記憶の脱落

 すっかり肌寒くなった曇天の下を茶色のチェスターコートを羽織った吉良が歩いていく。車のキーを解除して乗り込むと小さなバッグを助手席に置いてエンジンを掛けた。バックミラーを直すと、左右の安全を確認して発車。緩々と動き出すとスピードを上げて道路に入る。


 目的地は駅だ。併設されているシュークリームが美味しいというカフェで月岡と落ち合い、そこから一人で向かうことになる。「行って、帰ってくる」。その道程を体験するために。


 鬼救寺に向かう道を途中で曲がった先にある駅までは車で約二十分。住宅の間を縫う狭い道路から四車線の国道へ出ると、紅く染まった森をずっと奥にして直進するだけだ。


 月岡との捜査により、今回の怪異で唯一亡くなった少女──内田紗奈の背景が少しずつ浮かび上がってきた。少女は少し前から部屋に引き籠もりがちだったこと。両親は共に生活を支えるために昼夜問わず奔走していたこと。そして、クラスに馴染めていなかったこと。


 表面上はいわゆる「いい子」で通っていたらしく、問題を起こすような記録や話は過去を遡ってもほとんど出てこなかった。一度だけ、学校を無断欠席したこと以外は。そのことを両親が鮮明に覚えていたのは、やはり後にも先にも困らせたのはそのときくらいしかないからだと言う。


「欠席の理由を無理矢理聞き出そうとしたら、怒鳴り声を上げて物を投げつけてきたんです。そこら中にあるもの全部ですよ。テレビや窓も割れて……」


「……反抗期の始まりなのかなと思って……だけど、それきりで。ずっといい子で将来もあったのに……こんな……ことに」


 信号が赤に変わった。前の車の減速に合わせてブレーキを掛けていく。ピンクのボディに貼られた「Kids in car」のステッカーが目に留まった。


 いじめの報告はなかった。報告がなかっただけで実際になかったのかどうなのかはわからないが。異性関係は不明。少なくとも学校の中では特別な交友関係はないと思われた。得られた情報はそれくらいで、子どもを宿した理由や父親の手かがりなど肝心の情報となると空を掴むようなもので何も手掛かりは得られなかった。


 廃病院で赤子の声を聞いたという白坂雪子にも改めて接触した。しかし、本人は怪異に遭ったことは覚えているものの記憶の方はすでに曖昧になりつつあった。他の者にしても違いはあれど同様に記憶の脱落が見られた。


 接触がなくなると人の記憶から抜け落ちていく、消えていく。人の記憶に定着しないというあやかしという存在の性質上、それは致し方ないことではあった。人智を超えた怪異が起こっても人が変わらず営みを続けていられるのは、この忘れる機能にこそあるのだ。


 つまり、結局のところ経緯は不明。なぜ産まざるを得なかったのか、相談できなかったのか、直接的な理由は何もわからないまま。


 わかったことはと言えば、おそらく内田紗奈の周りには誰も心から頼れる人がいなかった、ということだけだ。


 駅の隣のまばらな駐車場に車を止めると、バッグを取り外へ出た。広々とした空間に冷たい風が吹き抜けていく。吉良は首をすぼめながら小さな人の群れに合流し、駅舎へと入っていく。

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