07.俺にとっての当たり前は、君にとっての当たり前じゃない
ユキナ嬢との同居生活が始まってから数日。
俺とユキナ嬢の関係もぎこちなさを残しながら、少しだけ変化を見せていた。
「ユキナさん。これで、買い物は全部か?」
「あ、はい。アリエル様」
家の近所にある商業施設にて買い物をしていた俺は、いろいろな食材や日用品が入ったその袋を見やりながらユキナ嬢に確認を取る。
それにたいしてユキナ嬢が頷きを返すので、俺はその袋を手に取って抱え持った。
「あ、アリエル様っ。少しは私も持ちますよ……?」
「いいっていいって、こういうのは役割分担だから」
言ってユキナ嬢にそう断りを入れるが、ユキナ嬢はやはり申し訳なさそうな表情をする。
──うーん、まだまだ表情が硬いなあ。
ここ数日、同居していて分かったことだが、どうにもユキナ嬢は控えめな性格らしい。
俺にたいして一歩引いているというか、そこはかとない距離を感じる対応に俺は苦笑を浮かべつつ、ユキナ嬢と並び立って歩き出した。
「しっかしまあ、ユキナさんってすごいよな。ユリフィス家のお嬢さんだろうに、家事が得意みたいだし、料理に至っては本職に勝るとも劣らない」
新居での家事はほぼすべてをユキナ嬢が行っていた。ここ数日、彼女が忙しく立ち回るのを見ていた俺が感心混じりにそう呟くのに対して、しかしなぜかユキナ嬢はその身を小さくし、
「か、過分なお言葉です」
「過分なもんかよ。むしろ家事についてはなにも手伝えていない俺の方が申し訳ない」
苦笑気味にそう告げる俺に、その端正な眉を困ったように下げるユキナ嬢。
「……アリエル様も、努力を成されていると思います。実際に、本日も家事に関連する書籍を購入していたではありませんか」
言って、ユキナ嬢が俺の抱え持つ袋の一つへ視線を向ける。
その中には『猿でもできる家事入門!』という本が入っていて、それを俺も見やりながら、ああ、と頷き、
「少しでもユキナの負担を減らせたらなー、とは思っているよ……せめて三日修行にならないように頑張ります」
「私は、家事をするのが嫌いではありませんから、ゆっくりで構いませんよ。むしろ、そうやってアリエル様の時間を奪ってしまう方が申し訳なく思います」
「いや、だから申し訳なく思う必要は……」
そうやって自分を卑下するユキナ嬢に俺はどうやって納得してもらうか、と頭を悩ませる。
だが、その悩みも長くは続かなかった。
俺の達の前に、ある人物が現れたからだ。
「おやおやあ、そこにいるのは我が親愛なる
ねっとりとした声音。
こちらへの嘲弄を隠そうともしない、その声に振り向けばはたしてそこには見覚えがある銀髪の少年が立っていた。
「──お前は」
眼鏡越しに、そちらを見やる俺にそいつはユキナ嬢によく似た青い瞳を細め、
「やあ、どうも。以前、夜会で出会って以来かな、義兄上」
ジュリアン・ヴァン・ユリフィス──あの夜会でユキナを罵倒していた少年がそこにいた。
☆
「……ジュリアン、様……」
ユキナ嬢がジュリアンの姿を見た瞬間、表情を硬くする。そんなユキナ嬢にジュリアンはニヤニヤとしたいやらしい笑みを隠そうともせず。
「ちょっと気晴らしに出かけていたら思わぬ出会いがあったね。いやあ、義姉上、元気そうでなによりだよ──」
言いながらジュリアンが無遠慮にユキナ嬢の方へ近づいてくる。
それにユキナの表情がますます強張るのを見たので、俺はとっさにジュリアンの前に立って、ユキナの視線からジュリアンの姿を遮った。
「そこまでにしろよ。大ちゅきなお姉ちゃんに会えて、気分が舞い上がっているのは理解するが、彼女は俺の婚約者だ。あまり他の男が近づくな」
「あ?」
自分の前に立った俺を見て苛立つように眉を吊り上げたジュリアン。
そんな彼の睨みを、しかし俺は涼しい顔で受け止める。
俺の表情に変化がないことを見て問ってジュリアンは舌打ちを漏らした。
「前もそうだったけど、本当に生意気だよね、君。自分の立場わきまえてる?」
「わきまえているから、こうしてお前の前に立っているんですが? 婚約者のいる女性に、婚約者じゃない間男が近づくことの方が問題だろ」
心底から呆れた半眼を向けて俺はジュリアンを見る。
一方のジュリアンはそんな俺の態度にますます苛立つように眉をヒクつかせていたが、前回とは違い、周囲に耳目もある場なので魔力を熾すこともできず、結局二度目の舌打ちを漏らすにとどめるのだった。
「まあ、いいさ。今日のところは見逃してあげるよ。どうせ学校に行けば偉そうな口を聞けるわけがない──そうだろ、落ちこぼれの儀兄上」
「……それは……」
意味深なことを呟いて踵を返すジュリアン。その背中に俺は一瞬どういう意味か、と問いかけようかとも迷ったが、しかしそれで面倒事になるのも嫌だったので押し黙る。
そうして去っていった背中を見送って、俺はやれやれと首を振った。
