第二章 惹かれずにいられない
第一節 夜ごとの逢瀬
第八話
あのときの少女に、
五年前、清原王は
生真面目な清原王にとって、次期天皇候補としての重圧はとても苦しく、真面目に取り組んでいる分、ときどき逃げ出したくなるのだった。十五歳だった当時、成人の儀が目前に迫り、十六歳になったとき、果たして能力が発現するのかという不安も抱えていた。
清原王の父親であり天皇である
父である
山荘に行くことになったのは、
清原王も
山荘を抜け出して――
美しい泉とそばに群生する花畑を見つけたのも、そんなふうに一人で出かけたときのことだった。一人で泉を見たり花を見たり、そこに飛んで来る鳥や蝶などの虫たちを見ていると、苦しさが遠のくように感じた。
あの日も、一人で泉に来ていた。
鳥が水辺で遊んでいて、飛び去った方を見たら、一人の少女がいた。清原王よりも少し年下に見えた。
「こんにちは! あなた、どこから来たの? この辺の人じゃないわよね」
少女はそう言って笑うと、清原王の隣に来た。
「
「そう! 都から来たのね」
少女は笑った。まだ幼さを残しているけれど、
「ねえ、この泉、きれいでしょう? お花も!」
清原王が黙っていると、少女は花を摘み始めた。そして、花束を作り、自分の髪を結っていた朱色の紐を外して花束をまとめた。
「はい」
少女は出来上がった花束を清原王に差し出した。
「え?」
「あげる。――なんだか、疲れていそうだから」
「……ありがとう」
清原王は花束を受け取った。
ふいに、涙がこぼれた。
「どうしたの? 何か、嫌なことがあるの?」
清原王は首を振った。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、清原王は下を向いた。
少女は清原王の隣に座ると、清原王の頭を撫で、黙って、ただ一緒にいてくれた。
清原王はなかなか涙を止めることが出来なかった。
名前も知らない、初めて会った少女の体温を優しく感じていた。
自分は、この子を、この子が住むこの世界を豊かに出来るのだろうか。
……
清原王の思考が暗く逡巡していたとき、少女が言った。
「ねえ、ないしょなんだけど、枇杷、食べる?」
少女は橙色の実を差し出した。
「あのね、食べると元気が出ると思うの。食べて?」
清原王はためらった。
なぜなら、いま、食糧は充分ではないはずだったからだ。そしてその責任は天皇家にあったからだ。
「でも」
「ないしょよ」
少女はそう言って、清原王の手に枇杷の実を一つ渡した。
「食べよ?」
少女はもう一つの枇杷の皮を剥いた。それを見て、清原王も枇杷の皮を剥いた。少女が口にしたのを見て、自分も口にした。甘さと果汁が口の中に広がった。
「おいしいね。でも、種が大きいのよね」
少女は器用に種を避けて食べ、最後に「種は撒いてみよう」と種を大切そうに手のひらに握った。
あのあと、お互いに名前も名乗らず別れてしまった。清原王は名前を聞けばよかったと、ずっと後悔していた。あのときの朱色の紐も枇杷の種も、ずっと大切にしまってあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます