第5話 ふしだらな疑惑

エレノアと話して部屋に戻った後、しばらくしてからグエルが何か用事はあるかと尋ねにやってきた。


特に用事はなかったのでそう答えると、グエルはそのまま部屋を出ていこうとしたが、立ち去り際に一言つけ足した。


「しばらく部屋から出ないほうがよろしいですよ。下でご令嬢が烈火のごとく使用人を怒鳴りつけていますので」


「リリアナ嬢が? 帰ってきた時はずいぶんと機嫌がよさそうだったが」


アランは首をかしげた。


「何があったのかは私もよく存じませんが。遠目で見た限りでは、腹立ちまぎれに折檻を加えているようでした。やられていたのが小枝みたいな体つきの娘だったので、どうにも気の毒で」


アランは目を見開くと、ドアの前に立っていたグエルを突き飛ばすようにして部屋を出た。


「ちょ、ちょっと! アラン様、いきなり血相を変えてどうなさったんです」


後ろからグエルの声が聞こえてきたが、アランは足早に廊下を歩いて階段を下りていった。


一階の居間の前で、使用人たちが固まって遠巻きに中の様子をうかがっていたので、アランも使用人たちの頭越しに中をのぞいた。


「この恥知らずっ」


怒声と共にリリアナの張り手がエレノアの頬を激しく打った。


エレノアは堪えきれずに床に倒れたが、両手をついて立ち上がると、背筋をのばしてリリアナを正面から見返した。


「さっきも申し上げましたが、そんな風に言われる覚えがありません。どういう意味です」


エレノアの頬は真っ赤になっていたが、態度は落ち着いていて、むしろ責められているのはリリアナではないかと錯覚しそうになるほどだった。


けれどその冷静さは、かえってリリアナの神経を逆なでしたようだった。


「とぼけるつもり?」


リリアナはエレノアの髪をつかむと、激しく揺さぶった。


いくらなんでもやりすぎだ、とアランは思った。


よその家のやり方に干渉する気はなかったが、アランは使用人の垣根を割って進むと、居間に入ってリリアナの手をつかんだ。


「リリアナさん。いったいどうしたんです」


怒りに我を忘れていたリリアナが、冷水を浴びたように硬直したが、エレノアの髪から手を離すと、声を震わせた。


「アラン様。この女をかばうおつもりですか」


「そうではありませんが。ただ詳しく言い分を聞いてから叱るのでも遅くはないかと」


「聞くまでもありませんわ。私の侍女が一部始終を見ていたんですもの。アラン様だって無関係ではありませんのよ」


居間の壁際には、今朝アランの部屋に朝食を運んできた使用人が、先ほどから一人だけ離れて立っていた。


アランと目が合うと、その使用人は意味深な笑みを浮かべた。


嫌な笑い方だ、とアランは思った。


「アラン様。ご滞在のお部屋は三階でしたわよね。なのにアラン様が先ほど二階の部屋から出てきたと侍女は申しておりますの。その後、同じ部屋からエレノアも出てきたとか」


リリアナはそこで一度言葉を切ったが、リリアナが何を言わんとしているのか、想像には難くなかった。


「あなたの考えているようなことはしていない」


アランは冷ややかな声で答えた。


「そうでしょうか? 二人が出ていった部屋の床に、こんなものが落ちていたそうですわ」


そう言ってリリアナが差し出したのは、細いリボンの紐だった。


思わずアランがエレノアのことを見やると、エレノアはふいと視線をそらした。


それがいかにも「やってしまった」という感じの、ばつの悪そうな顔だったので、アランは内心大いに舌打ちしたくなった。


リリアナは糾弾するような目つきで二人のことを見ていたが、なぜかここで急にワッと泣き出した。


勘弁してくれ、とアランは叫びたくなったが、リリアナを放っておくわけにもいかず、とりあえず手を引いてソファに座らせると、間が悪いことに、騒ぎを聞きつけたリリアナの両親二人がやってきた。


