温故知新で今に立つ 後編

 地下道は相変わらずの工事で、道の閉鎖が続いている。それを谷町先生はまじまじと見ていた。


「この辺り、少し昔はアリバイ横丁だったんですけどねえ」

「ありばいよこちょう……?」


 変わった名前だなと思っていたら、谷町先生は頷いた。


「ここ、全国のお土産屋さんが集結してたんですよ。ですから、連休中に遊びに行っていたと誤魔化すためのお土産が買えるということで、アリバイ横丁って言われてたんです」

「へえ……どうしてなくしちゃったんでしょう?」

「純粋に汚かったからだと思いますよ。今は工事中でどこもかしこも窮屈そうですけど、終わった場所は全部綺麗です。でも、綺麗過ぎると、少しだけ寂しくなりますよね」


 そう谷町先生はしみじみと言うので、私は通りを見た。

 真新しい通りは、しゃれた壁の模様に床で、たしかに綺麗だ。私にとってはすっかりと見慣れた光景だけれど、私と違ってずっと関西在住の人には思うところがいろいろあるんだろう。

 そう思ったら、谷町先生は「あら?」と困った顔で地下街を見ていた。


「どうしましたか?」

「いえ……なんだか懐かしい通りに来たみたいですけど。そこも全部工事でなくなってしまったはずなんですけど……あれ?」


 彼女が困惑している中、あれだけ人がいたはずの地下道から、いつの間にやら人は消えていた。代わりに私が前に迷子になった通りがある。

 暖色の照明に、少しだけ古い通り。そして。トポトポと噴き出る、噴水の音。

 谷町先生はますます困惑した顔をして、その噴水を見ていた。


「……泉の広場。でも、どうして?」

「わからないです……あ、喫茶店ありました」


 この不思議な場所には、今日も迷宮喫茶はブリキの看板を立てて存在していた。

 谷町先生は少しだけ困った顔をしながらも、「帰り道がわからないと困りますし、行きましょうか」と、迷宮喫茶へと入っていった。

 カランと扉を開けると「いらっしゃい」と今日も店長さんが声をかけてきてくれた。

 私を「また来たのか」と意外な顔をしつつも、すぐに谷町先生のほうを見た。谷町先生がいろいろ迷っているからこの店に引っ張り込まれたと察したらしい。

 私たちがカウンター席に座ると、ひょっこりと顔を出した。


「なににするー? コーヒーのメニューはこっち。軽食お菓子はこっち」


 そう言ってお冷やと一緒にメニューを並べてくれた。相変わらず喫茶メニューはどれもこれもおいしそうだ。

 谷町先生は、困った顔をして、お冷やを見ていた。私が普通に飲むのを、何故か喉から「ひうっ」と声を上げて凝視する。


「あのう?」

「よもつへぐいになりませんか?」

「えっ?」


 意味がわからないと言う顔をしていたら、「あはは」と店長さんが口を挟んできた。


「ならんならん。うちはそんな大した店ちゃうし」

「あのう……よもつへぐいってなんですか?」

「知らん? あの世に迷い込んだ人間が、あの世のもんを食ったら元の世に帰られへんって話。日本やったらイザナミが食ったから帰られへんようになった言うし、ギリシャ神話やったら冥界の神のハデスが恋人のペルセポネにザクロを食べさせて冥界に滞在するようにしたりしとったね。で、うちはあの世ちゃうから、そんなんあらへんよ」

「そ、そうだったんですか……」


 思わずお冷やを飲むのを止めてしまったけれど、冷静に考えれば、私は迷宮喫茶でコーヒーもビスコッティもミックスジュースもいただいたけど、普通に家に帰れたのだから、店長さんの言い分で間違いないんだろうと、再びお冷やに手を伸ばした。

 それに谷町さんは困った顔をしながらも、ようやくお冷やに手を伸ばした。そこで店長さんはにこやかな顔をして、谷町先生を見た。


「どないしたん? 新刊を出したばかりちゃうかったん?」

「えっ? どうして、そのことを……」

「自分作家さんちゃうんかったん? 新作の『迷宮クロスロード』面白かったけど」

「えっ? 本当……ですか……?」

「うん」


 信じられないことに、店長さんはたしかに私が本屋で買ってきた本を、手に持っていたのだ。途端に谷町先生は、ポロポロと涙を流してしまった。それに私はうろたえる。


「あの! どうかしましたか!?」

「……もう、私。作家生命を絶つかもしれないって、思ってたんで……」


 彼女はポロポロと涙を流しながら、とつとつと語りはじめた。


「私……手慰みで書いたものが、うっかりとシリーズ化しちゃったんで。もう本当に書けなかったんです。本当に書きたかったのは、サスペンスとかホラーとかミステリーで……書いていると同じ話ばっかり書いてるって思って……自分は本当に話に毒を入れてはいけないって抜いても、抜いても……『ストレスがなくっていいね』って言われて……書いているほうが、吐きながら書いているのに……でもそんなこと言っても仕方がないじゃないですか。仕事なんだから仕方ないって割り切ろうと思っていました……でも……筆を折るかもしれないって追い詰められたとき、別のものを書いたら、書けちゃったんですよ……他の人にとっては売れている話のほうがよかったのかもしれない。でも、私の命の恩人は、その話ではないんです」


 これは、本当に作家じゃなかったらわからない感覚だろうなと、黙って聞きながら思った。作家と作品は別物だって言われても、作品を読んでいたら作家にそんなことがあったんじゃと思う人は割と多い。悲劇の主人公を演じた俳優にプレゼントが大量に届いたり、意地の悪い演技をした俳優が、近所から遠巻きにされたりする話はよく耳にする。作家も作品と同一視されてストレスではち切れそうになることだってあるのだろう。

