最終報告書

 『餓鬼憑きあるいはヒダル神による一怪異』とラベルの貼られたファイルを捲ると、一番後ろのページに、たった今プリントアウトしたばかりの報告書を入れた。最終報告書だ。少なくとも現時点においては、という条件付きではあるが。


 点と点がどこで結びつくのかわからない。点だと思っていたものが実は過去や未来と線で繋がっており、現在に鮮やかに蘇る。ことあやかしに関して言えばそのようなことは日常茶飯事だった。あやかしに取り憑かれた者は再び取り憑かれやすくなるという話もある。未来のどこかの時点でまたこのファイルが開かれて役立つこともあるかもしれない。昔とは違い、あやかしはもう人間と同じ社会に生きているのだから。


 ただ、願わくば二度と開くことがないよう、と願いを込めて吉良はファイルを棚に戻した。目指すのはあやかしのいない世界ではない。あやかしと人とが共存できる世界だ。恐怖に基づく偏見や差別は根強く残るものの、あやかしの存在が公に認められた以上は歯車は前に進むしかない。前に進めないといけない。


 コーヒーの強い香りがドアをすり抜けて漂ってくる。時計を見るとちょうど休憩を知らせる柔らかな音色が鳴った。机の上を片付けると背伸びを一つして二階のリビングへと向かう。


 ドアを開けるとコーヒーの濃厚な香りが増した。穏やかな空気が流れるなかに優希と愛姫の楽しそうな声が混ざって降りてくる。正面の玄関棚の上に飾られた鬼灯が柔らかく揺れた。


 階段を一歩一歩踏み締めるように上ると、リビングの中央にドンと置かれた家庭用の小さなプールで泳ぐ優希の姿が目に入った。奥に移動したテーブルには木製のコーヒーカップが二つ置かれて、一方の椅子に座る愛姫が穏やかな笑顔を浮かべて我が子を見守っていた。


 優希が泳げることを知ったのは餓鬼憑きを巡る怪異が終わり、帰宅したその日だった。お土産を渡そうとした吉良の腕を引っ張った愛姫がリビングへと連れていき、プールに浮かぶ赤子の姿を見せたのだ。慌てて駆け寄った吉良の顔を見つけた優希は足で水面を蹴って何の苦もなく父親に近付くと、その顔目掛けて水を掛けた。「川姫」の血が早くも発現したらしい。


「お疲れさま」


 そのときと同じ悪戯な笑みが吉良に向けられた。コーヒーを一口飲むと、カップを膝の上に置き前髪をかき分ける。吉良も「お疲れさま」と返すと、空いた椅子に腰掛け湯気の出ているカップへと手を伸ばした。


「やっぱり水の方が落ち着くみたい。泳ぎもどんどん上手になって、さっきまでね、寝ていたんです」


「プールの中で?」


「そうプールの中で。だけどコーヒーを入れ始めたら起きたから、伸也くんに似てコーヒーが好きなのかもしれない」


 一度潜ってぷかり浮かび上がると、優希は不思議そうに吉良の顔を見ていた。川姫は元来水辺に棲むとされるあやかし。水との相性は抜群だ。その性質を引き継いでいるからなのか、優希はどんなに泣いていても水面に体をつけるとすぐに泣き止んでしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る