中編

 


「お待たせしました!」


 待ち合わせた駅前でタカノリさんはわたしを見つけると走ってきた。

 ああ、犬。これは犬。天使の顔した犬だ。などど考えながら、にっこり笑う。


「走らなくても」

「サクラさんに会いたかったので」

「嬉しいこと言ってくれますね」


 サービス満点過ぎないかこの天使。

 店が並んでいて看板やライトで真っ暗じゃないとは言え暗い中で出会ったので、顔面がそこまでじゃなくて美化しているだけだったらどうしようなどど思ってもいたけれど、何の心配もなかった。めちゃくちゃに顔が良かった。


「店って決まってますか?」

「一応、何度か行ったことあって雰囲気が良い個室のある店にしました」

「あ、敬語。やめてください。僕のほうが年下なので」

「じゃあお言葉に甘えて。タカノリさんもやめてね。行こっか」


 予約を入れたのはちょっとお高めのカジュアルフレンチで、お礼としてピッタリな雰囲気の店だ。

 ドレスコードはないけれど身綺麗な客層なので、タカノリさんの恰好が分からないこともあって個室を予約してある。

 見た感じ、そんな杞憂は必要なかったらしい。スタイリッシュなジャケットコートにシンプルなシャツ、黒のスキニーパンツに革靴。派手さもなく、地味過ぎず、細身だが頼りなさを感じない。背伸びしているようにも見えない。格好いい。


「タカノリさんってモテるでしょ」

「どうかなあ、一年半くらいは海外に居たから」

「え?海外で仕事してたの?」

「そんな感じ」

「また行くの?」

「もう行かないよ。日本が好きだから」


 せっかく出会った天使が遠くに行ってしまうのか一瞬危惧したが、どうやらもう海外には行くつもりがないらしい。確かに、海外では日本人の男性がそこまでモテないと聞いたこともあるが、こんなに顔が良ければやはり女性が魅力を感じるものではないだろうか。


「ごめん、先に聞いておくべきだったんだけど、彼女とかいる?」

「えっ、いないよ。いても別れるよ」

「……そ、そう?とりあえず、変なことにはならなさそうでよかった」


 いても別れる、ということはわたしのことをそんなに気に入ってくれたのだろうか。まだ二回目だし、そんなはずないと思いながらも期待をしてしまう。

 タカノリさんは本当に今日わたしに会えたことが嬉しくて堪らない、といったような表情をしていた。


「ここなんだけど」


 駅から歩いて6、7分程度の場所にある店は外観もしっとりとした落ち着いた色合いで、内装も品の良い小物などで飾られている。完全予約制ではないが、そこそこ人気なので予約をしていなければ入れないこともたまにある。ディナーは16時からで始まって1時間ほどは経っているからか、予約以外の席は八割が埋まりつつあった。


「お待ちしておりました、サクラさん。コートをお預かり致します」


 ぎく、としたけれども、タカノリさんは気にした様子もなくわたしの後に続いてコートを預ける。

 個室へと案内を受けて、席に着く。


「アレルギーとか大丈夫かな?」

「えっと……大丈夫、だと思う」


 コースで頼むので一応確認したほうが良いと思いタカノリさんを見やる。タカノリさんは少し考えて頷いた。どこか不安げな表情に感じたので、スタッフが下がったタイミングで切り出した。


「本当に大丈夫?不安な食べ物とかあったわたしが伝えるから、正直に言って」

「心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」


 百人いたら九十人は打ちのめされるほどに綺麗な笑顔でそう言われるとドキドキして食事が喉を通らなくなりそうだ。食べるけど。ここの料理はおいしいから食べるけども。


「サクラさんは彼氏とか、いない?」


 恐る恐る、という雰囲気でタカノリさんが切り出した。思わずその様子に笑ってしまう。

 出会ったときに確認しなかったせいで、お互いに今更恐れていることが面白かった。さっきタカノリさんがわたしの彼女がいるかという問いに少し驚いた理由が分かって尚更笑みが零れてしまう。恋人が居たら来ないよね、確かに。


「いない。いたら来ないよね。さっきわたしが同じこと聞いたらタカノリさんがびっくりした気持ち、わかった。お礼って言ったけど男女だし、デートだもんね。そりゃ待ち合わせて彼女いるの?って聞かれたら戸惑うよね、ごめん」

「そうだよ。でも、俺もごめん。彼氏がいたらきっと来ないだろうなって思うけど、きちんとサクラさんから教えて欲しかったから、聞いた」

「ううん。謝ることじゃないよ」


 なんだかおかしくて二人して笑ってしまった。



 それから和やかに食事をして、わたしの仕事の話なんかもした。

 父親にあんなふうに言われたことがあったから、少しだけ不安はあったけれどタカノリさんは真剣な表情で話を聞いて、仕事が好きなんだねと言って笑った。その瞬間、ぎゅっと心臓を掴まれたような気がして苦しくなる。


