花崎透旋の意思
透旋は恵まれた環境で育ち、今まで望みが叶わなかったことがない。
そんな透旋が望みを叶える手段を知っているか――と言われたら、ほどほどに知っているとしか答えようがないだろう。
叶える為の手段はいくつも思い付く。
しかし、叶える為に捨てなければならないものを透旋はどうしても、捨てることができなかった。
美歌を手に入れる為には、美歌の心を無視する必要がある。
美歌を手元に置く為には、美歌の意思を無視する必要がある。
透旋が今まで美歌と一緒に居られたのは、偏(ひとえ)に美歌の厚意だった。
美歌が「透旋の傍にいる」と自ら選択しただけで、透旋は美歌の為に何もして来なかった。
そのことに気が付いてから、透旋は足掻くのを止めた。
美歌が大切だ。
美歌だけが、大切だった。
他には何もいらなくて、透旋にとって美歌だけが――生きていることを実感させてくれる唯一の存在だった。
眉目秀麗ではない。聖人君子でもない。
けれど、透旋を透旋として扱ってくれる、ただひとりの女の子だったのだ。
解放して、潔く諦め、美歌から離れることが透旋にできる唯一のこと。
そう考えてしまったとき、透旋は視界に映るすべてが色褪せてしまったような気がした。
――美歌ちゃん。よしかちゃん。
名前を呼べば、振り向いた。
後をついてくる透旋を振り返って、小さく首を傾げた。
その顔が何より好きで、小さい頃は幾度となく名前を呼び続けたものだ。
――さよならだ。よしかちゃん。おれ、ちゃんとあきらめるから、だから
「きらいに、ならないで」
ぽつりと溢れた涙の雫が、抱えた膝の上に落ちた。俯いて嗚咽を漏らすと、ひどく胸が痛む。
泣いてもちっともよくならない。
泣いたらすっきりするだなんて、嘘っぱちだと透旋は毒づいた。
「おうおう。みんなの王子様……いや、教祖様か?教祖がそんな面してりゃ世話ないよなぁ、花崎透旋」
部屋に鍵は掛けていなかった。無断で入ってくるような不躾な人間が、透旋の身内には今までいなかったからだ。
「だれ?」
「……テメェの通う学校の生徒会長くらいは覚えてろよ。全く、噂に違わぬ自由奔放な教祖様だな」
海嶺(あまね)椎名(しいな)――透旋が通う私立高校の生徒会長である。
こんがり焼けた浅黒の肌、つり上がった獰猛な鋭い目、体格の良さは透旋と並ぶと一際目立ち逞しい。
透旋はまるで深窓の令嬢のような儚さとか弱さを持つので、海嶺椎名とは正反対とも言える部類の人間だろう。
他人の家に、しかも自室にずかずかと入り込む無遠慮な海嶺椎名を、ジッと見つめていた透旋は、漸く思い出したように顰めていた眉間を緩めた。
「あ、なんか自転車の……」
「マウンテンバイクって言え」
マウンテンバイク競技のひとつ、クロスカントリーに精通する海嶺椎名は高校生という身分でありながら、開催される大会で軒並み優勝しては、企業からのスカウトをあっさり断り続けている男である。
家が大財閥なのでネームバリューも申し分なく、実家の系列会社からの出資も全て断っている為に、後ろ楯になりたい企業がこぞって声を掛けてくる。
しかし、その全てを「何か面白いだろ」という理由だけで足蹴にしているかなりの捻くれ者だ。
美歌がいつぞや透旋に話したことがあるのでうろ覚えながらも思い出したが、同時に「生徒会は美男美女」という賛辞も思い出し透旋の目は鋭くなる。
「生徒会長が何の用?」
八つ当たりに近い苛立ちを露にして、透旋は海嶺椎名を睨んだ。
「何の用かなんて分かりきったことだろ。学校に来い。第四位」
寄附額順位第四位、花崎透旋。
円滑な学校運営の為には欠かせない寄附の内、上から数えて四番目に寄附額が多いのが――花崎出版、透旋の祖母が設立した出版会社である。
その他にも、コンクールなどで優勝を華々しく飾る若き天才演奏者、花崎透旋にはかなりの数の出資者がついていた。
楽器全般に優秀であり、見目も良い透旋にはコンクールに出る度にスポンサーが増えている。
花崎透旋は気まぐれで、強要されることを嫌う。スポンサーになるにあたって企業はそのことをまず第一に説明されている。
本人との接触はほとんど許されず、というよりも本人が自由過ぎるため、両親を通してのみスポンサーの意志が伝えられる。
それにより、当人はスポンサーの動きには殆んど関知していなかったが、レッスン以外に時間が取られるようになったことには気が付いていた。
まだ高校生だからという一点で、透旋は今の自由を獲得していると言っても良い現状である。
そんな人物が登校拒否をしているとなればバッシングは学校へ向かう。学校側も透旋を、見逃すことは出来なかった。
