よろしい、お食べなさい。

尋道あさな

前編

 

 その日は朝から運が良くて、化粧ノリはここ半年の中でも最高だったし、朝ご飯に用意した目玉焼きは黄身が双子だったし、数日雨が続いてなかなか着ることが出来なかった新しいジャケットを着るに相応しい肌寒さで、けれどきちんと空は晴れだった。


 全ての物事がうまくいくような気がして、一つ一つの出来事にテンションが上がっていく。


 これなら、これなら絶対にいける。


 勝負の日だった。

 負けられない勝負があった。


 だけど――


「せんぱーい、いつまで泣いてるんですか」


 後輩のみちこの声が呆れたような憐れむようなじんわりとした優しい声で余計に涙が止まらなくなる。


 勝負に負けた。うまくいくと思ったのに。




 下着メーカーに勤めて五年、新しい企画を出せるようになって二年。

 必死になって考えたそれらはどれも陽の目を見たことがない。

 うまくアピール出来なくてごめん、せっかく出てきてくれたアイデアを活かしてあげられなくてごめん。企画書の入った鞄に目を向けて、また滲んできた涙を押し込める。

 もうそろそろ泣き止みたいのに、思い通りにはいかない。


「そんなに悪くなかったですけどね、先輩の企画」

「……うん、わたしも、そう思う」

「アピールすべきは質感よりもコンセプトだったのでは」

「……わたしも、そう思う」


 今になって後悔しても、本番でうまく出来なければどうしようもない。

 三つ提案された企画の中で、飛びぬけて良かった訳ではないけれど、一つには確実に勝っていたと思うし、もう一つの企画の良さは贔屓目を抜きにしても同じくらいだったと思う。思いたい。そうなってくると後はどれだけアピール出来るか、どれだけ指揮をうまく取れるか、そんな部分が加味される。

 リーダーに向いてるタイプじゃない。あがり症という程でもない。中途半端な自分のことがこれでまた少し嫌いになった。


「飲みすぎですし、泣きすぎですし、身体のなか全部アルコールになっちゃいますよっと」

「酔ってたらプレゼンうまくいくかなあ?」

「んなわけ」


 はいはい、水飲んでくださいね~と言いながらみちこが背中をさすってくれる。

 なんて出来た後輩だろう。また自己嫌悪が襲ってくる。


「今日はここまでしか付き合いませんよ、もう。帰りますよ、先輩」

「はい……。今日はわたしの奢りだから、みちこ、財布とって……」

「ありがとうございまーす」


 A4サイズがまるっと入るベージュのわたしの鞄から飾り気のない長財布を取り出してみちこが渡してくれる。少しふらつく身体を起こして用意してくれた水を一気に煽った。


「あー、顔ぐちゃぐちゃだわ。どう?外歩ける?」

「ギリ歩ける顔って感じですね」

「よっしゃ、帰ろう」

「歩けない顔だったらどうしたんですか」

「もうちょっと居座った」


 うわ、と小さく嫌そうに声を漏らしたみちこのことはスルーして、座敷を降りてパンプスを履く。

 おあいそでえすと学生バイトであろう男の子が声を上げると会計するために別の従業員が寄ってきてくれた。背後でありがとうございましたーという声が上がるのを聞きながら店の外に出るとひんやりした空気が身に染みる。


「さっむ」

「寒いですねー。じゃあわたしこっちなんで!お疲れさまでした~」

「お疲れさま。ありがとうね」

「いえいえ、慣れてますから」


 余計な一言を残してみちこは駅に向かう。


 会社から徒歩10分掛からない距離にあるこの居酒屋は裏通りに面していて地味に穴場だ。

 表通りの店には同じ会社の人間がよく寄るので、遭遇したくないときは裏通りの店を使う。

 本社勤務と決まってから部屋を探したこともあって、会社から近いマンションに今は住んでいる。みちこは一駅先に住んでいるので、終電前には解放してあげなければと思いつつも長々と付き合わせてしまった。


「もう23時……」


 外は真っ暗で、1月の終わりだからか冷え方も容赦ない。

 冷たい風に頬を冷やしながら帰路につく。



 うまくいくと思った。いける、と思っていた。出社の段階では自信があった。けれども、企画会議が始まって最初の企画のプレゼンを聞いていたら自分の企画の良さが曇った。自信を持ってプレゼン出来なかった。