 そうだ、好きなんだ。

 下着を作ることが。

 いやらしい仕事じゃない。夢のある仕事だ。


 好きな人に見せるため、自分に自信をつけるため、気分を上げるため、様々な理由で選ばれる。その一つを作ることに携われていることを誇りに思う。


 父に否定されたことがショックだった。わたしは人に言えない仕事をしているんじゃない、女の子に勇気を与えられる可能性のある仕事をしてるんだって、言い返したい気持ちがあった。でも、言えなかった。突きつけられた言葉が痛すぎて、反撃することなんて思いつきもしなかった。


「タカノリさんが仕事のこと、悪く言わないでくれてよかった」

「悪く言われたことがあるの?」

「父にね。でも、もういいやって気持ちになれた」

「どうして?」

「タカノリさんと話してて、この仕事わたし誇りをもってやってるんだなって気付けたから」

「そんな響くようなこと言った覚えがない……」

「でしょうね。タカノリさんはそうだと思う」


 タカノリさんは不思議な顔をして、ちょっとだけ悔しそうになった。


「じゃあ、なんかいいこと言うから」

「なになに」

「僕はサクラさんがどんな仕事をしていても魅力的だって思ったと思う。だけど、下着を作ってるサクラさんはなんだかとても楽しそうで、幸せそうで、僕は今のサクラさんが――」


 そこまで言って、タカノリさんはぐっと眉間に皺を寄せて言葉を止める。

 右手で口を覆ったかと思うと、じんわりと涙を浮かべた。


「タカノリさん!?」

「ごめん、さ、くら、さん。おかいけい」

「ちょっと待って、すぐ済ませる」

「ご、めん」


 少しだけ顔色が悪い。お会計、ということは店に迷惑を掛けたくないということだろうか。

 きっとそうだと思う。ご近所のタカノリ君との触れ合いで培った察する能力はこんな時にとても役に立つ。ふらついている訳ではない、口を覆っている。でも吐きそうな雰囲気じゃない。兎に角お店に迷惑を掛けたくなさそうだ。急ぎお金を取り出してスタッフにジャスチャーでお会計を告げる。早足で伝票を持ってきてくれた。


「ごめんなさい、具合が少し悪いの。デザートはキャンセルで、おつりも大丈夫。他の方のご迷惑になりたくないから、静かに出させて。預けてあるコートを持ってきて欲しいの」

「かしこまりました」


 有難いことに、スタッフはすぐに事態を察して動いてくれる。

 助かった。立ち上がってタカノリさんの背後に回る。肩を軽く叩くとタカノリさんは頷いて大丈夫とでも言うようにわたしの手に手を軽く重ねた。


「お持ちしました。こちらの不手際があれば、落ち着いてからで構いませんのでご連絡を何卒よろしくお願い致します」

「ありがとう」


 よくできたスタッフだな、と思った。

 大袈裟にならないように汲んでくれて咄嗟に動いてくれただけでも充分に有難いことなのに、客と店のことを考えて発言出来る優秀な人だ。この人が気付いて寄ってきてくれてよかった。


 足取りはしっかりしているタカノリさんを連れて店を出る。

 受け取ったタカノリさんの分のコートを背中にかけて着るように促すと、タカノリさんはすぐにコートを着てくれた。風邪を引いたりしたら大変だ。


「タカノリさん、大丈夫?」

「ごめ」

「謝らないで。水買ってこようか?それとも少し横になれるほうが良いかな?」


 うんうん、と頭を縦に振って泣きそうな顔をしたタカノリさんを見て、質問のどっちの答えなんだと悩んでしまった。どっちもかも知れない。幸い今日は日曜日だし、ここは駅前だし、ホテルはいくらでもある。タカノリさんの腕を引いて目に入ったビジネスホテルのカウンターに向かった。


「すみません、お部屋空いてますか?少し体調が悪いみたいで、急いでます」

「ダブルルームのお部屋とツインルームのお部屋がご用意出来ますが」

「ツインで」

「すぐにごご案内致します」


 状況を見てすぐに同じ年頃くらいの女性従業員が手続きを取ってくれたけれど、後ろから中年の男性が出てきて受付を途中で交代した。男性はエレベーターを呼んでくれて、乗り込んだタイミングでさっきの女性従業員が小走りで向かってくる。お持ちください、とホテルのラベルが入ったペットボトルのミネラルウォーターを渡されて、有難く受け取った。

