第44話


「よう元気か?」

 コバルトが僕のところへ戻ってきたのは、5分後のことだった。

 その間僕は、プカプカと木切れのように浮いていることしかできなかったが、コバルトは何やら、せいせいした様子じゃないか。

 漁船は、まだ向こうに見えている。エンジンもかかったままで、明かりが消されてもいない。ゆっくりと遠ざかっていく。

 受け取ったナイフをランドセルの中にしまった後も、僕はコバルトと顔を合わせるのが恐ろしかった。でも、いつまでも顔をそむけてはいられない。

「3人とも殺しちゃったのかい?」

 にっこりとほほ笑み、コバルトは答えた。その微笑が誰に似ていたかと言えば、古代中国の有名な悪女、傾城のダッキぐらいしか思いつかないよ。

 ところが、

「お前は気が付かなかったのだな。あの漁船、甲板の上は何の匂いがしていた?」

「さあ?」

「ウイスキーだよ。3人ともとんでもない飲兵衛で、顔はペンキを塗ったように赤いわ、足元に空きビンは転がるわ、操業中なのにグデングデンだった。実に模範的な漁師たちだな」

「どうして?」

「あの状態の漁師たちが何を目撃したと証言しても、誰も信じはしないだろうということさ。だから逃がしてやった」

 ホッとして、僕は体中の力が抜けてしまうような気がした。

「やれやれ…」

 その言葉に何を感じたのか、コバルトは何も答えず、前を向いて泳ぎ始めた。

 ランドセルにクサリで結びつけてあるから、僕が抜け出しても、潜水服が沈んでしまうことはない。

 今もチャプチャプ言いながら、コバルトが起こす波に揺られながら着いてくる。僕はもう一度あの中へ戻らなくてはならない。

 僕はノロノロと体を動かし始めた。今日はいろいろなことを見聞きしすぎて、全身が石のように重い。

「僕はもう疲れたよ」

 僕はコバルトの表情なんか探りもしなかったし、コバルトも僕を振り返らなかったと思う。珍しくも優しい声で、こう口を開いた。

「潜水服の中で眠るがいい。基地の手前で起こしてやるよ…」

「えっ?」

 でもコバルトは本当にそうした。僕は思いがけず深く眠ったようで、基地のゲートを入る寸前まで、一度も目を覚まさなかったんだ。

 眠っていた間、なんだか楽しい夢をたくさん見たような気がする。

 ゲートを通り抜けながら耳を澄ませると、いかにも機嫌よさそうに、コバルトが小さく何かを口ずさんでいるのが聞こえてきた。

 聞いたことのないメロディだ。

「サイレンの国の音楽だろうか」

 僕はそんなことを思った。それがサイレンの子守歌だということを、この時の僕はまだ知らなかったんだ。

 日本軍内部におけるジークの正式名称が『ゼロ戦』だと分かったのは、このもう少し後のこと。


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