第2幕『フェイブルマンズ(2022)』

 スティーヴン・スピルバーグ監督作品。わかってたけど素晴らしかった。フェイブルってどういう意味かと思えば、「fable 寓話、作り話」って意味らしい。


 主人公サミー・フェイブルマン(≒スピルバーグ)の大伯父が、「俺たち芸術家はジャンキーなんだ」と言い、サミーを映画の道へけしかける。ジャンキーである芸術家たちは、周囲のひとを傷つけたり遠ざけたりすることになり、結局深い孤独のなかへ沈みこんでゆく。ジャンキーは二者択一を迫られる。ジャンキーでないものは、たいてい中庸の生活を選び、人として比較的幸せに生きられるかもしれない。が、ジャンキーは生まれもって孤独の生を強いられる。ジャンキーの道にはつねに茨が茂り、進めば必ずだれかの血が流れる。それが芸術という営為の本性であるのだから、ジャンキーの宿命と言うほかない。


 映画制作の道を進もうとするサミーに対し、ジョン・フォードがここから先は茨の道だと釘を刺した後、次のようなことを言う。「画面のなかの地平線が、上もしくは下に位置する画は面白い。だが、地平線が真ん中にあるとつまらなくなる」彼の言葉に勇気づけられ、跳ねるような足どりで茨の道を進んでゆくサミー。カメラはその後ろ姿を映す。とつぜんカメラが上方へ移動し、地平線は画面の下方になる。そして終幕。


 ジャンキーは二者択一を迫られる。真ん中は無い。上か下か。なればこそジャンキーは、家族や友人を滅茶苦茶にしかねない。僕はジャンキーになりたかった。うとうとしているとそれをつい忘れてしまう。孤独とはすでに慣れ親しんだ友達だし、だれかを傷つける覚悟もできているつもりだった。そもそも、だれかを傷つけるためにこそ書いている。僕はジャンキーなんだ、と無理に言い聞かせているだけかもしれない。でもやっぱり、もしこれがなきゃ、こんな世界で生きてく気なんかさらさら起きない。僕はジャンキーがいい。この映画のタイトルが複数形になっているのは、きっとスピルバーグが、観客である僕らもフェイブル(ウー)マンのひとりに数えてくれているからなんだろう。

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