たとえ幼馴染に百万回告白されたとしても

戯 一樹

第1話



 茜空が広がっていた。



 空に浮かぶ雲までもが夕焼け色に染まっていて、見ているだけで寂寥感を抱かせる。見慣れている光景のはずなのに、こうも目に染みるのはなぜだろう。

 公園のベンチに座りながら、薄手のカーディガンを指の先まで伸ばす。つい最近まで暑い暑いと言っていたのが嘘のように、日が沈むと一気に冷えるようになってきた。きっとこれから、冬に近付くにつれてますます冷える事だろう。

 けれど、目の前にいる小学生くらいの子供達は、寒さなんて知るかとばかりにサッカーに興じていた。この公園にゴールポストはないので、もっぱらボールの奪い合いになっているが、それでも子供達は気にした素振りもなく嬉々としてはしゃいでいる。

 子供は風の子とは言うけれど、あながち間違いではなかったようだ。

「子供は元気でいいねぇ」

 つい年寄りくさい事を言ってしまった。まだそんな歳でもないというのに。



「あ、おじいちゃんみたいな人がいるー」



 と。

 さっき僕が思ったような事をそのまま口に出してきた女性がいた。

「ていうか、そのカーディガンもおじいちゃんが着るやつみたい。よう君、まだ十六歳なんだから、もっと若々しい格好をすればいいのに」

「いいよ、僕はこれで。母さんにもよく精神年齢が八十歳って言われるし、年相応とも言えるでしょ?」

「葉君はほんとに可愛くないなあ。まあ、そういうところも可愛いけれど」

「どっちなのさ」

 そう返すと、女性──もとい幼馴染で同い年の日向ひなたは、可笑しそうに破顔した。

「それにしても、最近冷えてきたよねー」

 言いながら、日向は僕の隣に腰掛けた。

 その際、肩先まで伸びた若干栗色が混じった黒髪から甘い香りが漂ってきた。シャンプーでも変えたのだろうか、いつもとは違う香りだった。

「知ってた葉君? 今度の文化祭、冬みたいに冷えるかもって話」

「そうなの?」

「うん。天気予報でやってたよ。そろそろ暖房が恋しい時期だよねぇ。ファンヒーターとか」

「僕は炬燵こたつ派だから」

「いつものちゃんちゃんこ着ながら?」

「うん」

「……そんな調子だから、おばさんにジジ臭いって言われるんだよー。せめてガウンでも羽織れば?」

「あんなオシャレなもの着れるか。僕はちゃんちゃんこを着ながら炬燵でミカンを食うのが好きなんだ」

「言ってる事がまんまおじいちゃんじゃん……」

 葉君は小さい頃からほんと変わらないねー、と呆れたような口調で苦笑する日向。

「あ、でも炬燵でミカンはわからなくもないかなー。今の時期だと、わたしは焼き芋とか食べたい気分」

「ああ、いいなあ焼き芋。今度の文化祭でもどこかでやらないかな」

「電子レンジでもできるしね」

「そこは断然石焼きの方でしょ」

「……学校の文化祭じゃ絶対無理だよー。だってキャンプファイヤーですら禁止なのに」

「世知辛い話だね」

「そういう問題かなあ?」

 と、その時、不意にサッカーボールが僕の足元に転がってきた。誰かが勢いよく蹴りすぎたのだろう。

 すみませーん、と大きな声で謝る小学生の子に向けて、サッカーボールを蹴り返す。

 ありがとうございまーすとこれまた大きな声でお礼を言ってきた子に手を振って、僕は再度ベンチに腰を下ろした。



「──それで、僕に言いたい事って何?」



 おもむろに本題を切り出す。すると日向は、少し驚いたように眉宇びうを上げたあと、気持ちを落ち着かせるかのように深く呼気を吐いた。

「……急に訊いてくるね。完全に不意打ちだったんですけれど」

「学校が終わってから図書館の近くにある公園に来てくれって言ったのはそっちでしょ? こっちなんて一度家に帰って着替えてきたのにさ」

「……それはわたしも同じだし。この日のためにけっこう気合い入れて着替えてきたし」

「? なんか言った?」

「んもう! 葉君の唐変木とうへんぼく!」

「え、なんでいきなり罵倒?」

 それはともかく! と強引に話を変える日向。

「葉君はもうちょっと空気を読むべきだよ。なんていうか、情緒っていうかぁ」

「そういうのは情緒じゃなくて冗長って言うんだよ」

「むー。葉君は乙女心がわかってないなあ」

「乙女心がわかる僕とか気持ち悪いだけだし」

「あ、それは言えてる」

「こんにゃろう」

