汚れた傷キス

@hnsmmaru

【1話読み切り】風花が舞う日に

 暗闇を切り裂く幾万もの輝きに目を奪われた。

 色鮮やかな装飾を施された木々の合間で、人々はスマートフォンを掲げ写真を撮るなり、楽し気に言葉を交わしたりと、それぞれが甘い雰囲気の世界を作り、没入している。

 ――それを俺、榊悠矢さかきゆうやは、長方形のモニター越しに眺めているだけだ。

 クリスマスが近付くと、テレビ局がこぞって特集を組む。クリスマスの過ごし方、予約が殺到しているケーキ店、イルミネーションデートを楽しめるテーマパークや街々など。皆が一堂に会してクリスマスを楽しめるよう、ワイドショーで放送される日々。テーマパークに一緒に行く彼女もおらず、イルミネーションを共に眺める友人も少ない。仕事が休みの日にはつい家に篭りがちな自分には全く関係のないイベントだ。

 そもそも高校の時からスーパーでアルバイトを始めて十年、クリスマス当日は毎年出勤し、何処にも出かけてはいない。今年のクリスマスも例年同様仕事がある。これまでと何ら変わらないだろう。

 テレビ越しにイルミネーションを眺めつつ肩を落としていると、不意に後ろから声がかけられた。

「兄貴、ちょっといい?」

 振り向かずに、「何だよ」と返すと、弟のれんはさらに続けた。

「クリスマスにさ、家に友達を連れてきたいから、兄貴は何処かに出かけててくんね?」

 実に大学生らしい、人生という名の旅路を謳歌している風な返答だった。俺もいつかはそんなクリスマス当日を味わってみたいと正直思っている。

 友達って、隠すの下手か! どうせ彼女だの、好きな奴だろうが! と、盛大にツッコんでしまいそうにもなったが、俺は慌てて言葉を呑み込んだ。

 弟のせっかくのを邪魔するわけにもいかない。恋人がおらず、ただただ仕事と向き合うしかない自分には縁遠い大切な時間だ。

 羨ましさを感じつつも、適当に了承しておくほかないだろう。だが兄貴として、揶揄うことも忘れない。

 ふーんと一度相槌を打ち、ゆっくり振り返ると微笑んだ。

「わかった、わかった。クリスマスはそのトモダチとやらと楽しめよ。ただどんな子なんだ? お兄ちゃんに紹介してくれよ」

「紹介も何も、ただの友達って言ってんだろ? 変なこと聞くなよ」

 誤魔化すように踵を返した蓮は、自分の部屋に戻ろうとしていた。

「変じゃないだろ。お兄ちゃんとして、把握しておきたいだけだ」

「そういう関係って、変なこと言ってんなよ。何度も言ってんだろ? 友達だっつうの」

 足を止めた蓮にさらに言葉をかけた。

「トモダチだったら、素直に会わせてくれてもいいんじゃないか?」

「……うるせーな。いちいち気にすんなよ」

 苛立ちを隠しきれていない蓮は、吐き捨てるように呟いた。大学生にもなって恥ずかしがり屋なのか? と新たに矢で射貫きたいほどだったが、まるっきり異なる言葉が出てきてしまう。

「お前が、スマホにストラップを付けるなんて珍しいな」

 腹立たしそうに、蓮がポケットからスマートフォンを取り出したのを見逃さなかった。手帳型の黒色のスマホケースに繋がる見慣れないストラップ。今までは、鞄にも鍵にもストラップを付けてこなかったはずの蓮が、年頃の女の子が喜びそうな青色のくまのストラップを付けている。

 見落とさないはずがなかった。

「なんか蓮らしくなくね? その可愛い感じ」

 俺の目線に気が付いたのか、蓮はストラップを自分の前で揺らす。

 先程までの苛立ちが完全に消え去ることはないが、言葉とは相反して、すごく穏やかな表情に変化していた。

「別にいいだろ。たまたまだよ」

 ストラップを愛おしそうに見つめているその瞳は、今まで一度たりとも見せたことのないものだ。初めて見るその顔に、何やら無駄に察してしまったというか、「青春だなあ」と自分にはなかった過去を羨んでしまう。それと同時に、弟が自分の元から離れて行ってしまうであろうと、寂しさが胸を襲う。

