第17話 誰かの記憶

 私の眼前には、見知らぬ景色が広がっていた。

 以前に訪れた記憶はない。夜空の中でひと際明るい輝きを放つ玉兎の下には、無数の樹木で身体を覆う山と、その傍で緩やかな流れで海への旅路を進む川。鼓膜を揺らす心地よい水音を奏でる川を挟んだ山の反対側には小高い丘が聳え、その平坦な頂上に、学校と思しき木造の建物が立っていた。既に閉校しているらしく、校舎の周囲には雑草が思い思いに生い茂っている。また、幾つもの窓ガラスが割り砕かれており、丈の長い雑草が生える地面には新帝国軍の旗が幾本も突き立てられていた。まるで、ここが戦争の基地として利用されているように。

 これは現実ではなく、夢。

 明晰夢とでも言うのだろうか。私は今、自分が夢の世界にいることを自覚している。定石どおりに頬を抓ってみるけれど痛いのか、痛くないのか、判別がつかない何とも言えない感覚が走った。

 やるだけ無駄と察し、私は自分の頬から手を放し、一歩、また一歩と足を進めた。夢の中だというのに、雑踏を踏む感触が妙に現実的。肌を撫でる空気も冷たく、つい、ここが夢ではなく現実なのではないかと錯覚してしまう。

 いや、違う。ここは現実ではなく夢の世界だ。そう自分に言い聞かせると共に、何故自分がここにいるのか、という疑問を抱いた。

 さっきまで透花様の屋敷で依頼についての報告と、彼女の悩みについて話していた。夢を見ているということは、現実の自分は眠ってしまっているということ。そこに至るまでの敬意を思い出すことができない。直前の記憶が、綺麗に消えてしまっているようだ。


「! あれは……」


 考え事をしながら歩いていると、視線の左斜め前方にとあるものを見つけて私は足を止めた。

 視線の先にあったのは、一本の桜の木だった。川沿いの土手に立つそれは枝の花を満開に咲かせており、その美しい姿を水面に映している。また、早くも命を散らした花の花弁は川に落ち、水と共に海への旅路を共にしていた。

 その場に立ち尽くしていた私は数十秒の後、川沿いへの道を下り、美しい桜へと近づいた。

 古来より人々を魅了してきた満開の桜。普通なら、私も咲き誇る花々を見て感動し、感嘆の声を漏らすべきなのだろう。春の風物詩を前に、朗らかな気持ちになってもいい。

 ただ……何故だろう。頭上の花々を見上げ、逞しい幹に触れた私の心は──悲しい気持ちで支配されていた。感動でも、喜びでもない。悲哀の気持ちは時間の経過と共に大きく膨れ上がる。

 自分の頬に涙が伝う感触を覚え、同時に、思った。

 現実の世界に戻り、この場所に行かなければ。

 何故そう思うのかという、理由はわからない。どうして現実世界に同じ場所があるのかという確信を抱くのかも。

 ただ、行かなくては。胸の内を支配していた悲しみが薄れる代わりに、その使命感が徐々に強くなっていく。


「大丈夫。絶対に、見つけてみせるから」


 触れていた桜の木に呼び掛けるように呟き、私が頷いた瞬間──視界が白に包まれ、私の意識は現実世界へと浮上した。

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