「分かってるだろ?教祖様。テメェの自由はそう長くねえ」
「…………そうだね」
「引き摺って無理やり学校へ連れていかれるか、来ない理由を素直に俺に話して解決策を見つけてから学校へ来るか。どっちが良いか選ばせてやろう」
結局は学校に行かなければならないということではあるが、引き摺られるのは絶対に嫌だ。
透旋はガタイの良い海嶺を一瞥して、深い溜め息を吐き出した。
「――成る程な。そういう理由なら俺より浩(ひろ)の方が適任だろうな。ちょっと待ってろ、呼んでやる」
透旋の話を聞き終わり、海嶺椎名は携帯を取り出した。
タップする指先はがさつで反応が悪いらしく、なかなか画面は移ろわない。
しかし、そんなどうでも良いことにいちいち透旋は突っ込まなかった。
透旋は物事を深く考えるのが嫌いだった。
美歌が変なポーズをしていても「かわいいな」としか思わなかったのだ。
まさか、足が攣っていたとは思いもよらなかった。
海嶺椎名の不器用な指先より、気になったのは話に出てきた聞き覚えのない人物だ。
透旋の記憶の中にはない。恐らく、美歌からも聞いたことがない。
美歌の話は基本的に全て覚えているので「恐らく」と表現すること自体がそもそも間違いだ。
「……ひろってだれ」
「弟だよ。生徒会副会長、海嶺浩。お前本当に何も知らねえのな」
「知らなくても困らない」
「困れよ。そんなんだから女に捨てられんだよ、タコ」
かなり傷付いた透旋だが、美歌以外の前では素直に感情をさらけ出せないせいで恐ろしいくらいに無表情だった。
ちらり、と透旋を盗み見た海嶺椎名が「人形みてえ」と思うくらいには。
人形の価値を上げるのは、人形を動かす人間だ。
動かない人形に価値なんて存在しない。
少なくとも椎名はそう思う。
人形を鑑賞して楽しむような趣味は椎名にはない。だから、目の前の花崎透旋は無価値なただの少年だ。
戸羽美歌、という少女がいなければ――価値をなくす、憐れな人形。
今の花崎透旋があるのは少なからずその戸羽美歌――今問題になっている女子生徒のおかげだろう、と海嶺椎名は冷静に分析していた。
「あ、浩か?ちょっとお前、花崎透旋の家に来い。璃々(りり)と朱香(しゅか)には生徒会の仕事をやらせろ。アイツら二人なら今日の分はなんとかなるだろ」
押し付けがましい口調で話す強引な海嶺椎名に、通話の相手がどう返事したのか透旋には分からないが――何事もなく携帯を仕舞ったと言うことは、来るのだろう。
「……俺、あまり好きじゃないんだけど」
「ああ?なにが?」
「ヒト。よく喋るヒトは特に」
「へぇ……そりゃ何で」
「うるさいから。目も、口も、うるさくて堪らないから」
ベッドの上で膝を抱え込み小さくなる透旋に、海嶺椎名は口角を上げて悪戯めいた表情を浮かべた。
「お前、特に酷いな。俺も中々だが――荒れた時期の浩より酷い。そうか、嫌いか」
「……なに?」
「まあ、でも……ある程度は、救われてるみたいだな。戸羽美歌に」
訳知り顔でそう言うと、海嶺椎名はベッドにどっかりと腰掛けた。
「嫌になるほど、それこそ寝てる間以外はずっと見られたろ。そんだけ綺麗な顔してりゃあ、視線が鬱陶しくもなる」
「べつに、慣れた」
「違うな。慣らされたんだろ。慣れるしかなかった。そうしなきゃ、発狂しておかしくなっちまう」
「…………」
不愉快な思いを隠しもせず、透旋はそっぽを向いた。
分かったような口を利いて、海嶺椎名が自身を懐柔しようとしているように思えたのだ。
「戸羽美歌はお前にとって、救世主のようなもんだろう。だから離れられない、離れると自分を見失う。……道標にしてるな?お前。戸羽美歌のことを」
「美歌ちゃんのことを語る権利は、あんたにはない」
「戸羽美歌は勘違いをしている。自分は花崎透旋のおまけだってな。――だが、真実は違う。おまけはお前の方だ。戸羽美歌がいなけりゃ何も出来ない」
「……だまれ」
「周りが気付くのも時間の問題だろ。人間を区別しない――差別しない奴なんて、本当に稀少だからなぁ。すぐに惹き付けられるだろうよ、うちの学校には区別されてきた人間が多過ぎるからな」
「黙れッ!」
聞きたくない。知りたくない。
それは、大事にしてきた、真実の箱。
美歌ちゃんが居てくれたから、美歌ちゃんが見つけてくれたから――
ヒトの温かさを知った。
笑う事の喜びを知った。
手を繋げる幸せを、誰かと過ごす安心を、見られることの理不尽を、自分の意思という当たり前のものを、知った。
――透旋、嫌なら嫌って言って良いのに。
――透旋、鼻水が出てる、汚いから早く拭く。
――透旋、一番やりたいことはなに?