 ああもう、いやだな。なんでいつもこうかな。

 一度は引っ込めた涙がまた滲んでくるのが分かった。

 情けない、五年も社会人やってまだ成果を出せないのか。


 だからわたしは――



 ずべっ、と可愛げのない音がした。



「大丈夫ですか!?」


 パンプスの踵が折れてそのままこけた。

 こんな時でさえ派手でも無音でもなく、微妙。前のめりで倒れたけれど鞄が下敷きになってくれたおかげで顔面は無事だった。

 声をかけてくれた人に大丈夫です、と言って起き上がる。


「あの、よかったらこれ……」


 あ、男の人だ――声をかけてくれた青年が紺色のハンドタオルを差し出してくれた。慌てて断ろうとして顔を上げると、そこには天使がいた。


 低くも高くもない身長。私よりは高くて、ヒールを履いても抜かせないであろう高さ。


 すらっとした細めの身体。色白だけれど、不健康さを感じない。


 ビー玉みたいに綺麗な瞳にくっきりとした二重。鼻は高いのに尖ってなくて、唇も薄くはなく厚くもなくほんのり桜色。一度も染めたことが無さそうな綺麗な黒髪はさらさらのストレート。癖もなく、剛毛でもなく、薄くもなく。芸能人かと思うくらいに小さい顔で整っていた。


 時間が止まったような感覚で、ついじっと見つめてしまう。



 ――いかん、めちゃくちゃタイプ。



「あ、あーっ、はい、すみません。ありがとうございます!お借りします!いやーすみませんなんか」


 差し出されたハンドタオルをサッと受け取って、別に汚れていないジャケットの裾をパッパと拭いたりしてみる。借りよう、そして返そう。洗濯して返すから連絡先も聞いておこう、そうしよう。


「いや、そっちじゃなくて、こっち」


 天使――みたいな男性は、自分の目の下を指さす。


「泣いてたみたいだから」


 ずきゅん、と心臓を撃ち抜かれた気がした。





「し、失礼ですが、おいくつですか?わたしはその、見たままですが!」

「ふふっ、26歳です」

「えー!見えない!」

「よく言われます」


 とりあえず通行の邪魔になるので移動しましょう、ということで一番近い距離にあったコンビニで缶コーヒーを二本買ってそこから徒歩2分の公園というのも甚だしい砂場とベンチだけの公園に向かった。

 ベンチに座ってあたたかい缶コーヒーを開けて飲む。


「あ、タオル洗って返しますね。連絡先など教えて頂けたら~と、思うんですけど、そういうのもしかして迷惑ですか?」


 言いながら気が付いたが、これほどのルックスならばこう言われるのは慣れているだろう。言い寄る女も数えきれないほど居ただろう。そう思うと、迷惑になりたい訳ではないので、勢いも止まる。


 天使はきょとんとした後に、声を上げて微笑んだ。


「あははっ、おも、面白いですね、ふふ」


 堪え切れないとばかりに口元を手の甲で隠しながら肩を震わせる天使は、まるでドラマのワンシーンのようで見惚れてしまう。


「大丈夫ですよ、迷惑じゃないです。嬉しいです。連絡先、交換しましょう」


 スマホを取り出して操作し始めた天使に倣って、わたしもスマホを取り出す。

 嬉しいって、嬉しいってなに!?そう聞きたいのに、チャンスを逃せないとばかりにスマホを操作することに集中する。えっとメッセージアプリ、とアプリを起動して天使のほうを見ると天使はまだスマホを操作していた。


「あっ」


 天使が小さく声を上げたので反射的にスマホの画面を見る、と慌てて画面を落とされた。

 暗くなった液晶のスマホを持って、天使が気まずそうにこちらを見る。


「あの、ちょっと待ってて貰っても良いですか?」

「はい。いつまでも待ちますけども」

「ふふ」


 わたしの返事が面白かったのか、また声を漏らして笑った天使はサッと背中を向けてスマホを操作した。

 数10秒ほどして、こちらを振り返った時にはもう穏やかな微笑みに戻っていて、何か不都合でもあったのかと色々な憶測が一瞬頭を過ったが、全てどうでもよくなるほどに顔が良かった。


「お待たせしました。連絡先です」


 どうぞ、とそのままスマホを渡してくる。

 名前、電話番号、メールアドレス。

 プロフィール画面を呼び出してくれたらしい。

 メッセージアプリでの連絡先の交換かと思っていたので、面食らった部分はあれど、逃すわけはいかない。すぐに新規で連絡先を追加した。それにしても。


「タカノリさん」

「はい、タカノリです」


 苦々しいものがぐっと上がってきて、けれども飲み込む。


「わたしはサクラと言います」

「サクラ、さん」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、しかし神妙に頷いてタカノリさんはわたしの名前を呼んだ。


「メッセージアプリやってますか?」


 そっちのほうがお手軽だしという気持ちで聞いてみたが、タカノリさんは気まずそうに首を振る。


「いえ、そういうアプリは入れてないです」

「分かりました。では、電話かメールで連絡しますね。このお礼もしたいですし」


 ハンドタオルをちら、と上げてみせるとタカノリさんは嬉しそうに笑った。







 タカノリ、という名前には苦々しい思い出がある。

 小さい頃、近所に住んでいた男の子がタカノリという名前で、それはもう大変手が掛かる子だった。

 すぐに泣くしすぐに疲れるし引っ込み思案で友達も出来なくて困っているとタカノリくんママは零していて、うちの母親がじゃああんた遊んであげなさいとわたしを引っ張りだしたのだ。