 そう睨みを利かすと、日向はケラケラと屈託なく笑い出した。

 なんていうか、こういう子供っぽいところは昔から何も変わらないな、日向は。

「で、もう話せそう?」

「だから急かさないでよー。やっと少しずつ緊張が解けてきたところなんだから」

「よくわからないけど、緊張するような事なの?」

「するよー。だって一世一代の決断だもの」

「へー。なんかそう言われると、こっちまで緊張してきそう」

「しなさい。存分にしなさい。むしろ心せよ」

 などとサムライじみた事を言ったあと、日向は一度深呼吸をしてから、僕と正面から向き直った。

 そして──



「葉君、あなたの事が好きです」



 ザアァ──と木枯らしが吹いた。

 風と共に舞い降りる幾多のイチョウの葉が、僕と日向の視界を一瞬だけ遮る。まるで僕達の表情を隠してくれているかのように。

 そうして、イチョウの雨が止むのを待っていたかのようなタイミングで、日向は再び口を開いた。



「幼稚園の頃から葉君の事が好きでした。これからも葉君とずっと一緒にいたいです。だから、わたしと付き合ってください!」



 日向が言い終えたと同時に、そばのイチョウ並木が再度一斉に鳴り出した。まるで日向の告白を後押ししてくれているかのように。

 しばらく、お互いに口を閉ざす。聞こえるのは依然として鳴り響くイチョウ並木と、子供達のはしゃぎ声だけ。

 二度目の木枯らしは割とすぐに止んだ。そして先ほどよりも微風だったせいか、今度は日向の表情を隠してはくれなかった。

 そうして僕は直視する。日向の耳まで真っ赤になった顔を。

「顔、真っ赤だね」

「う、うるさいなあ。初めて告白したんだもん。赤くなるのは当然でしょ?」

「うん。そうだね」

「ていうか、葉君だって顔真っ赤だし」

「これは夕日のせいだよ」

「あー、その言い方はずるい。だったらわたしも夕日のせいだよ」

「日向はさっき告白したせいだって自分で言ってたじゃん」

 言い返すと、日向が「むー」と不満気に唇を尖らせた。

「あーはいはい。告白したせいですー。葉君に告白したせいですー」

「子供みたいな言い草だね」

「そうですー。子供ですー。十六歳の子供ですー。それで、大人の葉君はわたしの告白になんて返してくれるんですかー?」



「僕も好きだよ、日向」



 しん、と時が止まったかのように周囲が静まり返った。

 いや、相変わらず木枯らしは吹いているし、子供達も黄色い声を上げながらボールを追いかけているけれど、その瞬間だけは地球が静止したかのような感覚を覚えた。



 だって「好きだ」と伝えた時の日向が、とても可愛い顔をしていたから──。



 対する日向も、よほど僕の返答が意外だったのか、目を見開いたまま硬直していた。

 ややあって。

「……まーた葉君は、そうやって脈絡なく不意を突いてくる〜」

「イヤだった?」

「う、嬉しかったけどぉ……」

「そう。それはよかった」

「う〜。なんか悔しい〜。本当はわたしが葉君をびっくりさせるつもりだったのに〜」

「なんとなく告られそうな気はしていたからね。だから気持ちの準備は事前に出来ていたよ」

「……それって、前々からわたしの気持ちに気付いてたって事?」

「うん。だって日向、わかりやすいし」

「だったら早くそう言ってよ〜! 最初から言ってくれてたら、今日までずっと告白するかどうかで悩む事もなかったのに〜!」

「いや、僕に告白するかどうかで思い悩む日向が面白かったから、つい」

「も〜! 葉君の意地悪〜!」

 と、猫パンチみたいにポカポカと肩を叩いてくる日向に、僕は「あはは」と笑って受け流す。

「……まあ、葉君にも『好き』って言ってもらえたからいいけどさ」

「これで僕達、晴れてバカップルだね」

「……『バ』は余計じゃない?」

「傍から見たら、完全にバカップルだと思うよ。今の僕達のやり取りって」

「えっ。そ、そうなの……? やだ、急にすごく恥ずかしくなってきちゃった……」

「知り合いに見られてなくてよかったねぇ」

「そういう問題かなあ?」

 と首を傾げる日向に、僕は再び笑みをこぼす。

「何はともあれ、これからよろしくね日向」

 言って頭を下げる僕に、日向も慌てたように居住まいを正して、