「たまたまね。で、クリスマスは彼女と一緒かよ?」

 冷やかしてもなお、その気持ちが消えることはない。

 たとえ――口に出されてはいないが――邪魔者扱いされようとも、長年傍で見てきた存在が、少しずつ自分の手から離れてしまうのは心が締め付けられるようだった。

「兄貴、くどい」

「ごめんごめん」

 平謝りで許しを乞うもやはり侘しさが残る。

「でも、ま、兄貴の言う通り、そんなとこかな」

 何処か、恥じらうように微笑む蓮を前に頷いた。

 まだ誤魔化されているような気はするが、今まで一度も蓮のそんな話を聞けずにいた兄としては、寂しくありつつもそっと胸を撫でおろしてしまう。

 だが俺自身が、蓮と同じように彼女だ何だと話せる日は訪れるのだろうか。

「おっけ、わかったよ。その日は適当にぶらついとくから、帰ってよさそうなタイミングになったら連絡してくれ。あー、けどな、真夜中まで連絡がなかったら勝手に帰るからな? 次の日も仕事なんだ、自分ん家で休ませてくれよ」

「それは大丈夫。遅くなる前には駅まで送って行くつもりだし。つか兄貴こそ、彼女を作る予定はねーの?」

 蓮の言葉に兄貴の威厳を守りたくて、つい悩む素振りを見せてしまうが、ゆっくりと首を振る。

「今のところはこれっぽっちもないな。何より、俺にはそういう……誰かと一緒に居るっていう当たり前のことがちょっと厳しいんだわ。それよかお前に家を空けとけって言われなくとも、クリスマス当日は出勤だったよ」

 クリスマスは俺にとって何ら普通の平日と変わらない。その日に強く会いたいと思える相手もおらず、一緒に過ごしたいと心から願う奴もいない。ただいつも通り仕事をするだけ。

 合間に言葉を交わすのはお客さんと従業員。その中に特別な感情を抱いている人間などいるはずもなかった。

「兄貴はいつになったらクリスマスを大事な人と過ごせるんだよ」

「さあな、俺も知りたいね」

 いや、そんな風に思える奴なんているはずがないと思っていた。――クリスマス当日まで、は。


 *    *    *    *    *


 クリスマス当日はケーキの受け渡しで大忙しだった。スーパーの食品担当兼夜間責任者を担う俺は電話対応、レジチェッカーの応援などなど、今日一日で普段の何倍も働いているような感覚だった。

 慌ただしく過ぎていった時間を思い返すと、いつになく賑わう店内の中で忙しなく品出しを行い、レジに入ったりと交互に繰り返していた記憶しかない。

 俺は予約受付をしたクリスマスケーキの在庫がなくなったことを確認すると、一息つくように食品用冷蔵庫から出た。そこで先輩女性社員の白石さんに声をかけられる。

「榊君! クリスマスケーキの受け渡しはさっきので最後よ、お疲れさま。レジも落ち着いたし、時間通りあがっていいわ」

 彼女は俺よりも二個年上で、社員として働きレジチェッカーのチーフを務めている方だ。普段は夕方には帰ってしまうが、クリスマスのようにサービスカウンターでの業務に大幅に人員を割く必要がある場合はこの時間まで残っている。

