EX.あたしの彼氏は文学青年6
あたしは夜の街を必死に走っていた。
不安で不安で押し潰されそうな気持ちで、それでも一縷の望みを捨てきれないまま、息を切らして足を動かしていた。
酔いが抜けてないのに走ったせいで頭がガンガンと痛むけど、そんなこと気にならないくらいの絶望感が胸を支配していた。
必死に走って向かっている先はユートの家だった。
サークルの飲み会で盛大にぶちまけた後、心配したサークルの他のメンバーが駆け寄ってきて介抱をしてくれた。気持ち悪くてすぐには動けなかったあたしの代わりに店員を呼び、床の吐瀉物を片付け、あたしを少し離れたところに寝かせて。
あたしを移動する時に男の先輩たちが何人か寄ってきて担いでくれようとしたけど、男が触れるたびに気持ち悪くてえずいてしまって、あたしの世話は最後には女の子だけがやるようになってた。
女の子に触られても何にもならなくて、酔いでぼんやりした頭で「男に触られたら気持ち悪くなって吐いてしまう」ということをなんとなく理解していた。
それから少しだけ落ち着いた後、あたしは顔を洗って口を濯いで吐いた後の不快感をなんとか洗い流して、飲み会の会場を後にした。
心配した友達が何人かついて来ようとしたけど、あたしはどうしても一人になりたくて、申し訳ないけど断った。
あたしの胸の中は「ユートに触れられた時に同じように吐いてしまったらどうしよう」という不安でいっぱいだった。
ユートに触った時に吐いてしまったらどうしよう。
ユートに触った時に気持ち悪くなったらどうしよう。
ユートと一緒にいられなくなったらどうしよう。
ユートと一緒にいることがホントに幸せだった。
ユートと一緒にいることが当たり前になっていて、ユートがいない生活なんて考えられなかった。
ユートと一緒にいられなくなることになる? ユートに触れられなくなる? そんなのダメだ。そんなことになったらあたしは耐えられる自信がない。
どうして男に触れられないの? どうしてこうなったの? なんで? なにが悪かったの?
頭の中は不安でぐるぐると回っていて、なにも答えなんて浮かんでこない。
『自分の気持ちがコントロールできる間にどうにかしとくんだったって後悔しても知らないからね?』
ふと、高校の時梓に言われたことを思い出した。そんなことなるわけないじゃんってあの時は否定したけど、梓の言ってることが正しかったんだって。
いつの間にか目からはとめどなく涙が流れていた。あたしは流れる涙を拭うこともせず、ただひたすらにユートの家を目指していた。
——ユートなら大丈夫だって思いもあるんだ。
今までユートに触れてこんなことになったことなんて一度もない。あたしの体がユートを受け入れないなんてあるわけない。
そういう思いも確かにあたしの中にはある。
でも、現実としてあたしは男に触れると吐いてしまうようになってしまっている。ユートは男だ。ユートは大丈夫って思いがあっても、ユートも男だから、あたしは触れなくなってしまったんじゃないかって思いも強くなってしまう。
あたしの心はぐちゃぐちゃだった。
ガンガンと痛む頭の中、あたしはユートの家のインターホンを押した。
もう時刻はとっくに深夜と呼ばれる時間になっていて、後から思えばタクシーでも使えばよかったってわかるんだけど、この時のあたしはそんなこと思いつく余裕なんてなくて。
こんな時間に連絡もなしに家に行くなんてどう考えたって非常識で迷惑な行為なんだけど、あたしの頭の中にはそういう考えもすっかり抜け落ちていた。
インターホンを鳴らしてユートの家のドアが開く間、あたしの頭の中は真っ白だった。酔ったのに全力で走ったせいで足元もふらついていて、傍目から見ても酷い状態だったと思う。
でも、あたしの中で一つだけ確かなことがあったとすれば、ユートは絶対にドアを開けてくれるという確信だけだった。
「……佐藤さん? こんな時間にどうしたの?」
ドアを開けて不思議そうな顔をしたユートが見えた瞬間、あたしは転がり込むようにユートの家に上がった。
まだユートに触れられるかどうかなんて確かめてないのに、ユートの顔を見た瞬間あたしの中にあったかい気持ちが広がって、足から力が抜けて、思わず玄関から部屋に続く廊下で倒れ込みそうになった。