 谷町先生が、ファンの心ないひと言で打ちひしがれていたのは、「ああ、やっぱりわかってもらえなかった」という虚無感のせいなんだろう。

 それを黙って聞いていた店長さんは、「自分、甘いもん食べられる?」と谷町先生に尋ねてきた。


「甘い物……ですか。はい……夜はどうせあんまり食べませんし、今だったら」

「そっかそっか。ちょい待ちぃ。ああ、コーヒーどうするのん?」

「えっと……じゃあモカのブラックを。あの、あなたは?」

「ああ! 私は神奈彩夏で……コーヒーはグアマテラのミルクで!」

「はい、おおきに。ちょい待って」


 そう言いながら、せっせとコーヒーミルで挽いてから、それぞれの準備をしはじめた。そして、先に皿になにかを出してくれた。

 生地にあんこがぎっしりと詰まっている。サンドイッチ……ではなさそう。


「これ……シベリアですか?」


 そう谷町先生は言う。シベリア? 私が首を傾げていると、店長さんが「せやせや」と解説してくれた。


「戦後までは氷は稀少品やったから、涼しげなお菓子をつくるのが流行ってたんやね。今でも水無月は関西の夏場には売られとるし、大正時代はハイカラなお菓子のシベリアが、名前面は涼しいやろって持てはやされてたんやわ。カステラにあんこ詰めた菓子にそんな涼しげな名前を付けて舌触りがひやっこいから、食べてたんやね」

「へえ……でも甘ったるそうですね?」

「まあ、コーヒー待ちながら食べてみぃ?」


 そう言われるがままに、パクンと食べてみる。

 もっとカステラの甘みとあんこの甘みが合わさって、胸焼けするほど甘くなるのかと警戒していたものの、実際はカステラの甘さを感じるものの、あんこはかなり甘さを抑えられていた。でも、おいしい。


「おいしい……でも、あんこがかなり甘さ控えめですね?」

「これなあ、あんこは寒天を混ぜて固まりやすくすることで、砂糖を少なめにしてもとろみを付けたんや。でもカステラは砂糖減らしたら、なかなか膨らまへんねんなあ。ふくらし粉を使っても、卵の白身を泡立てても駄目で、おまけに舌触りもパッサパサや。砂糖はほんまに最低限しか減らされへんかった。でもコーヒーの味には合うようにしたよ」

「でも、これをどうして私たちに?」


 谷町先生は不思議そうな顔で、シベリアを食べていた。たしかに舌触りは寒天のおかげかつるんと滑らかで、それをひんやりとすると言われればそうかもしれないと頷ける。

 店長さんはにこやかに言う。


「このままやったらあかんって思って、なんとか変化に対応しようと思って、新作書いたんやろう? シベリアやってそうや。昔のままのレシピやったら、甘過ぎて食べられへんから、時代によってちょこっとずつ変えな食べてもらえへん。読者さんにそれが伝わらんかったからって、落ち込まんでもええよ。まずはわかってもらえる人だけ相手にしい……はい、こっちはモカのブラック。こっちはグアマテラのミルク」


 シベリアを食べてしゃべっている間に、コーヒーは淹れ上がった。それをカップに注いでくれ、私たちはそれをすする。

 ……本当に、シベリアとコーヒーは驚くほど合う。甘いものと苦いものだから当然かもしれないけれど、それでもこんなにおいしい組み合わせとは思っていなかった。

 夢中で食べている間に、さっきまで今にも張り詰めて倒れそうだった谷町先生の目にも、活力が戻った。


「ありがとうございます。あの、お金は……」

「コーヒーの分だけでええよ。シベリアはどうせ試作品やったし」

「え、試作品って……」

「あんこの砂糖減らしたときでも、コーヒーの味に負けへんかの試作品やし、これはそのままメニューに追加してもよさそうやね。おおきに」


 そう言って、コーヒー代を相変わらず現金で受け取った。

「ごちそう様です」と言って、先に谷町先生は店を出た。

 私もコーヒー代の支払いを済ませると、店長さんはからからと笑う。


「なんや、またここに来たん。物好きやねえ」

「物好きと言いますか。今回は私が迷った訳じゃないですよ」

「せやねえ……多分、あのお人はここ出たらもう、覚えとらんわ。気のせいやって」

「……私、覚えてましたけど?」

「でも最初は、忘れかけたやろう?」

「……まあ」


 たしかに私は、あのブレンドコーヒーとビスコッティの味を忘れなかったら、迷宮喫茶のことを忘れていたと思う。でも、三回もここに迷い込んでしまった。

 私は「あのう」と店長さんに言う。


「私、神奈彩夏と言います。店長さんは、泉健一いずみけんいちさんで、いいですか?」

「おう?」

「いや、あそこ」


 私はそう言って指を差した。

 この不可思議な店には、なぜか普通に店の責任者の名前が保健所の届けと一緒に存在していた。そこの責任者の名義は、確かに『泉健一』と書かれていたのだ。

 途端に店長さん……泉さんはどっと笑った。


「せやせや。よう見つけたねえ」

「いえ……多分また来ます」

「せやね。これだけよう迷っても平然と帰れるんやったらええやろ。またおいで」


 そう言って、カランと戸を出た。

 出た途端に、相変わらずの混沌とした梅田の地下街に着いてしまった。他からはいきなり人が出てきたように思うはずでも、これだけ人がいたら、もう誰がどこから出てきてもわからないし、気付きもしない。

 谷町先生、大丈夫だろうか。迷宮喫茶に着いたのだって、あの人が悩んでいたからだったんだろうけれど。私はそう思いながら、手荷物を見た。

 蛍には、新作が面白かったのなら絶対に谷町先生に感想を書かせないとと、そう思いながら家路に着いた。

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