第五話
「嘉乃。身体に気をつけて」
母は涙ぐんでいた。
「うん、お母さん」
「お姉ちゃん! お休みの日には帰って来てね」
末っ子の妹が愛らしく言う。
「
「うん!」
「
「分かってるよ」
垂水はそっぽを向いているけれど、その目には涙が滲んでいた。紀乃は、弟も妹も愛しくて、ぎゅっと二人を抱き締めた。
「じゃあ、行くわね」
嘉乃は顔を上げ、最後に父親を見た。父には目で挨拶をした。父も目で返した。
だいじょうぶよ、お父さん。
嘉乃はにっこり笑うと、手を大きく振り、
「嘉乃?」
「
一つ年上の同僚に声をかけられ、嘉乃は現実に引き戻された。
ここは
あまりにも壮麗で壮大で、嘉乃は圧倒されていた。建物も美しいけれど、庭も広く美しく、緑を愛していた嘉乃は休み時間は庭を散歩するのを常としていた。しかし今は仕事中だ。
「どうしたの、ぼんやりして」
「うん、家族のことを思い出していたの」
「そうかあ。……さみしいわよね。わたしも、家を離れて来たときはさみしかったわ」
初瀬は嘉乃より少し前に東宮御所に来ていた。
二人でしばらくそのまま、庭を眺めた。
緑が美しく花も咲き乱れ、
「じゃあ、仕事に戻ろうか」
「うん」
嘉乃は、東宮御所で下級の女官として働いていた。洗濯や掃除が主な仕事で、取り立てて大変なことはなかったが、やはり生まれ育った地が懐かしく思われた。父や母、弟や妹との暮らしをあたたかく思い出すことが多かった。
東宮御所は、嘉乃には不思議な場所でもあった。
文字の力がいろいろなところで使われていて、例えば、夜も文字の力によって灯りがともされていた。その、燃えない橙色の光は優しく、暗闇にやすらぎを落としているように感じた。手をかざすと水が出て来る仕掛けもあったし、掃除はするけれど、基本的に文字の力で御所全体が清浄に保たれていた。
「嘉乃、湯あみに行こう」初瀬が言う。
「うん!」
嘉乃が驚いたのは、温泉が御所内にあることだった。
嘉乃が生まれ育った地にも温泉はあったが、あくまでもそれは天然のもので山の中にあった。でもこの御所内の温泉は文字の力によって、常時温かいお湯がためられているのだ。時間を区切り、交替で入ることが出来た。温泉に入ると、疲れがとれる。
「どう、仕事は慣れた?」
一緒にお湯につかりながら、初瀬が言った。
「うん、だいぶ慣れたかな?」
「よかった! 最初は不安だったでしょう」
「うん」
「わたしも不安だった! でも、意外に働きやすいわよね」
「うん、ほんとうに」
仕事はしやすく、何より働いている人たちがみな、優しかった。
「皇太子さまの
「ないわ。お見かけしたこともないの」
「……実は、わたしもないのよ」と初瀬は笑って「まあ、わたしたち下っ端はなかなかお目にかかることは出来ないわよね」と言った。そして、「でもお優しいのは間違いがないわよ」と真面目な顔で言った。
「うん」
嘉乃はこれまで見聞きした清原王についての評判を思い返した。そのどれも、清原王の人柄のよさや優しさを表すものだった。働き心地のよさも、清原王の意向によるものだと思われた。
「この仕事、いいわよ。仕送りも出来るしね」
初瀬はにっこり笑う。嘉乃も笑い返した。
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