 部屋に入ってベッドまでタカノリさんを連れていき、さっき貰ったミネラルウォーターを蓋を開けて渡す。タカノリさんは受け取って、小さな声でまた「ごめんね」と言った。


「どうして謝ってばっかりかなあ。ありがとうで良いと思うんだけどなあ」


 じーっと見つめると、タカノリさんは泣きそうな顔を上げて、ふにゃりと笑った。

 あー、かわいい。とんでもなくかわいい。松木レオ超えたわこれは。


「さく、らさん」

「はーい」

「ありが、とう」


 ああ、そういえば渡そうと思ってたやつが。

 鞄からちょっと洒落たラッピングビニールを取り出す。裸で返すのはないなと思って雑貨屋まで行って買ってきたラッピング用の袋には猫と毛玉の可愛らしいイラストが入っている。そこから紺色のハンドタオルを出して、タカノリさんに渡す。


「零れちゃってますよ、ここ」


 自分の目元を指さして、この間のタカノリさんの真似をして見せるとタカノリさんは可笑しそうに笑った。




 あーとかうーとかまともに声が出るかどうかを確認してから、タカノリさんはベッドに正座になってわたしに向かい合った。


「ご迷惑をお掛けしました。いろいろ、ありがとうございます、サクラさん」

「いーえ。でも何が起こったのか説明して下さいね」

「……はい。えっと、実は、アレルギーがありまして」

「待って」

「そんなに大した影響はないんだけど、ちょっと喉が腫れるくらいで、本当に大したことじゃないんだけど」

「ねぇ、待ってよ」

「声が出なくなるというか、喉が腫れて発音が通らないというか」

「黙って」

「はい……」

「聞いたよね?アレルギーあるんじゃないかって。どうしてその時に言ってくれなかったの?防げるものだったなら、そうしたかったよ」

「ごめん」

「謝って欲しいんじゃない、理由が聞きたいの」

「言えないんだ、ごめん」

「なんで……」


 アレルギーを言えない意味がわからない。

 態度や表情から相手のして欲しいことを察することは出来ても、こんなの言われなくちゃ知りようがない。言えない理由を考えても、全然思い浮かんでこない。

 ぐるぐる頭の中に不穏なものが渦巻いて、何をどう言ったら良いか分からなくなってしまった。


「サクラさん」

「なに」

「僕と結婚を前提にお付き合いして貰えませんか?」

「いま!?」


 こんな状況でバカじゃないの!と言いそうになって、やめた。

 あんまりにもタカノリさんが穏やかな顔をしてたから。愛おしげに見るその瞳が、真っすぐわたしを貫いて、可愛くない言葉なんて言える訳がなかった。


「ずるいよ、そんなふうに見るの」

「どんなふうに見てた?」

「わたしのことが、好きみたいに」

「好きだよ」


 その言葉と同時にふわりとタカノリさんの身体が重なる。ベッドの上にいるタカノリさんは、ベッドに腰かけていたわたしを包むように優しく抱きしめて、耳元に唇を寄せる。


「好きなんだ、本当に」

「……会って二回目なのに?」

「サクラさんは?」

「まだ、はっきり分からない、けど、顔はめちゃくちゃ好き」

「素直だなあ。じゃあ、こうしよう。僕のことが嫌になって、その好きな顔すらも嫌いになったら別れる」

「だからとりあえず付き合おうってこと?」

「結婚する?」

「……お付き合いからお願いします」

「喜んで」


 言いたいことは他にもあったはずなのに、溶けるように消えていく。

 タカノリさんは子供みたいに喜んでわたしの指に指を絡めた。


 優しく手を握ってこめかみにキスを落とす。ひとつキスして、髪を撫でて、またひとつキスをして、おでこをくっつけて。くすぐったくて笑ったら、タカノリさんも笑った。


 頬にキスされて、自然と目を瞑った。

 それに合わせてタカノリさんの柔らかい唇がそっとふってきた。


 何度か軽く唇を重ねると、少しずつ唇が開いていく。生暖かい感触がして、気持ちよさにとろけそうになる。唾液がどちらのものかもう分からないほど舌を絡めてキスを繰り返したら、永遠の時間の中にいる気がした。






「――はやく、俺のことすきになって」


 甘い甘い蜜みたいな空気の中でタカノリさんが発した言葉が耳に届いたそのとき、急速に現実に戻ってきた。


 サーっと頭が冷える。


 なにか、おかしい。

 何かが、おかしい。

 そう思うのに、何がおかしいのか分からない。


 ぞわりと胃の底が騒めく。


「タカノリさん」

「うん?」

「なんか、ちょっと、調子悪いかも。今日帰ってもいいかな」

「どうしたの?大丈夫?」

「うん、大丈夫だとは思うんだけど……なんだろ、なんか」

「サクラさん」


 待って、何か、思い出しそうな。


 なにか。


「ねぇ、タカノリさん」

「どうしたの」

「わたし、自分の歳って言ったっけ」

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