泣いている娘の姿を見て、奥方はソファにかけ寄ってきた。


「まぁまぁ。どうしたの、私の可愛いリリアナ。何があったのか話してちょうだい」


リリアナは顔を上げると、母親の胸にしがみついて泣き叫んだ。


「エレノアがアラン様を誘惑したの。私、お客様の名誉のためにエレノアを叱っていたのに、アラン様はエレノアをかばって私のことを非難なさるの」


そう言うと、リリアナはいっそう激しく泣きじゃくった。


奥方は半分もらい泣きしながら娘の背中をさすった。


「かわいそうに。あなたみたいに純真な心を持っている子には、耐えがたい出来事だったでしょう」


リリアナはほんの少しだけ落ち着くと、エレノアを指さして母親にわめいた。


「お母様、お願いよ。あの女をすぐに追い出して。あんな汚れた恥知らずの人間が同じ家の中にいるなんて、考えただけで耐えられないもの」


「もちろんよ、リリアナ。絶対にそうすべきだわ。ねぇ、あなたもそう思うでしょう?」


奥方は、ソファのそばで右往左往していた主人に同意を求めた。


「あ、あぁ。そうだな。うん。それがいい」


主人がこくこくうなずくと、奥方はリリアナに向けていた聖母のような表情を一変させ、冷ややかな顔をエレノアに向けた。


「ということよ。わかったら今すぐこの屋敷から出ておゆき」


エレノアは奥方の一方的な通告に対して一言も反論せず、ふらふらの体で居間を出ていった。


アランは苦々しい思いで口を開いた。


「失礼を承知で申し上げますが、エレ…あの娘を一方的に解雇なさるというのは、いささか行き過ぎでは?」


「たかが使用人の分際で、そこまでしてやる必要はございませんわ。むしろ娘に悪影響を与えるような人間は親が積極的に排除しませんと」


「しかしリリアナさんは誤解している」


アランはなるべく穏やかに言ったつもりだったが、リリアナは恨めしそうな視線をアランに向けると、嘆願するように母親の腕へとしがみついた。


奥方は娘の肩を優しく叩いた。


「もしあなたが個人的な感情で我が家の使用人をかばっているのなら、ちょっといただけないですわね」


「どういう意味です?」


感情とは裏腹にアランの顔はとてつもなくにこやかだった。


「ほほほ。私の口からはとても申し上げることができませんわ。淑女のたしなみに反しますので」


奥方も負けず劣らずのふてぶてしい笑みを浮かべていた。


そばでずっとおろおろしている主人が「ひっ」と奇妙な声をもらしたが、気にする者は誰もいなかった。


ふう、とアランは大きく息を吐き出した。


「あなた方の厚意にすっかり甘えてしまい、長居しすぎたようです。ちょうど皆さんおそろいだ。ぶしつけではありますが、ここで失礼させていただく」


アランは踵を返して居間を出た。


部屋の外にはグエルが立っていて、一家との会話をずっと聞いていたらしかった。


アランは闊歩しながらグエルに短く命じた。


「部屋から荷物を引き上げて、すぐに出発するぞ」


「けれどもう夕刻です。近くの街に到着する前に完全に日が落ちてしまうかと」


「なら野宿でいいだろ」


階段を上りながらぞんざいに答えると、グエルが悲鳴のような声で抗議した。


「もしそんなことをアラン様にさせたら、私が公爵様にお叱りを受けてしまいますっ」


アランは階段の途中で立ち止まると、振り返ってグエルを上から見下ろした。


「いいか、よく聞け。俺は貶められてまで、この家の人間に宿を乞うつもりはないぞ。ここに残りたければおまえだけ残れ。俺は一人で出発する」


グエルは海老のように腰を反らせて何か言いかけたが、ぐっと言葉を飲み込むと、しおしおとうなずいた。


「かしこまりました……でもまずは馬車が動かせる状態か確認させてください。出発するにしても、それからの話かと」


かっかしていたアランだったが、さすがにその指摘はもっともだと思ったので、階段を下へと引き返し、二人でロブのいる庭へ向かった。


納屋の前では、ロブがまだ作業をしていた。


グエルがロブに事情を手短に伝えると、ロブは片眉をはね上げた。


「ずいぶんと急な話だな。まぁでも点検も終わったところだ。いつでも動かせるぞ」


その言葉を聞くと、グエルは荷物を回収しに屋敷の中へ取って返した。


こういう時、あまり自分が役に立たないという自覚のあるアランは、そのままその場で待機することにした。


ロブは道具を片付けていたが、手を動かしながらアランに話しかけてきた。


「あんたらが来る前、エレノアがここに来た。別れの挨拶だけ言って門から出ていったよ」


アランはなんと言えばいいのか困惑したが、ロブは訥々と語り出した。


「あの子が屋敷にやってきてすぐの頃、外へ抜け出すのを見つけたことがあってな。気になって後を追いかけたら、橋から川に飛び込もうとしていた。止めに入って引きずり戻したら、泣いて責められたよ。どうして死なせてくれないんだって。なんとか事情を聞き出した俺は、エレノアに王都のことを教えた。家族の後追いなら、敵を見つけてからでも遅くはない。橋から飛び降りるんじゃなく、橋を渡って王都に行けと」


「どうしてそんないい加減なことを言った!」


アランは思わず声を荒げた。


王都に行ったからといって、敵の情報が手に入るとは限らない。


国の人口を考えれば、砂浜から一粒の砂を拾い上げるような確率に等しい。


永遠に見つからない敵のことを考え続けるのだとしたら、それはそれで生き地獄ではないか。


ロブは当時のことを思い出しているのか、遠くを見るように目を細めていた。


「弁解するつもりはない。でもあの時の俺はああ言うしかなかった。エレノアは絶望して生きることに疲れ果てていた。孫みたいな年頃の娘がだぞ? 目を離せば、すぐにまた同じことを繰り返すと思ったんだ。怒りでも復讐でもなんでもいい。あの子には生きる理由が必要だったんだ」


アランは押し黙った。


言い返すこともたぶんできたが、自分のような薄っぺらい人間が何か言ったところで、それはただのきれい事にすぎないような気がしたのだ。


ロブはアランの考えていることがわかっているようだった。


「あんたは俺にもずっと礼儀正しかった。金持ちにしちゃ中身がまともな人間なんだろう。あんたを見込んで頼みがある。さっきエレノアは行き先のことを何も言わなかったが、あの子の目を見てすぐにわかった。あれはきっと王都に行くつもりだ。どうせあんたも行き先は同じだろ。途中でエレノアを見かけたら、一緒に連れていってやってくれないか。路銀も持たずに身一つで出ていったはずだから」


そう言うと、ロブは腰を折ってアランに頭を下げた。


アランは口を開きかけたが、そこに荷物を抱えたグエルが現れた。


「お待たせしました。厨房に行って、食料も調達してきましたよ。料理番がこっちの足下を見ましてね。いやはや、王都の高級食料品店なみにせびられてしまいました」


グエルはいつもの調子でしゃべっていたが、アランとロブの間に漂う微妙な空気を感じ取ったらしかった。


「あの、私がいない間に問題でもございましたか?」


「いや、なんでもない。手際がよくて助かる。出発しよう」


アランは馬車に乗り込んだ後、もしグエルが現れなかったら、自分はロブになんと答えていたのだろうと考えてみたが、いつまで考えても答えは出なかった。

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