「え、あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」

「なんか結婚初夜みたいなやり取りだよね。実際は恋人同士になっただけなのに」

「そ、それを言わないでよー! 余計恥ずかしくなっちゃうでしょー!」

 わたしもちょっと思っちゃったけどぉ、と顔を赤らめながら言葉を紡ぐ日向に、僕は口許を緩める。

 小さい頃から僕は変わらないと日向は言ってくれたけれど、そういう日向も昔から変わらない。

 こういう天真爛漫な様に見えて、案外照れ屋で可愛いところとか、特に。

 そういう彼女だからこそ、僕は日向の事を好きになったのだと思う。

「ねぇ、日向」

 僕の呼びかけに、日向は「んん?」と紅潮した頬を両手で抑えながら、

「何? 今度はどんな言葉でわたしをびっくりさせるつもりなの?」

「日向、僕は……」

 僕は、本当は君の────



「日向、そろそろ帰るわよ」



 と。

 日向に大切な言葉を告げようとしたその時、公園の入り口の方から女性の二人組がこっちに向かって歩いて来た。

「え!? お母さんとお姉ちゃん!? な、なんでこんなところにいるの!?」

 驚く日向に、二人組の片方──年老いた女性が呆れたように溜め息を漏らして、

「あなたの帰りが遅いから、こうして迎えにきてあげたんじゃない」

「やめてよぉ! もうそんな小さい子供じゃないんだからぁ!」

「小さい子供よ。お母さんにしてみれば、あなたはいつまでも小さな子供です」

「んもー。お母さんは心配症なんだから……」

 と嘆息混じりに言いながら、観念したようにベンチからのろのろと立ち上がる日向。

「ごめんね葉君。わたし、お母さんと一緒に帰るね」

「……わかった。またね、日向」

「うん。またね、葉君」

 手を振る僕に、日向は手を振りかえしながらおばさんの元へと歩く。

 そうして僕に向かって会釈したおばさんと共に公園から出て行く日向の後ろ姿を見送ったあと、一人残った壮年の女性に目を向けた。

「お久しぶりです、朝日あさひさん」

「ええ。久しぶりね、葉君」

 日向の姉──朝日さんは、僕の挨拶に笑顔で答えたあとに「隣、いいかしら?」と問いかけてきた。

「ええ、どうぞ」

「じゃあ、失礼するわね」

 そう断ってから、ゆっくり僕の隣に腰を下ろす朝日さん。

「いつ以来かしら、こうして葉君と会って話すのは」

「たぶん、二年振りくらいじゃないでしょうか」

「そう……もうそんなに経つのね……」

 早いものね、と風でなびく黒髪を片手で押さえる朝日さん。

「元気にやってた?」

「ええ。娘も元気に高校に通ってますよ。そういう朝日さんは?」

「元気よ。元気に旦那と子供の相手をしているわ。旦那なんて、もうひとり子供を見ているような気分よ」

「それは、ずいぶんと大きな子供ですね」

「本当よ。共働きなんだから、少しくらいは家事も手伝ってほしいものだわ」

「大変ですね、現役のお母さんは」



「……大変なのはあなたの方でしょうに」



 と。

 軽い気持ちで言ったねぎらいのつもりが、予想に反して朝日さんはそれまでの柔和だった表情を引き締めて、僕をジッと見据えた。

「ねぇ葉君。もうそろそろいいんじゃないかしら?」

「もうそろそろとは?」

「誤魔化さないで。私の言いたい事くらい、わかっているはずでしょう?」

「……こうして日向と会う事が、ですよね」

 ええ、と重々しく頷く朝日さん。

「前から何度も言っているけれど、あの子のために無理をする必要はないのよ?」

「無理だなんて、別に僕は……」

「無理してるわよ。あれから何年経っていると思うのよ。さすがに見ていられないわ」

 言って、朝日さんは悲しげに眉尻を下げながら語を継いだ。



「だってあなた、もう四十二歳じゃない……」



 その言葉に。

 僕は何も言えず、噛み締めるように口を噤んだ。

「日向と別々に住むようになってからもう八年よ? あれから日向の症状は収まるどころか、ますます酷くなる一方だし……」

「………………」

「ねえ、葉君自身もわかっているんじゃない? こんなの不毛な事だって」

「……そうかもしれません。けど、僕はまだ続けていたいんです。日向は、僕の大切な妻だから……」

 言って、僕は左手の薬指にはめている結婚指輪を撫でる。

 もう二十年近く経つ、日向との誓いの証を。



