第37話:決断2

アバディーン王国歴101年1月1日、新穀倉地帯、深雪視点


 カーツ様の呪文が終わると、私の身体は一気に大きくなりました。

 同時に、忘れていた苦痛に満ちた嫌な記憶が一斉に戻ってきました。

 その痛みと嫌悪を我慢できず、その場で吐いてしまいました。


「大丈夫ですか、これで口を注いでください。

 吐く物がなくて苦しいのなら、飲んで吐いてください。

 本当に大丈夫ですか、聖女深雪様?」


 まだ頭も心も混乱してしまって、直ぐに返事ができません。

 抱きしめるように支えてくれるカーツ様に、心臓が破裂しそうです!

 救国の旅の間は、聖女と後見人という立場を貫かれていたのに……


 そうですね、徐々に記憶が整ってきました。

 あの頃の私には婚約者のチャールズ王太子がいたのでした。

 カーツ様にも婚約者のカミラ侯爵令嬢がいたのでした。


 私は自分の気持ちを押し殺して、言動にはとても注意していました。

 カーツ様の気持ちは分かりませんが、婚約者のいる公爵公子として、恥ずかしくない言動をされていました。


 でも今は、私は婚約破棄追放を言い渡された身です。

 カーツ様も同じようの婚約破棄追放を言い渡されていました。

 もう、婚約者のいない公子として行動できるようになられたのですね。


 とはいえ、あまり急に態度を変えられるのは心臓に悪いです!

 恥ずかしくて、胸がドキドキして、顔が真っ赤になってしまいます。

 全身がカァ―と熱くなって、頭がおかしくなりそうです!


「放してください、近づかないでください、恥ずかしいです!」


「申し訳ありません、ですが、これだけは持たれてください」


 カーツ様が革袋に入ったワインを持たせてくれます。

 砂糖と薬草を加えたカーツ様お手製の薬用ワインです。

 カーツ様のお優しい心に、邪険にした自分の胸が締め付けられます。


 ですが、しかたないではありませんか。

 救国の旅では、恥ずかしい姿をたくさん見られてしまっていますが、それでも、嘔吐した姿と見られ、嘔吐物の臭いを嗅がれるのは嫌なのです!


 日夜の戦いで全身に酷い傷跡が残る身ではありますが、それでも、恋する人に嘔吐する姿を見られるのも臭いと思われるのも嫌です!


 とても貴重なカーツ様お手製の薬用ワインですが、嘔吐物の臭いを消す為ならしかたがありません、口を注いで吐くしかありません。


 地に広がる嘔吐物を流すのにまで、カーツ様お手製の薬用ワインを使う訳にはいきませんが……


「きれいにしろ、クリーン」


 哀しく情けない事ですが、私には多くの魔術を使う才能がありません。

 聖女として無理矢理召喚されたのに、使えるのは腐敗獣を消滅させる特別な魔術と、この国や王都を守る結界を展開する魔術だけです。


 ですから、救国の旅でも腐敗獣以外の敵には何の役にも立ちません。

 ずっとみんなの影に隠れて守られるしかありません。

 皆が命懸けで戦って、腐敗獣以外を退けてくれてから戦うだけです。


 今も私が大地を嘔吐物で汚してしまったのをカーツ様が奇麗にしてくれます。

 こんな簡単な魔術ですら使えないのに、カーツ様は私の事を聖女だと称えてくださるのです。


 私だって人の顔色をうかがうのが得意な日本人です。

 児童養護施設で育ったので、大人たちの顔色を伺うのは無意識にやっていました。


 だから、チャールズ王太子殿下が、私の事を単なる性欲のはけ口として見ていた事にも、早くから気が付いていました。


 救国の旅で、女性としては哀しむべき傷を負った事で、チャールズ王太子殿下の欲望が小さくなっていくのに、複雑な想いにもなりました。


 獣欲の対象にされる事はとても不愉快でしたが、女性としての魅力が無くなった事は、純粋に悲しくもありました。


 特に、カーツ様に心惹かれるようになってからは、チャールズ王太子殿下の興味が小さくなるたびに、とても複雑な思いになりました。


 ただ、チャールズ王太子殿下とカミラ侯爵令嬢の態度が疑わしくなったのには、内心とてもうれしかったです。


 宮廷内の謀略で、カーツ様とカミラ侯爵令嬢の婚約が破棄されるかもしれないと思うと、抑えようもない喜びが湧き上がってきたのです。


 ただあの当時は、カーツ様はチャールズ王太子殿下とカミラ侯爵令嬢の事を、全く疑っておられたかったように見えました。


 あまりにもお可哀想で、何度2人の仲を言いそうになったか分かりません。

 でも、私の感じた事だけで、何の証拠もない事でしたから、言えませんでした。

 それに、カーツ様に陰で人の悪口を言う女だと思われたくなかったのです。


 全てを知った今なら分かります。

 カーツ様は、チャールズ王太子殿下の事もカミラ侯爵令嬢の事も、何とも思っていなかったのです。

 

 いずれは罰を下す心算で、好き勝手させておられたのです。

 向こうから婚約破棄をしてくれた方が、手間もかからず不義密通の証拠にもなると考えておられたのです。


 カーツ様は私の事をどう思っておられるのでしょうか?

 単に同情してくださっているだけなのでしょうか?

 少しは私の事を女として意識してくださっているのでしょうか?


 消されていた10年の記憶が戻って、12歳の小学6年生から、22歳の女性としての感覚が戻ってきました。


「カーツ様、全ての民の食糧を与えたいのですが、宜しいですか?」

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