六
とある城内に妖怪が現れた。
顔があるようでない。顔と胴の境が曖昧で、口からは死臭がする。
「こんなもん城に入れて、すぐに追い出せ」
当然ながら城主は大変に怒り、その妖怪は家臣たちの手により追い出された。
後日、その妖怪の話を大陸の医学に精通している漢方医にしたら、大変に呆れられたという。
「その妖怪の肉は万病に効くものだったのに、なんとも残念だ」
城主は薬学や医学に精通していたが、大陸のほうの処方にはまだ少し知識が足りず、後悔したという。
その薬好きで医学好きな城主が、後に日ノ本を統べることになるのだが、それにはまだ少しだけ時期が早い。
****
「はあ……こりゃぬっぺっぽうの肉だねえ。稀少価値高い肉だよ。滅多に見つからない上に、見つかったときは薬師や医師で取り合いと来たもんだ。まさかこんなものを仕入れられるなんて思いもしなかったけれど」
道中。
あちこちで薬を売って回っている薬問屋を捕まえて、訳のわからない妖怪の肉を売ってみようと声をかけたら、思いもよらない話を聞いた。
それを百合は呆気に取られて聞いていた。
小十郎はその説明を受けて変な顔をする。
「こいつ死肉すすってたし、そんなにおい蔓延してたのに。そんなもんが薬になるのかい?」
「大陸にはそれの処方に関する本も多数出ているとされてるね」
「それは……そこまで貴重な妖怪とは思ってもみませんでした。人魚の肉とどちらのほうが稀少価値高いんでしょうね……」
「そりゃ難しい話だね。稀少価値高い謎の肉ばかり売っているって店はあるらしいけれど」
それに百合は一瞬黙ったあと、薬問屋のほうに詰め寄った。
「それ! 本当ですか!? どちらで!?」
「わ、わあ……謎の肉って言っても、山の肉だろうし、あんまり期待しないほうがいいよ。最近は寺社の勢力争いのせいで食肉を正攻法で売れないから、肉を薬だと偽って売ってるのが多いんだから……」
仏教信徒は、基本的には食肉を禁じている。しかし例外処置として、病に効く薬としては肉を食してもかまわないとされている。
転じて食肉は病のときの馳走ということになっていた。
それはさておき、百合は「それでもかまいません!」となおも薬問屋に迫る。
「今から大坂に向かうところですけれど、その問題の肉屋はどちらにありますか!?」
「それも……たまに大坂の市で売られているって聞くくらいで、今も売られるかどうかは……」
「ありがとうございます!」
百合はお礼を言いながら、肉代をいただく。旅の路銀としてはそこそこであり、少なくとも小十郎を食わせるのには困ることはないだろう。
小十郎は薬問屋が去っていくのを見ながら、百合を見上げる。
「師匠よかったのかい? そんな稀少価値高い肉、簡単に手放しちまって」
「私だと薬の処方はできませんから、できる方にお任せしたほうが確実です。それに、人魚の肝でなかったら、食らってもあまり意味はありませんから」
「ふーん。本当にたまに川魚を食うけれど、食べるとき大概は肝は毒だから焼いても食うなって言われてたけど。人魚の肝は違うのかい?」
「わかりません。私は人魚の肉も人魚の肝も食べたことがありませんから」
「なんというかさあ、なんというかさあ」
小十郎はのんびりと言う。
「師匠、知らないことばっかりなのに、元に戻らないとって知らないことと戦い続けないといけないって、しんどいなあ」
彼のしみじみとした口調で、百合は自分の今の体が絡繰りでよかったと少しだけ思った。
人間の体であったのならば、きっと苦いものが込み上げてきていただろう。
****
小十郎の師匠になった百合は、朝は小十郎に槍の素振りや手合わせをし、朝餉をどうにか調達してきてそれを食べさせてから、文字の読み書きと算学を教えはじめた。
最初は当然ながら、小十郎は抵抗した。
「師匠ー! 俺は師匠から強さを学びたいんであって、商人でもないのに算学なんて……」
