ただ君に揺らぐ

ふわふわ拳

出逢い

 春のさかりは、瞬く間もなく過ぎていった。


 心音しんおん跳ねる、足取り踊る心地で迎えた入学式から一週と数日。春空に誇るように咲いていた桜が散って、昨日まで枝に残っていた花びらも弱々しく、濡れたコンクリートに貼り付いて汚く透けている。


 変にハイになっていた気分が落ちつき、穏やかな春のリズムに合流して日常が流れ始めたこの頃。

 ゆるりゆるりとのんびりと、波のない高校生活を描いていこうと決心した。それは特別な変化や成長の結果ではなく、至って平常な、心地良いあたしの在り方。


「変化を恐れずに、自己研鑽じこけんさんをすべし」


 今日の朝礼での先生の言葉である。

あたしはこれを、嫌いな言葉ランキングの玉座にえた。先生は教え子たちのモチベーターとして、教師の規範きはんのっとって言ったのだろうし、この言葉自体テンプレートの引用であってもおかしくない。それは責められるようなことではない。

 ただ、あまりにも気の抜けた棒読みで発せられたその言葉に、あたしの尊い決意を否定されたのが嫌だった。

 現状維持を選ぶこと、そのすべてが恐れに立脚りっきゃくするものではないだろうと、頭の中でいびつな反論をこねくり回して虚しくなった。


 そんなことに終始した今日も、当たり前に放課後を迎える。

 今日から部活の勧誘が解禁され校内は大騒ぎ。全校生徒の4割が帰宅部ということもあり、希少資源なんて呼ばれる新入生をめぐって、先輩方が熱い獲得競争を繰り広げている。

 いくつもの運動部が、見るからににぶいあたしに声をかけてきた。もう少し人を選べないものかと思ったが、それほどに必死。人材の質にこだわってはいられないらしい。


 お祭りみたいに浮かれた息の詰まる人混みをうように歩き続け、熱狂の中庭を抜け出して旧棟を目指す。

 最近改修されたらしい本校舎とは違う、歴史を感じる構えの建物。その大きさに似合わず部活が3つ入っているのみで、この大勧誘時代においても人の気配があまりない。


 近づくにつれて背後の喧騒けんそうがすぅーっと消え、管楽が点々と聴こえ始める。演奏の巧拙こうせつは判らないけれど、楽しそうな気分が伝わってくる私の好きな音。まるで歓待かんたいの音楽のように思えて調子に乗ってスキップをしてみたけれど、水たまりに映った姿が思いのほか間抜けで、自分に冷めてしまった。冷静になろう、こんな不細工な行進に添えられる音楽なんてない。そう自戒をして呼吸を整えて、普通の一歩を踏み出す。


 今日は目的があってここに来た。三階の奥、存在を秘すように他の部室から離れた場所にある、人間研究会だ。噂によれば部員は一人。こんな静かな場所で超少人数だなんて、これ以上あたしの性分に合う部活はない。活動内容は知らないけれど、運動部でさえなければよいのだ。宿題と暇つぶしに集中するための居城きょじょうとして存分に利用してやろう。そんな動機で見学に来た。


 部室の前に立つ。

 案の定、誰の声もきこえない。

 良い。期待した通りの環境だ。


「失礼します。見学に来ました」


 軽くノックをして声をかける。

 10秒ほど、不安になるがあいてから返事があった。


「どうぞ」


 一言で感じた、上級生らしさ。

 優しくも威厳がある、そんな先輩のイメージを体現たいげんしたような声に緊張を得て、おそるおそるドアノブに手をかける。

 建て付けの悪いドアが嫌な音を鳴らしながら開き、挨拶をしようとした瞬間、その先に広がる光景に言葉を失った。


 ただ狭くて古いだけのなんの特徴もない部室の、その窓際に立つ一人の輝きが異彩いさいを放っていた。

 羨ましいほどに綺麗なストレートヘア、すっと伸びた背すじ。あたしと同じ地味な紺の制服もまるで別物だと思える、美しい後ろ姿。

 そんな芸術品のような人が振り返り、私と目を合わせた瞬間だった。

 

 ぽとり。


 一滴の涙を落とした。

 端麗たんれいな眉も、小さなほくろを携えた目元も動かさず。


 ゆっくり、ゆっくり。


 めがあまい蛇口のように。


 ぽとり、ぽとり。

 一滴、一滴。


 黒く深い瞳が、静かに波立つ水面の向こうから私を捉えて離さないまま、ただ雫をこぼしている。

 

 なにがなんだか理解できず、その姿からにじみ出る不思議な魅力に意識のコントロールを奪われ、ただ彼女を見つめ、廊下と部室の間で立ち尽くす。

 傾き始めた日を儚い輪郭としてまとい、微風に揺らぐ長髪は繊細で、そのまま世界へ溶け入りそうだ。

 なにをすべきか、なんと話しかけるべきか、その答えを探すことすらはばかられた。この光景はこれで完成。私の作為は汚れと同義。そんな考えが私の思索を止めた。 

 

 非道徳、非常識、愚か者。

 様々なそしりが脳裏のうりを駆け巡るが、全く気にならない。この美しさに捕らわれて沈んでいきたい。今の私にはそれだけだ。

 経験したことのない熱が身体の底から湧いてくる。手の平が熱くなって、心臓の拍動が走り出した。

 

 平穏無事の高校生活を送ろう、なんて決意は簡単に壊されてしまった。地面に散った桜の最期なんて比ではなく、原形すら見失うほどに、まばゆいなにかに塗りつぶされて。

 視界の端で揺らぐ夕陽すらかすませる強い輝きに、心を奪われて。


 「綺麗——」


 私の知らない私が言った。

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