――透旋、笑って。楽しい時は笑うんだよ。
だれも、教えてくれなかった。
“当たり前”を美歌ちゃんがくれた。
「戸羽美歌はお前の世界を構築した。俺の世界はある女が作ったが――浩は誰にも世界を作って貰えなかったからな。……孤独ってのは、俺らみたいな人間にはありがちだ。お前だけじゃねえ」
近寄りがたい、畏れ多い、必要最低限の事だけ教えたら他は教えない。
そんな環境で生きてきた“彼ら”は、本来誰もが知ることを知らずに成長することが多い。
その理由はそれぞれ違えど、最終的には“都合の良いよう”に、親に、周囲に、造られる。
現実を知ってから、始めて自分というものが芽吹き、そこからやっと人生が始まる。
ひとりの人間として歩めるようになる。
「ヒトに嫌悪感が拭えないまま、愛想笑いすらできないまま、お前はのうのうと生きてきた。――戸羽美歌はお前の為に、どれだけの犠牲を払ってきたんだろうな。……それなのに、肝心のお前は守られたままで変わらなかった」
「美歌ちゃんは……」
「堪忍袋の緒が切れたんだろ。お前は戸羽美歌に寄っ掛かり過ぎた。……疲れるのは当たり前だ」
追い討ちを掛けるようにそう言うと、海嶺椎名は身体を倒して、ベッドに横向きに寝転んだ。
「まだ間に合う。戸羽美歌の人生を狂わせたくなきゃ、諦めろ」
海嶺椎名はまるで自分が過去他人の人生を狂わせた事があるかのような、重味のある助言を溢した。
「少し、意地悪が過ぎませんか?」
キィ、と小さな音を立てて入ってきた、海嶺(あまね)浩(ひろ)――生徒会副会長は柔和な微笑みを携えて海嶺椎名へ視線を向けた。
「立ち聞きたぁ趣味が悪いな。流石は捻くれ者、腹の中が真っ黒なだけある」
「何か言いましたか?どうも最近は悪態が聞こえないよう慣れたらしく」
「……花崎透旋。さっきの戸羽美歌の話はコイツの入れ知恵だからな。真っ黒だから気を付けろよ」
「人聞きが悪いですね。有益な情報を兄に提供したまでのことです。――信憑性は高いですよ、何しろ戸羽美歌のご両親からも話を聞いてますので」
さらりと情報の提供者を晒すと海嶺浩は透旋に視線を向けて、うっすらと微笑んだ。
「大体の事情は調べました。花崎透旋君、戸羽美歌さんの心境はさっきの話で理解していますか?」
「……うんざりしてるってことは」
「そうですね。概ね、その通りです。君の余りにも幼稚な部分に、彼女は非常に迷惑しています。我慢出来なくなったんでしょう」
「…………」
明け透けな物言いに透旋は絶句する。
その様子を見ていた浩は浅く息を吐き出すと、仕方なさそうに微笑んだ。
「無害な生徒には、それ相応の態度で接しています。君は今、学校にとっても生徒会にとっても有害なので、厳しく接しているだけです。早く無害な生徒に戻って下さいね」
有無を言わさぬ圧力を感じて、透旋は黙り込む。
強烈なのは生徒会長だけではなく、生徒会そのものなのかも知れない。
もっと美歌に話を聞いておけば良かったと、今さらながらに透旋は後悔する。
「さて、そのうんざりしている戸羽美歌さんですが――付け入る隙はあります」
「美歌ちゃんに危害を加えたら許さない」
「今現在、危害を加えているのは君です。自覚して下さい。まずはそこからですよ」
「……わかってる。俺が迷惑になってるのは、充分にわかってる」
「それでも、諦められない。諦めようとはしても素振りだけで、根底では諦められていない。そうですね?」
「諦められる、わけがない」
「ええ、結構です。……僕達みたいな不完全者は唯一を見つけたら、どうやっても離れられない。兄もそうです、勿論僕も。だけど、唯一を自分が傷付けることは――絶対にしたくない」
そうですね?と、答えが分かっている癖にわざわざ尋ねる海嶺浩から透旋は顔を反らした。