 時刻は二十一時。その日の夜間責任者へと引継ぎを行い、閉店時間の二十三時まで、社員である責任者一名とアルバイトやパート数名で運営を行う。

 本来であれば、今日は俺が責任者として残るはずだったのだが、急遽定年退職前のお爺さん、福永さんが閉店まで残ってくれることになった。

 福永さんの優しさかどうかはわからないが、『クリスマスだろう? 若者は楽しみなさい』と穏やかに微笑まれ、シフトが変更された。

 俺に彼女がいる前提で、恋人と過ごしなさいと遠回しに言われているのだろうかと勘繰ったが、すぐに考えるのを止めてしまった。他人からの優しさを無下にするのも失礼だろう。素直にお礼を述べると、そのまま仕事を始めた。そして食品用冷蔵庫前の今に至る。

「白石さん、お先に失礼します!」

「ええ、お疲れさま。そうだ、店長からの差し入れのケーキが休憩室にあるから、食べて帰ってね」

 白石さんに挨拶を済ませ、食品用冷蔵庫があるバックヤードから二階へと繋がる階段を上り、事務所に向かったが足取りは重たい。

 明日もまた仕事だ。今日と特に変わらない人員で再びお店を切り盛りするのだ。

 鉛のように重たくなってしまった足を引きずりながら事務所に入ると、事務作業をしていた福永さんに「お疲れさま」と声をかけられた。低く伸びのあるその声は年相応の落ち着きが表れているが、くしゃっとした優しさ溢れる笑顔は何処か子供のような感じだ。

「福永さん。今日はすみません、シフトを代わってもらっちゃって」

「いいのさ、お礼なんて。僕が変に気を遣って代わっただけなのだから。それに君は明日も出勤だろう? 恋人がいようがいなかろうが、ゆっくり休むといい」

「ありがとうございます。福永さんも、もしも急にシフトを変更する必要が出てきたら、気軽に言ってくださいね」

「うん、その時は相談させてもらうよ。お疲れさま、榊君」

「はい、お疲れさまです」

 福永さんとの会話を終え、慣れた手つきでタイムカードを切った俺は、丁寧に会釈をすると事務所を出た。そしてすぐ隣にある店員休憩室に入ると、中央にあるテーブルに大きなメモ用紙があるのを視界に捉えた。

『従業員の皆さんへ。二日間お疲れさまでした。休憩室内の冷蔵庫にクリスマスケーキをご用意しましたので、お好きなだけ食べてください。店長より』

 黙読を終え、記してある通り冷蔵庫の中を確認すると、明らかに現在売り場にいる従業員数以上のケーキが残されている。

 まだ複数種類が残り、俺は一番甘みが控えてありそうなチーズケーキを選び椅子に座ってみると、いつもよりも店員休憩室が広く感じられてしまった。

 お昼頃の休憩となると人数も多く賑わいを見せるが、既に多数のパートさんたちが帰宅している今、騒がしくなることはない。ただ店内にかけられている音楽だけがここにも響き渡り、黙々とケーキを食べ進めるのだ。

 自宅では蓮と友達――いや彼女だろう――がクリスマスケーキを食べながら談笑をしているのだろうか。除け者扱いされたのは悲しいが、楽しい時間を二人が過ごせているのであればぐっと堪えよう。

 大学生であれば彼女の一人や二人作るだろうが、俺は今までそんな関係性を築き上げたことはない。先を越された感は否めないが、焦っても仕方がないだろう。自分の過去、そして心と向き合いながら徐々に考えていければいいか、とチーズケーキを口に含んだ。

「あれ、榊さん、今日はもうあがりですか?」

 一人食べ進めていると突然店員休憩室の扉が開かれた。音に気が付き振り返ると、そこには仕事を終え、制服であるエプロンを脱ぎ欠伸を漏らした後輩アルバイト生、丸山慧まるやまけい君の姿があった。

