第31話 壁穴
コホンコホン。
少し前からアランは断続的に咳をしていた。
外套は着ていたが真冬の夜だ。
気温は低く、空気も乾燥している。
ひっそりとしているせいで、咳をする度に実際以上に大きく音が響いた。
「大丈夫ですか、アラン様」
横からエレノアが声をかけてきた。
「アランでいい。俺は君の雇い主でも主人でもない。対等な立場だ。様をつける必要はない」
「……やっぱりあなたは変わった人ですね、アランさん」
アランはしゃべろうとしたが、代わりにまた咳が出て、ひどくむせ込んだ。
エレノアが背中を軽く叩いてくれたが、咳がやむと、今度は「失礼します」と言ってアランの額に手を当てた。
手のひらはひんやりとしていたが、嫌な冷たさではなかった。
「熱はなさそうですが、少し腫れていますね。たんこぶができてるかもしれません」
先ほどぶつけた時にできたのだろうか。
どうりで鈍痛が続くわけだ。
「そのうち咳もたんこぶも治まるさ」
ややかすれ声でアランは適当なことを言った。
咳はともかく、たんこぶの方は治るのに数日かかる。
エレノアはアランから手を離すと、椅子を持って壁側へ移動を始めた。
「おい。まさかまた窓を割ろうとしてるんじゃ」
「違います」
エレノアはステンドグラスの前ではなく、壁近くの書棚の前に椅子を置いた。
何をするのかと見ていれば、エレノアは椅子に立って書棚に手をかけ、わずかな凹凸をうまく利用して書棚のてっぺんに器用に上った。
アランはまたもや嫌な予感に襲われた。
「エレノア。何をしようとしている」
「天窓があります。棚の上から手を伸ばせば届くかもしれません」
たしかにエレノアの言う通り天窓はあるが、アランの位置からだと到底届きそうには見えない。
「よせ。無茶をするな。下りてこい」
「だ…いじょうぶ…です……」
エレノアは怖くないのか、つかまる物もない状態で懸命に伸び上がっている。
忘れていたが、エレノアは路銀も持たずに一人で王都にたどり着いてみせたのだ。
無表情で大人しそうな見た目をしているが、よくよく思い返せば実はかなり行動的である。
アランなど足元にも及ばない。
が、こんなことをして危なくないわけがない。
やめさせようとしてアランが立ち上がったのと、エレノアの体がふらついたのはほぼ同時だった。
「あっ」
エレノアは驚いたように声を小さくあげた。
「エレノアっ……!」
アランはエレノアが置いた椅子に体当たりして横にはじき飛ばすと、背中から落ちてきたエレノアをどうにか受け止めた。
羽のように軽い体を抱きかかえたまま、アランは後ろに倒れ込んだ。
壁に寄せてある書棚に背中を思いっきりぶつけた後、盛大に尻もちをついた。
「いててて…………」
「申し訳ありません、アラン様…アランさん」
「いや、大丈夫だ……それより怪我はないか」
そう言いながらアランが上体を起こそうとすると、鼻先すれすれのところにエレノアの顔があった。
床に仰向けになったアランの体の上に、エレノアが手をついて乗っかっている状態である。
二人ともなぜか同時に固まった。
心音すら聞こえてきそうな近さで互いの視線がぶつかる。
あまりの静寂にこのまま窒息するのではないかと思い始めた瞬間。
ゴゴゴゴゴ。
すぐ後ろで地鳴りのような音が響いた。
何事かと思って振り返ると、アランがぶつかった書棚がゆっくりと回転し、壁にぽっかり大きな穴が出現した。
「これは……」
「隠し扉ですね。さっきぶつかった衝撃で開いたんでしょうか」
いつの間にかエレノアは立ち上がっていて、穴の中をのぞき込んでいた。
アランも立ち上がって同じように首を突き出すと、中は空洞になっていて、細長い石段が下へのびていた。
暗闇で発光する螢石をふんだんに用いているらしく、書庫の中よりも明るく感じるほどだった。
「下りてみますか?」
エレノアにそう聞かれ、アランは黙ってうなずいた。
色々と驚くことがあったせいか、いつの間にか咳は引っ込んでいた。
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