「本当にあいつ、厭味ったらしいな」
「……すみません。ジュリアン様が……」
俺の言葉にユキナ嬢が顔を青ざめさせてそう謝罪する。
まるでジュリアンの無礼を我がことのように後悔するユキナ嬢。
その姿を見て、俺は顔をしかめた。
「ユキナさん。その顔をやめろ」
「え……?」
俺の言葉にキョトンとした表情をする彼女へ、俺は頬を掻きながらもう一度言う。
「だからその顔をやめてくれ。ジュリアンのことで君が気にする必要はない──君は、もう俺の婚約者なんだから」
「───」
ユキナ嬢が、目を見開いて俺を見た。そんな彼女の眼差しに俺は気恥ずかしさを覚えて、つい視線をそらしてしまいながらも、それでも言うべきことを口にする。
「君は君、ジュリアンはジュリアンだ。それを気にするのは違うだろ」
「……アリエル、さま……」
「ああ、あと。それもやめてくれ」
俺の名前を呼ぶユキナ嬢に、俺はそう告げて彼女に注意を促した。
一方のユキナ嬢は俺の言葉の意味が分からなかったのだろう。キョトンとした表情をこちらへと向けてくるので、俺は「だからさあ」と言って、
「アリエル様って、他人行儀な名前で呼ぶのはやめてくれ。俺は君と〝対等〟な関係でいたいと思っている。だから、呼び名ももっと親しみを込めた呼び方にしてくれると助かる」
「……対等……」
ユキナ嬢がそう俺の言葉の一部を切り取って呟いた。俺はそんな彼女へ眼鏡越しに黒色の眼を向ける中、対するユキナ嬢は目を白黒とさせて、
「で、では、ハル様?」
そう呼び方を検めたユキナ嬢だが、その呼び名に俺は思わず呆れてしまう。
「おいおい、他人行儀はやめてくれって話だったろ。様付けは無しで」
「えっ。で、ではハルさん?」
「うーん、まだ堅いな。もうちょっと柔らかくできない?」
何とか親しい呼び方をしようと必死になるユキナ嬢にちょっと面白くなりながら、俺がそう告げると、困り果てたように眉根を下げたユキナ嬢。
さすがに言い過ぎたかな、と俺が謝ろうとした──その時。
「──ハルくん」
「───」
ポツリ、とユキナ嬢が呟いた呼びかけに、俺は自分の胸に来るものを感じた。
一瞬の動揺を、しかし何とか押し隠しながら、不安げにこちらを見やるユキナ嬢へと、俺は勢いよく頭を振りながら頷き返す。
「お、おう。いいんじゃ、ないか……?」
言いながらも思わず少女から目を逸らす俺。
たぶんいまの俺の頬は真っ赤に染まっていることだろう。とてもじゃないけど、ユキナ嬢と目を合わせられない。
「……ハ、ルくん。ハル、くん──ハルくん……ふふ」
一方のユキナ嬢はユキナ嬢で俺の名前をそんな風に繰り返して呼ぶので、ますます気恥ずかしくなる中、視線を逸らしたままにしていた俺へユキナ嬢が「あの」と告げてきて、
「ハルくん。そ、それでしたら、わ、私のこともユキナ嬢とかじゃなくて、その……」
目を泳がせ、続く言葉を言おうとして言えないままハクハクと口をひらいたり閉じたりするユキナ嬢。その姿に、俺はなんとか自分の気持ちを静めながらそちらへと視線を向けた。
ただ言葉は途中で尻すぼみとなり、そこから先が続かない。
「も、申し訳ありません。やっぱり、いまのは無しで──」
「ほら、なにしてんだ。俺達の家へ帰ろうぜ──ユキナ」
俺の言葉にユキナ嬢──いや、ユキナが顔を上げる。
そんな彼女へ俺は買い物袋を持ち換えて手すきにした手を差し出した。
別にそれでなんの意図があるとかではないが、それが俺の答えだ。
「俺と君は、対等、だろう?」
「───」
気恥ずかしさを覚えて、つい頬を指でかいてしまうが、それでも言った俺へ、少女からまんまるな瞳が返される。
「は、はいっ!」
言ってユキナが俺の手を握ってきた。まさか本当に握られるとは思わずビクリと肩を揺らしてしまったが、しかしその横で少女が満面の笑みを浮かべているのを見つけてしまい、俺はなんと表現したらいいのかわからない感情を覚えた。
そうして俺とユキナは自宅へ帰る。
二人の家である集合住宅の玄関。そこの鍵を開け、中へ入ろうとして──
「ん?」
違和感。それに俺は眉を顰める。
「ハルくん……? どうかされましたか?」
そのことは手をつないでいたユキナにも伝わり怪訝な表情を彼女が返してくるので、俺は何と返していいのかわからず言いよどんでしまった。
結論から言えば、それが致命的な隙につながる。
「───⁉」
ぐらり、と揺らぐ意識。
意識だけでなく、体が倒れている。それと同時に感じた呼吸器系の異常──どうやら室内の大気に、毒物が混じっていたらしい。
「あ──」
ユキナもまた、そのことに気づき、ギョッと目を見開いた。
俺と彼女がともに玄関で倒れようとする中、
「対象の気絶を確認」
そう声を発する、何者がいた──
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