 明るい口調で俺に声をかけてくる彼は、まだ高校一年生で、自分より年下ながらも何故か軽くあしらってくるのが日常茶飯事だ。

「丸山君も、今日はもうあがりか、お疲れ」

「お疲れさまっす」

 軽快な足取りで店員休憩室に入ってきた丸山君の後ろには、僅かに疲れた様子を見せる白石さんもいて、続けて「お疲れさまです」と口にする。

 すると、ぱあっと疲れが飛んだような晴れ晴れしい笑顔を浮かべた彼女は、俺に同様の言葉を返し、颯爽と更衣室へ消えていった。

 店員休憩室に残された俺と丸山君は互いに顔を見合わせるも、もう一度チーズケーキを口に運ぶ。

「丸山君も、ケーキを食べてから帰ったら?」

「店長のお言葉に甘えて、そうさせてもらいます。すぐ帰っても、なんもいいことはないし」

 冷蔵庫からシンプルな苺のショートケーキを取り出した丸山君は、どうしてか俺の真正面に腰を下ろした。周囲には十席近くのイスがあるにも拘らず、だ。

「いただきます、と」

 両手を合わせた丸山君は静かに呟いた。

 わざわざ席を移動するのも面倒で、仕方なくそのまま座り続けるが、くすぐったいような不思議な視線を感じ、つい目を逸らしたくなってしまう。

「この後、彼女と過ごす予定はねーの?」

 フォークでケーキを切りながら、大して興味のない質問をしてみた。きっと福永さんや白石さんにも聞かれているだろうが、深い意味もなく尋ねてしまう。

 無論、この手の問いかけをすると、後に同じ質問に答えなくてはならないことは十分に理解している。

「彼女なんていないもんで。そういう榊さんは?」

「俺もいねーよ」

「じゃあ早く家に帰って、一人クリスマスを楽しめばいいんじゃないっすか?」

 蓮とクリスマスの予定について話してから十日も経っていない。その間に彼女ができるはずもなく、俺は相変わらず一人だ。蓮から連絡があるまでどんな風に暇を潰すか、考えなくては。