 タカノリくんは想像以上に引っ込み思案で、自分の気持ちを誰かに言うことが特別出来ない子だった。いやだと思ったら背を向ける、嬉しいと思ったら泣く。

 なんだかとても難しい子だと幼心に思いながら相手をしていたものだ。月日が経ってそれなりにタカノリくんの心の中もなんとなく察せるようになってきたけれど、タカノリ君には一向に友達が出来なくて、わたしは貴重な放課後を潰したり、貴重な休日を潰したりしながらタカノリ君と過ごしていた。

 けれど、そんな日もいつまでも続く訳がなく、高校生になったわたしは部活に入るのをきっかけにタカノリくんとは遊ばなくなった。

 そして、タカノリ君はわたしが大学生になっても社会人になってもひたすらにわたしを追い掛け続けている。


 ――昨日、母さんが林檎をお裾分けしたって言ってたぞ。


 ぴこん、という音と共にメッセージが入ってくる。


 はいはい、林檎ね林檎。どーも。


 タカノリ君は三日に一度は必ずメッセージを送ってくる。

 社会人になってからわたしは一度も実家に帰っていない。

 就職のときに父から言われた「そんな仕事」という言葉に腹を立てて今後一切近寄らないと言い捨てて家を出たのだ。

 下着を作る仕事はそんな仕事ではないし、立派な仕事の一つだ。どこがそんなに気に入らないのか分からないが、父から見れば女性下着を作る会社は受け入れがたい仕事らしい。あの様子ならきっと生理用品を作る会社だとか、水着を作る会社でも気に入らないんじゃないかと思う。

 そういった考えを持つ父が恥ずかしいし、それを止められない母も一気に嫌いになった。だから、タカノリ君ママが実家の方とどういう付き合いをしていようとわたしには関係がない。

 何度もそれを言っているのに、タカノリ君は懲りずにメッセージを送ってくる。

 昔の泣き虫タカノリ君を思い出すと、強く言えないしブロックすることも出来ない。


「どーも、と」


 短い返事を返してスマホを充電する。

 あの後すぐに解散して家に帰ってきたけれど、タカノリさん――天使のほうは少し寂しそうな顔で別れてくれたことが嬉しかった。

 連絡先交換のときの様子は少し引っかかるけれど、不倫とか浮気じゃない限りは狙っていきたい彼だった。

 可愛らしくて、けれども幼すぎなくて、思い出すだけでにやけてしまう。


 また会いたいな、いつにしようかな、ハンドタオル洗わなきゃな。


 そんなことを思いながら眠りについた。






「夢でも見たんじゃないですかね」


 翌日出社して昨日の夜の天使との出会いを話すと、みちこはこれでもかという程に顔を顰めてそう言った。


「なんで?」

「だって先輩の理想の顔ってなんとかってアイドルですよね」

「なんとかじゃなくて、松木レオ!」

「はいはい、その松木さん。その人が理想の顔だって言ってたじゃないですか。あんな顔の人はそうそういませんよ」

「だからすごいんじゃない!テンション上がっちゃったよ、本当に」

「だから夢でも見たんじゃないですか?」

「現実!」


 ほら見て、と見せつけた連絡先にみちこがほおおと感心したような声を出した。


「マジなんですね」

「マジなの、やばい」

「それはやばいっすね」

「でしょ?でしょ?」

「あんなことの後にいいことあって良かったじゃないですか」

「……思い出しちゃった」


 プレゼンが駄目だったことを頭の中から締め出していたのだけれど、みちこは思い切り捻じ込んできた。怖い。後輩が怖い。


「ま、先輩の企画って処女っぽいから男の人との浮いた話を聞くといけいけって思いますよわたしは」

「ひどい」


 辛辣な応援をくれたみちこのデスクを後にして自分のデスクに戻る。

 出社してすぐに部長に呼び出されて、昨日のプレゼンの結果についてのアドバイスを頂いた。


 アイデアはすごく良いからもう少しハッタリかませるようになれとのことだった。


 それが出来たら苦労してないやいと思いながらも反省して、通った企画のほうに協力出来る態勢を作っていく。


 仕事中も考えてしまうのはやっぱり天使のタカノリさんのことだった。



 がつがつしてると引かれるかな、もう少し余裕ぶってみたほうがいいかな、と拗らせまくって結局メールを送ったのは出会ったあの日から五日も経ってからのこと。


 メールの本文を何度も書いては消して、送れたのは「お礼をしたいので、日曜日に食事にでも行きませんか?」という一文だった。

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