな夜に聞いている。


    ・・・


「やっぱり小中同じ学区だとラストスパートまで一緒だね」

 そう言う香椎の顔にピントが合っていくのにつれ、腑に落ちる感覚がじわじわと腹の底から広がる。

「ちょっと、無視しないでよ」

 繰り返されている。香椎穂花が死ぬたびに、時間が巻き戻されている。何によるものなのかも、理屈も、所以も、分からないが、彼女を救えるチャンスが訪れたのだと思った。

「聞いてる?」

「あ、ごめん」

 とにかくここはダメだ。現状で考え得るリスクは全て潰しておかねばならない。

「ちょっと、こっち来て」

 僕は香椎の手を引いて、歩いてきた道を引き返す。線路にも人混みにも近づけず、交通事故の可能性を考えると車道も避けるべきだ。

「え、なになに」

 通学路の途中の人通りの少ない道に出た。左手には広い公園が静かに存在し、右手には背の高いマンションを見上げる。表口はこの道の裏手にあるため、煌々とした光も無い。

「どうしたのさ」

 頭上にクエスチョンマークを浮かべた彼女が無垢な目で尋ねてくる。光量も僅かなこの道に、香椎の瞳だけが眩く輝いている。この輝きだけは、奪われてはダメだ。

「どうもしないんだけどさ」

 ここなら人が来てもすぐ気づけるし、車が通れるほどの道ではあるが、人を轢いて怪我をさせるほどのスピードは出せない道の狭さなので、恐らく大丈夫。

「ねえ」

「は、はい」

「な、なんか……言うこととか、あるの?」

 香椎が赤らめた顔でそんなことを言うので、別の焦りが心を支配し始める。

 よく考えてみれば、男が女を人のいない所に連れ出すなど、それを意味することは限られている。

 これはチャンスかも知れない。まだ早いと思っていたが、彼女の感じからして成功率が高いように思われる。

「えっと、じ、実は……」

 鈍い音がした。重い石がぶつかって、砕けた音がした。

 僕の目の前に、積み重なった二人の人間がいる。それを、とても人の形とは呼べず、肉塊と呼ぶにふさわしい風体だった。ありえない方向に四肢が折れ曲がり、割れた頭頂部からの出血は止まらない。二人のうち下敷きになった方の顔を見る。香椎だ。近くで見なければ分からなかった。

 頭上から悲鳴がする。僕はひざまづく。


    ・・・


 香椎穂花の死は続いた。

 溺死、轢死、圧死、落死、爆死、中毒死、出血死、焼死、凍死、自死。

 七百を超えた辺りから、数は分からなくなった。僕は、ひたすら彼女の生存をかけて奔走した。川を泳ぎ、車体に激突し、腕を折り、足の骨がはみ出し、両腕を失くし、血を吐き、血を止めようとし、焼け、凍え、なす術もなく。

 ぼんやりと答えは見えていた。それを言葉にしてしまうと、僕自身が香椎より先に死ぬことだ。恐らく、直接的にしろ、間接的にしろ、彼女の死因は僕にあった。僕が、あの時間の間、彼女と時間を共にすることで、彼女は死ぬ。ほとんど確実に。

 この「ほとんど」は僕の希望である。薄く、弱い希望。僕と香椎が死なずにいる世界。彼女の死が重なるにつれ、その希望に縋り付きたくなる。彼女のために費やした莫大な時間を無意味にしたくなかったから。

 僕が、未だに香椎穂花を好きかなんていうのは些細なことだった。僕はもう、家族の顔すら思い出せない。僕が今まで、誰かと、どこで、何をして過ごしたかなどは、全て香椎穂花の死に塗り潰された。

 僕は、誰だ?


    ・・・


「やっぱり小中同じ学区だとラストスパートまで一緒だね」

 香椎穂花の瞳に濁りは無く、あどけない子供のようだった。僕はそれに深く絶望する。まるで彼女の死なんか無かったように、世界は電飾で煌めいて、くだらない話をしては笑っている。

「……どうしたの?」

 僕は背負っていたリュックから筆箱を取り出し、筆箱からカッターナイフを取り出す。ようやくこれが役に立つ。

「何してるのさ。しまいなよ。危ないって」

 香椎は僕の様子を見て、笑えない冗談だと思ったのか、口角をやや上げて苦笑いしていたが、僕が刃を首元にあてるのを見て、悲しそうに僕を見つめた。

「……なんで?」

 彼女は言った。

 なんで?

 君が訳を知りたがるなど、それこそ笑えない冗談だ。どうして君が何も知らない。どうして君が何も知らないままでいれる。僕が君のために何をしてきたと思う。僕が何を見てきたと思う。

 気がつけば、僕は自分のではなく、香椎の首に刃を入れていた。柔らかいと思った。このまま、深く。もっと深く。

 香椎の表情を見た。今にも、くしゃくしゃに消えてしまいそうな切ない顔で、僕のカッターを持った手を握っていた。見たことのない顔だった。絶対にこんな顔は見たことがない。僕は思わず刃を抜いた。地面に広がっていく血をしばらく眺めて、初めて自分のしたことを自覚した。力が抜けて、立てなくなる。

 救急車のサイレンが近づいてくる。僕は目を瞑った。ぎゅっと、震える瞼を閉じる。


    ・・・


 目を開ける。

 目の前には救急隊員がいて、僕に何か呼びかけている。そして彼らは、血に塗れた香椎穂花を担架に乗せようとしていた。

 サイレンの音は、止まっていた。

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