「そう……。日向が若年性認知症になってから十二年近く経つけれど、あなたの気持ちは今でも変わらないままなのね……」



 若年性認知症。

 認知症と言えば、一般的に老人がなる病と思われがちだが、一番若くて十八歳から認知症になるケースがある。妻である日向も若くして認知症になってしまったひとりだ。

 妻の主な症状は、物忘れと徘徊、それと時間と場所がわからなくなる見当識障害。

 特に物忘れは酷く、今では高校生だった頃までの記憶しか残っていない。

 それも、ごく断片的な記憶しか。

「……すごいわね、葉君は」

 と。

 一度深く息を吐いたあとで、朝日さんは微苦笑を浮かべながら、

「日向が認知症になったあとでも、まだそんな風に想い続けられるなんて……」

「そんな、僕なんて全然ですよ……。すごいのはお義父さんとお義母さんの方です。お二人とも、もう高齢なのに日向の介護を毎日されているんですから」

「そうね……私もたまに手伝いに行くけれど、介護の大変さが身に染みてわかったわ。特に、誰も見ていない間に日向が外に出てしまった時は本当に焦ったわ。よく認知症の老人が家から抜け出すって話はよく聞いてはいたけれど、実際にやられると冷静さを失うものね。一瞬で頭が真っ白になったわ」

「ああ、あの時の事はよく覚えています。連絡を受けた時は僕も必死になって探しましたから」

「そうだったわね。そういえばあの時、日向を見つけてくれたのも葉君だったわね」

「ええ。日向が出て行く直前に『あ、そうだ。葉君にわたしの気持ちを伝えなきゃ』と言っていたとお義母さんが口にしていたのが気になって、もしかして告白された時の公園かもしれないと思ってここに来てみたら、日向がここのベンチでひとり座っていたんです」

「あの時は私も驚いたわ。こんなところにいるなんて思ってもみなかったから」

 それからは日向にGPS付きのキーホルダーを持たせるようになったから、ある意味良い教訓になったとも言えるけれど。

 そう苦笑混じりに続けた朝日さんは、ベンチの隅に落ちていたイチョウの枯葉を手に取って、くるくると手で回し始めた。

「でも、まさかこれが毎年続くようになるとまでは思ってみなかったわ。あの子、毎年この時期の金曜日になると、ひとりでこの公園に来ようとするのよね」

「日向に告白されたのが、今くらいの時期の金曜日でしたから」

 昔と何も変わらない夕日を見据えたまま、僕は言の葉を紡ぐ。

「僕との夫婦生活は忘れても、高校生の頃に告白した事だけは忘れないでいたんでしょうね」

「おかげで、こうして毎年日向の後を追わなきゃいけなくなっちゃったけれどね」

「毎年日向のためにありがとうございます」

「お礼を言われるような事はしていないわ。わたし達は家族として当たり前の事をしただけよ」

「家族として、ですか……」

 僕の呟きに、朝日さんは「あっ……」と手に持っていたイチョウの枯葉を地面に落とした。

「……ごめんなさい。今の葉君には辛い一言だったわね……」

「いえ、家族なのに何もできていないのは事実ですから……」

「わたし、そんなつもりで言ったわけじゃ……それにこうして毎年、日向の告白にも付き合ってあげているじゃないの」

「僕にできる事なんて、せいぜいこれくらいなものですから」

「葉君……」

 と、悲壮感に満ちた表情で僕を見つめる朝日さん。

 それから少しの間、気まずげに目線を落としたあとに、

「……やっぱり、あなたは日向から解放されるべきよ葉君。正直、見ていられないわ」

「僕なら平気です。辛いのは日向と、日向の介護をしているご両親の方ですよ」

「葉君、自分を偽るのはやめなさい。辛いなら辛いって言っていいの。でないと、その内あなたの心が壊れてしまうわ」

「偽ってなんていませんよ。僕はなんとも──」

「本当に? 本当に何も辛い事なんてなかった?」

「──────っ」

 朝日さんの心からおもんぱかってくれているとわかる言葉に、僕は声を詰まらせた。

 そして一拍置いて、僕は半ば無意識の内に口を開いていた。

「妻が認知症とわかった時、当時小学生だった娘と三人でなんとか乗り切ろうと頑張っていました。仕事は早めに切り上げるようになったし、時には娘に日向の世話をしてもらう事もありました。大変だったけど、僕達ならきっと乗り越えられると信じていました。でも──」