「小十郎、あなたが将来どこかの農地に根付くか、どこかの店で奉公人になるかはわかりませんけど、読み書きと算学は覚えておいて損はないと思いますよ?」
「なんでだよぉ……」
「世の中にはわからないっていうのをいいことに、人を気持ちのいい言葉を使って騙そうとするものはいくらでもいます。戦のときも、それぞれの城主が騙し合いをして、それに勝ったほうが戦の勝利を治めています」
「城主様のことなんて……」
「いいですか、小十郎」
百合は自身の腕を突然外した。それがプラーンとぶら下がるのを、小十郎は唖然として眺める。
「私はかつて、気持ちのいい言葉に騙され、体を奪われました。たまたま騙された人々の駆け込み寺に辿り着けたから、こうして絡繰りの体を得ることができましたが、それはただ運がよかっただけ。騙されて体を奪われた事実を変えることはできないんです」
「……」
「だから、どうやったら人が騙されるのかは、古今東西の書物を読めば書いてあります。算学だって、わかる人は騙されませんが、わからない人は数字をちょろまかされても気付かず、ころりと騙されてしまいます。そうならないためにも、学問は必要ですよ」
「師匠も、誰かに……」
「はい。私は師匠であるのと同時に、反面教師です。私みたいに絡繰りになってしまったら、食事はできませんし、眠ることもできません。日差しの穏やかさも、水の冷たさも、肉の脂の甘さも……もうなにもわからなくなるのです」
小十郎は少しだけ考えるように顎に手を当ててから、ずっと百合が引いている荷車を指差した。
「ならあの尼僧様は誰? あれはずっと寝ているけど、人間みたいだったけど」
「あれは八百比丘尼の体ですよ。人魚の肉を食べた末に、体だけが呪いの塊になってしまった方です」
「……それ、どういうこと?」
「あの体は私も有事の際にしか入りません……あれはどんな魂も八百比丘尼に染め上げてしまう呪いが込められています。人魚の肉の弊害なのか、不老不死になった尼僧が呪詛の化身になってしまったのかは、私も詳細を教えてくださった方からは教えられませんでしたが……」
「ええっと……」
「私も聞いただけですけれど。八百比丘尼はあまりに死ねない自分に嫌気が差し、他の不老不死ではない女性の体を乗っ取って死んでしまったそうです。肉体を乗っ取られてしまった女性は強制的に八百比丘尼の体に納められ、だんだん女性の自我が消えて新たな八百比丘尼になってしまったのだそうです」
「……それ、もう人間じゃないんじゃ?」
「はい。私を騙した相手もまた、かつては誰かに騙されてしまった方なんです」
話がだんだん横道に逸れたのを、百合はどうにか軌道修正する。
それに小十郎は「むむむ……」と口をもごもご動かしたあと、やっと息を吐いた。
「……わかったよ、師匠。俺、本当はすっごく嫌だけど、なんとか勉強してみる」
「わかってくれましたか?」
「というより、師匠が思いの外おひいさんだから、俺がしっかりしないとふたりまとめて騙されると思った」
「わ、私の話を聞いて、なにがどうおひいさんで騙されやすい話になったんですか!?」
「だって、尼僧様に騙されるってそれ相当じゃないか! あの人の体に入っている師匠、はっきり言って無茶苦茶怖いから、この人に近付いちゃいけないって誰だって思うのに、それに騙されるって師匠がお人好し過ぎるんだよ!」
「まあ!」
弟子に何故か呆れられてしまったのに、百合はぷんすこと怒るが。
百合からしてみれば小十郎の世話を焼くことで、人間としての感情を取り戻しつつあることにほっとした。
小十郎に合わせて食事の世話をし、休憩する場所を探し、眠る場所を見つける。
かつての百合の二年間の旅は、寝ずにいつまでもいつまでの荷車を引く旅であった。
景色は変われど、季節は変われど、心は凪いだままで、平坦なままの虚しい日々。
それが変わったことの愛しさを、彼女は伝える術はなかった。
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