「色々と考えてみましたが――実際に見て決まりました。今のまま、学校に来て下さい。それで、充分でしょう」
「……今の、まま?」
「自分では気が付きませんか。……まぁ、その方が良いかもしれませんね。戸羽美歌さんを傷付けることなく、自分が傷付くこともなく、前のように一緒に居たいのなら――明日、学校へ来て下さい」
理解出来ないと透旋の顔にありありと書いてある。海嶺浩は苦笑して、透旋の頭の天辺から爪先までをもう一度見た。
「そうなるまで、そうなっても気付けないまでに、戸羽美歌さんが大事ですか。兄さんと似たタイプですね、一途過ぎて目も当てられない」
「うるせえよ」
寝転がったまま足を伸ばし、椎名は浩の脛を蹴った。浩は脛を蹴られたというのに顔色ひとつ変えず、透旋に微笑み掛ける。
「明日は学校に来て下さい。嘘だと思うかも知れませんが、元に戻りたいのなら来た方か良いですよ。……そして、ただ一度だけ戸羽美歌の前で彼女の“名前”を呼ぶだけで良い」
腕時計を確認して、浩は念押しするように透旋に向かって言った。
「これは忠告ではなく、親切です。明日君が来なくても、近い内に兄が君を引き摺って連れて来るでしょうし」
「そう言う訳だ。明日は来いよ」
よっ、と身体を起こして椎名は浩の横に並ぶ。
黒と白、見た目は真逆な兄弟はそこはかとなく似た雰囲気を醸し出して透旋へ笑い掛けた。
二人が立ち去ってから、透旋は揺れに揺れた。
諦める、解放すると一度は答えを出したのに、海嶺椎名に聞かれて話してしまった時点で、やはり透旋は諦められていなかったのだ。
美歌は、美歌ちゃんは――
「俺のための、女の子」
ずっとそう思っていた。
今でもその考えは変わらないまま、透旋の中にある。
美歌は自分の為に生まれたのだと透旋の奥底にある、確信めいた“何か”が叫ぶ。
けれど、美歌はその確信を、運命を変えられる。
そんな気がしてしょうがない。
だから、不安で、透旋は怖かった。
金色の前髪を払って、ゆっくりとベッドを抜ける。
「明日、会いに行ったら……美歌ちゃんは怒るかな」
漠然と抱えた不安を押し込めて、クローゼットから制服を取り出した。
新品同様の制服を、ベッド脇のハンガーラックに掛ける。
海嶺浩の言うことを鵜呑み伸した訳じゃない。けれど、心の奥は透旋が学校へ行くことを後押ししているような気がした。
「透旋……!今日は、学校に?」
翌日、透旋が緩い螺旋の階段を降りると、エントランスホールで忙しくなく行ったり来たりを繰り返していた透旋の父親は、血相を変えて近付いて来る。
しかし、互いの間には、決して埋まることのない人一人分の距離があった。
以前は美歌が埋めてくれていた空白が、今は侘しい。
「朝食は食べるかい?それとも、車を用意しようか?」
「…………」
自分に触れることのない両親を、透旋は恨んだことはなかった。寂しいとも思わなかった。美歌が抱き締めてくれたから。
美歌が傍に居なくなった今でも、透旋は両親を恨んではいない。けれど、それは透旋が両親に好意的な思いを抱いているからという訳ではなく、単に両親を“他人”として受け入れてしまったからに他ならない。
家族という括りの中から弾き出してしまったが故に、透旋は両親に対して感情を露に出来ない。
「いらない」
それだけ言うと透旋は父親の横をすり抜けた。
香ってくる朝食の匂いも、気遣わしげな絡み付く視線も、見送りの為に慌てて部屋出てきた母親も、全てが煩わしくて仕方がなかった。
祈るように手を組む母親は透旋をもはや息子としては見ていないようだったが、父親はそれを咎めることもなく、ただ静かに透旋の背中を見送った。
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