「うわ、大丈夫?」
——ユートがあたしの体に触れた。
倒れ込みそうになったあたしを支えるように、後ろから手を回してくれた。
あたしは、なんともなかった。
鳥肌が立つことも、気持ち悪くなることも、訳のわからない嫌悪感もなにもなかった。
あたしにあるのは、ユートに触れられた時に得られたのは、ただただひたすらにあたしを包み込む安心感だけだった。
ユートの手はあったかかった。
もっともっと触れたくなる温もりがあった。
ユートに支えられたあたしはそのままユートの部屋に通されて、座らされて、水を差し出され。何も聞かずにいつものように受け入れてくれたユートに、あたしは泣きそうになった。
でも、こんないきなり泣き出すなんて絶対おかしいから、あたしはなんとか泣くのを耐えて水を飲み込んだ。
そうして、ちょっとだけ時間が経つと、酔いが回ってフラフラだった上に大きな大きな安心感に包まれたあたしは急に眠くなって。
ユートがあたしのバッグの中から化粧落としを取り出して、あたしの化粧を落として、肩を貸してくれてベッドに寝かせてくれて。
その日のあたしの意識は、ユートの心配そうな顔を見たのを最後に途切れたのだった。
翌日目が覚めると、ユートはまだ目が覚めていなかったようで、床の上で寝ている様子だった。
ユートの寝顔を見て、あたしの心は限界を迎えていた。
ユートが好きだ。
ユートと一緒にいたい。
ユートと離れるなんてあり得ない。
ユート以外何もいらない。
頭の中も心の中も体中ユートのことしかなくて、あたしは膝を抱えてうずくまった。
ユートのこと以外、何も考えられない。
ユートが好きって気持ち以外が今のあたしの中に存在しない。
この時のあたしはホントにユート以外のことが自分になくて、近くに転がっていたスマホを手に取ったのも無意識の行動だった。
スマホに届いていたサークルの人たちの心配のメッセージ。目ではとらえているその情報が、あたしの中に全く入ってこなくて処理できない。ユート以外が入り込む余地がない。
そうやって全く処理できない情報を映し出しているスマホを眺めていると、ユートが起き出してきた。
「おはよう」
「おはよう」
ユートが起き抜けに挨拶してきた。
たったそれだけのことがめちゃくちゃ嬉しくて、あたしはスマホからユートの方に顔を向けて挨拶を返した。
それからユートは昨日と同じように冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してあたしに渡してきた。
あたしはそれを受け取ると蓋を開けて一気に飲み込む。今更ながら喉が渇いていることに気づいて、三分の一程度を一息に飲み干してしまった。
「それで、何があったの?」
あたしがペットボトルを口から離したタイミングでユートが質問してきた。
「ねぇ」
あたしはそれに答えなかった。
手に持っていたスマホをベッドに置いて、言葉を続けた。
「あたしと付き合って」
ユートの息を呑む音が聞こえた。表情が徐々に変わっていって、あたしは咄嗟にユートの腕を握りしめた。
「お願いだから、何も言わずにあたしと付き合って」
——あたしは卑怯者だ。こういう言い方をすればユートはあたしのことを受け入れてくれるって知ってる。ユートはあったかくて優しくて、出会ってから一度だってあたしのことを否定しなかったし、傷つくことを言ってこなかった。
ユートと一緒にいたい。
ユートと離れたくない。
あたしは自分の中からとめどなく溢れてくるその気持ちを押し留めることなんてできなくて、ユートがあたしのこと拒絶することなんてないって知っててそれを利用してる卑怯者だ。
でも無理だ。無理だったんだ。この気持ちを押し込めることも閉じ込めることも初めから無理だったんだ。
そんなあたしをユートは眺めて、それからいつも通りの穏やかな顔に戻って。
「——わかった。これからよろしくね、佐藤さん。いや、付き合うことになるんだったら美咲って名前で呼んだ方がいいかな?」
ユートのその言葉を聞いて、あたしは泣き崩れてしまった。
美咲の情緒はぐちゃぐちゃです。かわいいですね。
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