「一人クリスマスなんて虚しいだけだろ。それよか今日は弟が彼女を家に連れてくるらしいからな、早く帰るわけにはいかねーの」

「ふーん、そうなんすか。だからゆっくりケーキを食べてるんすね」

「ゆっくりでもなくね? 味わって食べてるだけだよ」

 俺が一口ずつケーキを口に運んでいく間、丸山君はじっと見つめていた。なかなかケーキを食べ始めずに、俺の真正面で微笑んでいるのだ。

「ケーキ、食べねーの?」

「言われなくとも食べますよ。ただ、榊さんとこうして過ごせるチャンスってなかなかないんで、つい」

「チャンスって、俺なんかと一緒にいるくらいならさっさと彼女でも作ればよくね?」

「彼女なんて作るつもりはないんで」

「んなこと言わずに今のうちに青春を謳歌しとけよ、男子高校生」

「青春なんて、どうでもいいんすよ」

 やっとケーキを食べ始めたかと思えば、丸山君の手はすぐに止まってしまった。相変わらず俺を瞳に映し穏やかに笑みを浮かべている。だが次第に表情が曇っていった。

「あ、でも、惹かれてる人はいます。その人は俺のことなんてなーんとも思ってないんでしょうけど」

「今は何とも思っていなくとも、アプローチしていけば少しずつ変わっていくんじゃないか?」

「だといいんですけど」

「応援してるよ。お前のそんな話、聞いたこともないしな」

「まあ普段はこんな話しませんからね。榊さんにだけ、特別っすよ」

 そう言い丸山君はケーキに視線を落とした。ケーキを食べる瞬間も伏し目がちで、今日の彼の表情はころころと変化していく。

 丸山君の考えが読めない。いつもならもっと明るくて、先輩の俺を馬鹿にするような態度を取りがちなのに、今は何処か年相応の、恋愛に臆病な男子高校生に見える。

 そんなことを考えながらケーキを食べ進めていると、いつの間にか食べきっていた。フォークを置く頃には、こちらを直視していた丸山君の視線にも慣れてしまったらしい。

 ゆっくり顔を上げると、彼の口元にホイップクリームが付いていることに気が付く。伝えずにいて、そのまま放置するわけにもいかず、口を開いた。

「丸山君、そこ、クリーム付いてる」

「そこ、ってどこっすか?」

 とぼけたように首を傾げられる。

「だから、そこだよ。唇のみぎっかわ」

「榊さんから見て右ですか? それとも僕から?」

「お前から見てだよ」

 わかりやすく指をさすも、なかなか伝わらない。

「わっかりましたあ……ココかな」

「ちがうちがう、もう少し下だよ」

「こっちかな」

 わざとやってんのか! と強く言いたくもなるが、呆れ具合が増すばかりだ。

「だーかーら、違うっての――」

 まだ伝わらないのか。溜息をつきたくなったが思いもしない頼み事をされてしまう。

「もう面倒なんで、榊さんが取ってくださいよ。ほら」

 丸山君がイスからお尻を浮かし、こちら側に顔を寄せてきた。俺は思わず顔を遠ざけてしまうが、「榊さん」と妙にはっきりと、そして真っ直ぐな声で囁かれると不覚にも固唾を呑んでしまう。

 体感したことのない丸山君との距離感に、不思議と視線を逸らせなくなってしまった。先程までの雑な物言いからは、打って変わって、吸い込まれてしまいそうな、それでいて何処か寂しげな瞳は魅惑的で、ぐっと心を掴まれてしまったような感覚だった。単純な色気ともまた違う、高校生の浮かべる表情としてはひどく物憂げだ。

「お願いします」

 今までに見たことのない丸山君のそれに俺は困惑した。寂寥な表情、何かを強く訴えかけるような物哀しげな瞳。何も言えず、口を閉ざしかけていたが、次第にゆっくりと目を逸らし始めてしまう。

「自分で取ったらいいだろ」

 俯きながら消え入るような小さな声で呟くも、丸山君の耳に入ることはない。微かに冷えた彼の手が、テーブルの上で遊ばせていた俺の右手の人差し指を握り締めた。

「この指で取ってくださいよ」

 ゆっくりと持ち上げられる指先。俺は程なくして目線を上げると、振り払うような真似もせず、フォークから手を離した。彼に言われるがまま口元へ指を運ぶ。

 妙に心臓が高鳴って仕方がない。

 何ともない、ただホイップクリームを拭いとるだけだと頭では十分に理解している。それ以上でもそれ以下でもない行為のはずなのに、丸山君の寂しげな瞳が、声が、俺の心を刺激して止まない。どくんどくんと全身が心臓になってしまったかのように指先までもが脈打つ。

 渋々指先を伸ばしているはずなのに、気持ちが高ぶり、顔が熱を持った。丸山君の口元へ距離が近付けば近付くほど、互いの視線が絡み合い、瞬きさえも忘れてしまう。

 どのくらいの時間、俺たちは見つめ合っていたのだろうか。店員休憩室の先、更衣室からガタガタと音が聞こえてきた瞬間、俺は慌てて視線を逸らすと、静かに呼吸を整えた。

 一度目を合わせて以降、簡単に逸らすことのできなかった丸山君の瞳には、――非現実的であることはわかっているが、何やら魔法のような――、俺の意識を向けてしまう不思議な力があるように思えて仕方がない。

「取るぞ」

「はい、お願いします」

 意を決し、口元に付いたホイップクリームを指先で取ると、柔らかい彼の頬の感触が伝わった。他人の頬に触れる機会なんてものはそうそうなく、何故か異様なほど胸が弾んでしまう。

「ありがとうございます。ただ、そのクリーム、舐めていいすか」

「いや、ティッシュで拭くし……なっ、おい!」

 丸山君は俺が制止したのも気に留めず、ねっとりと指先を含んだ。温かな口内で指先を何度も舌で舐められる感触に、変な気分になりかけてしまう俺を他所に、彼は大事なものでも扱うかのように、丁寧に、じっくりと、舌先で舐める。

