洞の穴

 窓際の席を見つけて座ると、すぐに電車は発車した。


 木枯らしが吹き抜ける住宅街やシャッターの下りた個人商店が綿々と続く横丁、車通りが急に多くなる総合病院など見慣れた街並みが続いたあと、紅葉した木々が疎らに見えてくる。


 次第に木は林へ、そして森へと密度を増していきすっかり電車は森へと囲まれてしまう。森の中を走っているようなものだ。色付いた葉は目を愉しませてくれるものの、森はなお暗く、独自の生態系が暗がりの奥で息づいていた。


 あの人は、これを見ながら何を思っていたのだろうと吉良は想像を膨らませた。くだんの日記がその字面とともに窓に映る。秋も冬も春も夏も、色彩は豊かに移り変わる。が、いつでも暗がりは変わらない。人が立ち入れないような、人の侵入を拒むような暗がりの奥に、どんな思いを馳せたのか。


 声は聞こえていたのだろう。両の耳を覆うような幾重にも響く赤子のあの声だ。暗闇から忍び寄るように聞こえてくる助けを求めるような声。あれは、体に毒だ。切迫感が引き出され、焦りと恐怖とが呼び起こされ、反射的に怒りが沸き起こる。最後には感情が揺さぶられ、心が不安定にさせられ、何もできない無力感に押し潰されそうになる。


 たとえば、一つ一つの声を木のうろに置いていこうとは思わなかったのだろうか。あるいは茂みの中に置いていこうと思わなかったのだろうか。いつまでも飛び交う声を千切って投げ捨てていければ、とは思わなかったのだろうか。


 耳を強く塞げば途端に深閑しんかんに包まれる。車内の喋り声もレールを走る音も、自分の呼吸音も聞こえなくなる。聞こえるのは体内の声、内側が軋む音だけ。闇から呼ぶ声は、もしかしたら内側から聞こえてくるものなのかもしれない。罪から逃れんとする心にくさびを打つように。常に思い出させるために、忘れさせないために。

 

 写真に現像した椿の日記を今一度読む。記録の断片に過ぎない文章と睨み合ったところで今更何かがわかるわけでもないが、カウンセリングを終えたあと、椿が何を考えていたのかは文字の形から透けて見える気がした。


 日記が新しくなるにつれて安堵感が増していく。廃病院の暗闇の中へ『置いてきた』効果が如実に現れていたのだろう。


 当初の予想を遥かに超えて二年もかけて自身の内に宿った声をおろしていった。代わりに心が軽くなったことだろう。体が軽くなったことだろう。


 そして、新しくいろんな音が入ってきたはずだ。


 吉良は僅かに視線を上げた。


 ──見ていたのだろうか、この窓からの景色を。聞いていたのだろうか、電車の音を。

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