霹靂辟易

小狸

短編

 マーラーが作曲した交響曲第5番の4楽章、通称マーラーのアダージェット。


 私はそれが大好きである。


 先に説明しておくと、私は音楽が、全く分からない。


 父親も母親も音楽経験はなく、私も何か楽器経験がある訳ではない。楽譜も、中学校時代のリコーダーか鍵盤ハーモニカ程度で、今読めと言われて読めるか怪しい。


 それどころか、どこでその曲を聴いたのかすら記憶していない。


 喫茶店かどこかで流れていたのか、はたまた誰かから勧められたのか。


 その発端となる所は、私自身も記憶の彼方に捨て去ってしまっている。


 きっと大したことのない契機きっかけなのだろう。


 マーラーの交響曲自体、長くて全てを聴けた試しがない。ただ、その4楽章が、管楽器打楽器が無く、弦楽器とハープ(で合っているのかすら分からない。ウィキペディアで得た知識である)で構成されていることくらいしか知らない。


 でも、好きである。


 クラシック曲は、サブスクで多く開放されているからありがたい。色々な楽団の様々な「アダージェット」を日々聴きながら、仕事に通っている。


 とても良い曲、だと思う。


 これは専門家からすれば何をお門違いなと失笑を買うことを承知の上で言うけれど、曲調そのものは、明るいように思う。ただ、その中にもどこかかげりがある。1つのメロディが流れているのに、ただ単純に明るいというだけではない、揺蕩たゆたうように明暗が移り変わる、それは、私の稚拙な言葉では表現しきれないほど、微妙で精密な遷移である。そんな明るさの中に潜む暗さが、たまらなく好きなのだ。


 そんな気持ちを、先月エックスに投稿した。


 投稿は単純に「マーラーのアダージェットが好きです」というものだった。


 色々な方が反応を下さった。


 その中に、ある方からこんなものがあった。


 原文ママの掲載は、個人が特定される恐れがあるので、要約させていただく。


「交響曲の中の一つの楽章だけを聴くなどけしからん」


「全楽章をきちんと聞いてこその聴衆だ」


「小説を途中だけ読み飛ばして読むことなどないだろう」


「音楽も同じだ。そうであるべきだ」


「他の楽章も聴け」


 ということらしい。


 かなり長々とした投稿が返ってきたので、私は困惑してしまった。


 その方は、クラシック音楽マニアを自称する方のようだった。


 プロの音楽家の方ではないようだ。


 時折YouTubeユーチューブのURLを投稿に貼り付けて、自身の見解を述べたりしているようだった。


 それを見た時は大して何も思わなかったのだが、その後少々面倒な事になった。


 その方からの返信が、炎上してしまったのである。


 私の返信欄で、引用リツイートに継ぐ引用リツイートが、返信に継ぐ返信が繰り広げられ、「音楽の聴き方は自由であるべきだ」派と、「音楽には正しい聴き方がある」派の論戦となり、もう見ていられない状況だった。


 いかんせん私への返信欄からであるので、通知は私にも来る。面倒になったので、私はアプリの通知を切ってしまった。


「…………」


 正しい音楽の聴き方――ね。


 世の中には、恐らくそういうものがある。


 音楽に留まらない、本の読み方、絵の見方、作品の触れ方――娯楽の「正しい」とされる楽しみ方は、あると思っている。逆に「間違った」楽しみ方というのもある。本で言うのなら、例えば推理小説を結末から読むとか、そういうことなのだろう。


 もう一度Xを覗いてみた。


 返信欄への返信と引用リツイートは絶えず続いていた。


 見えない画面の向こう側で舌戦が勃発し、阿鼻叫喚の様相を呈していた。


 こりゃ戦争がなくならないわけだ、と思ってしまうくらいには酷かった。


 個人でどう楽しむかを誰かに決められるのは、少し窮屈な思いもする。


 私は、好きな曲を好きだと投稿しただけだ。


 勝手に食いついたのは、向こうなのだ。


 人が「何を」「どう」好きなのかなんて、放っておいてくれれば良いのに。


 その舌戦に介入するつもりは、毛頭ない。


 クラシックの業界がどうだとか、普通がどうだとか、私には一切関係の無いことだ。


 私が一人で、サブスクでお金を払って好きな音楽を聴く分には、誰のことも傷つけていない。


 でも。


 これからは、音楽に関する投稿は控えようかな、と。


 そう思った。


 アプリを切り替え、音楽を再生した。


 曲名は、勿論もちろん




(「霹靂へきれき辟易へきえき」――了)

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