 今でも鮮明に思い出せる。

 あの時、日向が僕に言い放った言葉を──



「数年経ったあと、娘を指差しながら『葉君! 知らない子が家の中にいるの! 早く警察に通報して!』と半狂乱状態で日向に言われた時は、さすがに堪えました……」



 日向にあれを言われた瞬間、理解が追いつかなかった。

 というより、日向が別の人間のようにすら見えた。



 妻でも幼馴染でもない──まったく知らない別人なんじゃないかと、一瞬疑ってしまった。



 そんな風に娘の事を忘れてしまった日向もショックだったけれど、日向を別人のように疑ってしまった自分自身にもショックだった。

「けど一番傷付いたのは、間違いなく娘の方だったでしょうね。妻に『知らない子』と言われてしまってから、しばらく部屋に引きこもるようになってしまいましたから」

 だから、日向とは別々に暮らすしかなくなってしまった。

 これ以上、娘を傷付けないために。

「その話は私もよく知っているわ。お母さんが泣きながら教えてくれたもの。それで、その後の娘ちゃんはどんな感じ? 日向の事を今はどう思っているのかしら?」

「どう思っているのか、僕にもわかりません。よほどあの時の言葉がショックだったのか、日向と別居するようになってから、一度も日向の話題を口にした事はありませんから」

 それ以外は元気に生活してくれていますが、と続けた僕に、朝日さんは顔を伏せながら「そう」とだけ相槌を打った。

「誰も何も悪くないのに、どうしてこんな悲しい事になっちゃったのかしらね……」

「そうですね……。僕も思いますよ。神様の仕業だとしたら残酷すぎるって」

「それでも、あなたは続けるつもりなのね? いつか日向が高校生だった頃の思い出をすべて忘れるまで」

「はい」

 間髪入れず首肯する。

 日向が認知症になってから、たくさん悲しい事があった。

 別居という辛い決断をせざるえない時もあった。

 それでも──



「たとえ幼馴染日向に百万回告白されたとしても、百万回『好き』だって返しますよ」



 それが僕の誓い。

 絶対に揺るぎない僕の意志だ。

 仮に日向が僕の事を忘れる日が来たとしても、彼女との思い出が消えるわけじゃない。

 まして、幼馴染日向との縁が切れるわけじゃないから──。

「そう……。葉君は強いわね」

「強くなんてありませんよ。さっきも言いましたけれど、僕は僕にできる事をしているだけです」

 そう、僕は強くなんてない。



 だって日向が認知症になってからずっと、こんなにも胸が張り裂けそうなほど心が痛むのだから──



 でも、それを朝日さんに言うつもりはない。

 弱音なら、先ほどのやつだけで十分だ。

 これ以上、日向以外の心労を朝日さん達にかけるわけにはいかない。

 ずっと付きっきりで介護しているお義父さんやお義母さん、そして家事をやりながら日向の面倒を見ている朝日さんの方が、僕なんかよりも何倍も大変な思いをしているのだから……。

「そう言えるだけ十分強いと私は思うけれどね。若年性認知症の人間と付き合うなんて、普通は心が折れても不思議じゃないもの。特に葉君みたいなまだ若い人は」

「朝日さんほど若くはありませんよ」

「ふふっ。そういう冗談が言える内は、確かにまだ大丈夫かもしれないわね」

 ──あんまり弱音を吐かないところが少し心配ではあるけれど。

 そう苦笑混じりに言ったのち、朝日さんは不意に立ち上がった。時間的にそろそろ帰宅するつもりなのだろう。

「それじゃあね葉君。久しぶりに顔を見られて良かったわ」

「ええ。僕も朝日さんの元気そうな姿を見て安心しました」

 またね、と踵を返して手を振る朝日さんに、僕は頭を軽く下げて後ろ姿を見送る。

 そうして完全に朝日さんの姿が見えなくなったあとに、僕はベンチの背もたれにどっかりと上半身を預けた。

 目の前では、変わらず夕日に照らされながら子供達がサッカーボールの蹴り合いをしている。

 幼い頃、よくこの公園で一緒に遊んでいた、いつかの僕と日向のように。

 あの小さかった頃の思い出も、彼女はいつしか忘れてしまうのだろうか──?

「日向……」

 夕日へと左手を伸ばす。決して届かないと知りつつも、この情景を日向に届けたい一心で。

 左手の薬指にはめた結婚指輪が、夕日に照らされて茜色に耀く。



 それはまるで、夕日から大粒の涙が溢れているかのようだった。




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