戸羽美歌の意思
美歌ちゃん、美歌ちゃん。
透旋の声が響く。
アルトの美声が美歌の名前を、ただひたすらに呼び続ける。
美歌の家族は美歌がよく透旋のことで喚き泣くので「いつものこと」だと関心を抱かなかった。しかし、美歌がいつもよりずっと――静かなことに気が付くと、次第に疑問を感じ始めた。
日曜日の夜。
美歌はやっと部屋から出てきて、夕食を食べた。家族はそのことに何か思うよりも、美歌の髪型に唖然とした。
「あんたどうしたの……?」
「気分転換」
「自分で、やったのよね?」
「うん」
首から下の髪がざんばらに切られていた。家族は美歌の切られた髪にも驚いたが、一番の驚きは「美歌が自分で切ったこと」にある。
「あんなに大事にしてたのに……」
「もう大事じゃない。どうせ、誰も気にしてないんだから」
「よっちゃん!」
「誰も気にしてないよ、私のことなんて」
それは、本来なら喜ぶべき事態だった。
その筈なのにどこか悲しい。
美歌は幼少の頃からひどい癖毛で、髪の手入れを知ってからは欠かしたことは一度もない。ずっと手入れを繰り返せば、嫌いだった癖毛はいつしか美歌のプライドの現れになり、艶を放つ黒髪は自信にも繋がった。
もう癖毛ではない、という否定から得た確かな自信。美歌の髪は美歌の誇りと言っても過言ではなかった。
周囲の目が気になるから、癖毛をずっと恥じていた。
しかし、自信を身に付けても――美歌の髪を笑う者は既に存在しなかった。
美歌は戸羽美歌という人間として、扱われていない。
花崎透旋の窓口として見られていて、美歌の容姿なんて誰も興味を抱かない。
伸ばした髪を美歌は、ひどく鬱陶しく感じていた。
――どうせ、私がどんな見た目をしていようと誰も興味すら持たない。
美歌は長年溜まってきた思いを、ついに透旋に暴露した。
髪を切れば少しくらい、気持ちが収まるかと思ったが、案外そうでもなく透旋への悪感情は髪を切っても変わらなかった。
これまで美歌は我慢を続けてきた。もう解放されたって良いじゃない、と美歌は強く思う。
月曜日。すべてが変わった日。
美歌にとって人生で一番、忙しかったと言える日だろう。
「戸羽さん!おはよう!昨日の花崎様が出る予定だったコンクールの話、なにか聞いてない?」
金曜日の美歌の慟哭(どうこく)なんて、叫びなんて、まるでなかったかのように信者はにこやかに話し掛けた。
「悪いけど」
美歌は笑い出したくて仕方がないくらい、信者の盲目さが可笑しかった。
「透旋に関係する話はこれから一切私にしないで。本人へどうぞ」
信者は美歌が髪をばっさり切ったことに、全く気が付いていない。
「え……?」
「私、透旋とはもう関わらない。だから、透旋の話は透旋にしてくれる?」
「……わ、分かった」
「ありがとう」
美歌と透旋の決別は、信者のネットワークと生徒たちの噂ですぐに周知となった。
登校した美歌が一人であったことから始まり、透旋が珍しく遅刻をしたこと、美歌が透旋と会話をしないこと、透旋が美歌の傍にいっても――美歌は視線すら透旋に向けないこと。
二人の決別は誰から見ても明らかだった。
急に態度を変えた美歌へ逆恨みをする生徒もちらほら見受けられたが、美歌の強靱な精神力を鍛えたのは周りでもある。
美歌はちょっとした苛めなんてものにはびくともしない。
更に、きれいな顔を見慣れているので、単純な色仕掛けも美歌にはきかない。
なんとか美歌を懐柔しようと、透旋にパイプを作りたいイケメン御曹司たちや信者たちは集まって知恵を絞った。
が、美歌は取り付く隙を見せず、三時限目を迎えても――透旋と会話すらする様子を見せなかった。
透旋は何度も何度も美歌の傍に寄ったが、美歌は一瞥もくれない。透旋が美歌の視界に入ることを、美歌は頑なに許さない。
ばっさりと切った美歌の髪を見て、透旋は泣きそうになった。
あれだけ手入れを欠かさなかった、美歌の自慢の艶髪が――短くなってしまい、美歌の決意の固さを透旋に突き付けてくる。
「美歌ちゃん」
「…………」
「俺、美歌ちゃんがいないと何も出来ないんだ。本当に、何も」
「…………」
「美歌ちゃん……」
仔犬のように目を潤ませて美歌に縋る透旋は、それはそれは涙を誘う儚げな表情を浮かべていたが、今まで幾度となく透旋に折れてきた美歌も今度ばかりは譲れない。
まるで美歌が悪人であるかのように周囲は感じ、透旋に同情的な眼差しを向ける。
しかし、透旋は浅く息を吐くと諦めるように席に戻った。
――泣き落としも通じない。
――となれば、孤立させてもきっと無駄になる。
透旋のそんな考えをもしも美歌が知ったなら、美歌は二度と透旋と関わろうとしないだろう。
透旋はそれを知っている。
だから、決して口に出すようなヘマはしなかった。
美歌が透旋を無視し始めて、三日ほどが過ぎた頃。
透旋は今まで以上に、人と関わることを止めた。
学校には来なくなり、何処にも姿を見せないと自称信者の生徒は言う。
まるでストーカーのような報告を、美歌にあの手この手を使いあげてくる。
そして、「人」という括りの中に透旋は漏れなく両親も加えたらしかった。
美歌は泣き付く花崎夫婦に「泣きたいのはこっちだ!」と怒鳴りたいくらいだった。
外堀を見事なまでに埋められていた美歌に逃げ場はなく、美歌の両親でさえも口を出してくる始末。
よくある喧嘩だと高を括っていた美歌の両親は玄関先で土下座を披露する花崎夫婦を見て、漸くことの重大さに気が付いたようだった。
冗談じゃない。
狂ってる。
美歌は鳥肌の立つ腕を擦り自室に籠ったが、次の日もまた次の日も花崎夫婦はやってきた。
忙しい筈なのに、決して暇ではない筈なのに、花崎夫婦はすげなく断る美歌に懲りずに会いに家へとやってくる。
うんざりするほど懇願された。
「会ってやって欲しい、話してやって欲しい」と繰り返しながら頭を下げるその様子はホラーにも思える。
しかし、ここで美歌が折れたらまた同じことの繰り返しだ。
美歌は折れそうになる心をなんとか補強して耐えていた。
絶対に元には戻らない。
私は私として、生きたい。
切実な願いだった。本当に、切実な。
――その切実な願いが壊されてしまったのは、美歌が透旋を無視し始めてから二週間が過ぎた日のことだった。
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