九
結局百合がこの寺を出るまで、七日間は費やすこととなった。
絡繰り人形には弱点が多い。
ひとつ。関節部分に定期的に油を差さないと動かなくなる。最初はギコギコと嫌な音を立てるだけだったが、だんだん凝り固まって身動きが取れなくなるのだ。だからと言って差し過ぎもよろしくなく、油差しひとつで百合はさんざん難儀する羽目になってしまった。
ひとつ。触覚がない。百合が絡繰りの肉体を得てからというものの、触覚が全くないせいで、とにかく動き方を覚えなかったら、なにかが刺さっていてもどこかをぶつけていても全く気付かないまま、動けなくなるまで歩いてしまう悪癖があることが発覚したからだった。
歩くだけでも気付いたら変な姿勢になっている。走ったり物を担いだり、なによりも八百比丘尼の体を持って移動する際に、荷車を引けないことにはどうしようもなく、彼女はそれらの訓練を繰り返し行うことになったのだ。
しかしそれらを差し引いても、全く疲れない体、なにを担いでも重いと思わず運べる腕力、走ろうと思えばいくらでも速く走れる脚力……それらは台所仕事を任されてあちこち走り回ってはくたびれていた頃を思うと破格の体ではあった。
その日は洗濯を行いながら、百合は体を動かす特訓をしていた。手荒れがないため、洗濯仕事を百合が替わると言い出したら寺の下働きたちに歓迎されてしまった。
百合が洗濯物を干している間に、尼僧がやってきた。
「油の差し方はわかりましたか?」
「はい。おかげさまで。油を差し過ぎると関節部分が動き過ぎますけれど、油を差すと快適に動けるようになるのはいいですね」
「さようですか。もうそろそろ旅立たれるのですね」
「はい。ここにはずいぶんとお世話になりましたが……」
「いいえ、それはお互い様です。ここはほとんど女ばかりで残りは客人ですから。おかげで力仕事ができない方が大勢いらっしゃり、私たちも難儀していたところなのです。百合さんのおかげで本当に助かりました」
「いえ……」
百合からしてみれば、なんとも言えない言葉だった。彼女からしてみれば、力強いというのはあまり褒め言葉にはならない。人並み外れた力は、もう呪いでしかないのだから。百合が複雑そうにしているのをさておいて、洗濯物の残りを干し終えたときだった。
「ちょっと……なにをなさるんですか、ここをなんだと思ってらっしゃるんですか!?」
「うるさい!」
「きゃっ!?」
なにやら揉めている声が聞こえた。百合と尼僧が慌てて駆けつけると、下働きの女性のひとりが、大柄な男に手首を引きちぎられんばかりに掴まれていた。
男は甲冑姿で見るからにボロボロだった。
さしずめ、落ち武者狩りから逃れてきた戦場にいた者なのだろう。百合がなにか言う前に、尼僧が目を吊り上げて激怒する。
「あなたはここがどこだたわかってらっしゃいますか!? ここは先の戦で亡くなった方を弔う場所! ここで預かってる方々も、先の戦で夫を亡くしたばかりの方です! 乱暴はお止めなさい!」
「乱暴だぁ……? 仏に祈って罪が軽くなるのか罰が当たるのか、そんな訳ねえよなあ……?」
「まあ……!」
普段は淡々とした語り手である尼僧が珍しく激昂している。
それはそうだろう。信心深いからこそ髪を削ぎ落として尼僧をしているというのに、それを真っ向から否定されてしまったのだから。
百合はしばらく考えてから、空いている物干し竿を一本、ひょいと手に取ると構えた。
「お待ちなさい。今の言葉は聞き捨てならないものです」
「なんだぁ……? なんだ、上等な女もいるじゃねえか」
「乱暴も強奪もお止めください。なにもしないで立ち去るのでしたら私たちもこれ以上は追求しません。ですが、この寺から物資を強奪しようとすることだけはお止めなさい」
基本的に落ち武者が逃げているのは農民たちからだ。
農民たちは戦が原因で畑を踏みつけられて、次の収穫に期待が持てないと判断した場合、戦に出た者たちを収穫しようとする癖がある。
刀、槍、鎧に甲。それらを回収して売れば、そこそこの売上になる。米は買えずとも粟は買え、皆で分け合うことができるようになる。
生活がかかっているのだから本気で襲ってくる農民なんかを、戦で負けたばかりで心が折れている落ち武者が無傷で逃げ切れる訳がない。だからこそ、女子供しかいない場所を狙って盗みを働き、食料を確保して逃げるのだ。ここは尼寺な上に先の戦で夫を亡くした妻ばかりがいるとなったら、落ち武者からしてみれば渡りに舟だ。
もっとも、どの寺にだって戦える者はいるのだが。百合は元々は城主の家臣の家系の娘であり、有事の際に長物で戦えるようにという訓練は受けている。
百合が物干し竿を構えているのに、落ち武者は「ハンッ」と笑った。
「女の細腕でなんになる!?」
「物は試しとは言うじゃありませんか」
「ははっ、違いない!」
落ち武者は百合を鼻で笑ったかと思いきや、腰に差していた刀を引き抜いた。先の戦は厳しいものだったらしく、刃こぼれだらけの刀だ。とてもじゃないがこれはもう斬るためのものではなくなっている。
(でも……当たると痛いか)
百合はそう思いながら物干し竿を構えた。
下働きの女性は泣いて逃げ、残りの下働きや尼僧たちは戸惑った様子で、百合と落ち武者の戦いを眺めはじめた。
やがて、紅葉が一枚舞う──……百合が大きく一歩動いた。
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