 体が熱い。上目遣いで俺を見つめる彼の瞳から目を逸らせない。ここが職場であることさえも忘れてしまいそうなほど、官能的な空気感に気圧されてしまう。

「ちょっ、もう、止めろよ! 白石さんがまだ帰ってないんだぞ!」

 やっとの思いで吐き出せた言葉に、丸山君の体が小さく震えるのが見えた。舌先の動きも止まり、目線が泳ぐ。捕えられていた瞳が遂に解放された。

「お前、何してんだよ。……年上を、バカにしてんのか!」

 想像をしていなかった事態に歯切れが悪くなってしまう。顔の熱も治まらず、心臓の鼓動も速い。先程まで食していたチーズケーキの味も忘れてしまいそうなほど、彼の行動には面食らってしまった。

「別に、そういうわけじゃないっす」

「だったら、なんで……」

「そりゃあ、自分じゃクリームが取れないから、代わりに取ってもらいたかっただけで、それ以外の理由はありませんけど」

「そういうことを聞きたいんじゃない。普通、クリームを取ったからって、ただの先輩の指を舐めたりしないだろうが」

 咄嗟に声を荒らげてしまいそうになる。それでも、自分の中で歯止めが効いたのは、丸山君の瞳が妙に揺れていたからだ。まるで雨に濡れた小さな子犬のように、視線を落としている。

 これまで一度たりとも見たことのない表情の連続だった。俺が今まで見てきた丸山君は一体何だったのだろうか。俺が知らない顔をあといくつ持っているのだろう――。

 自分の心は思いもよらない感情で包まれていた。驚きはあっても嫌悪感はつゆほどもない。彼への興味が大きく胸を膨らませる。

 だが冷静さを取り戻さなくてはならない。静かに一度息を漏らすと、新たに言葉を紡いだ。

「ま、いいよ。もう気にしねーから。ただこういうことは他の人にはしないこと、いいな?」

「なんか、僕に気を遣ってくれてます?」

 恐る恐る視線を上げていく彼は僅かに首を傾げた。その様子も何故か俺の気を引いているようで、放っておくことも、強く突っ撥ねることもできない。

「気を遣ってなんかねーよ。ただ誰しもが俺みたいに指を舐められるのが平気なわけでもないし、普通なら拒絶もんだから、気を付けろってことだよ」

「それは大丈夫っす。こういう積極的な真似は榊さんにしかしないって決めてるんで」

「意味わかんねーぞ」

「今はまだわかってもらえなくても構いませんって。ほんと、ありがとうございました。クリーム、取ってくれて」

「別に改めて礼なんていらねーよ。お前が半ば無理矢理取らせたようなもんだしな」

「それでもっすよ。つか榊さん、ケーキ食べきっちゃってたんすね。もしかしてもう帰られちゃいます?」

 丸山君が俺の目の前にあったお皿を指さした。そこには使用済みのフォークだけを置いている。

「いや、まだ、帰らねーけど……そういうお前もケーキ食べきってんだろ? もう帰んのか?」

「僕もまだ、っすかね。店長からケーキを残さず食べて欲しいって言われてるんで、残りの人たちの分以外は食べきりますよ」

 そう言うと、彼はおもむろに立ち上がり冷蔵庫へと向かった。まるでこの数分の間には何もなかったかのように、けろりとした様子で冷蔵庫を覗き込んでいる。

「あら、二人とも、まだ残ってたの?」

 店員休憩室の先から声がかけられた。聞き馴染みのあるその声の正体は更衣室から出てきた白石さんだった。普段よりも妙に洒落た服装の彼女は足取りも軽く、こちらへ歩み寄ってくる。

 丸山君も彼女の声に気が付いたのか振り返ると、ゆっくり冷蔵庫の扉を閉じた。

「これからお出かけですか? 妙に楽しそうですね」

「わかっちゃった? この後女子会に行くの。悲しいけど、恋人のいない者同士で集まって、好き勝手愚痴ったり、恋バナに花を咲かせるのよ」

 鼻歌混じりに歩く白石さんはその女子会が心底楽しみなようだ。普段よりも声色が明るく、微笑みも三割増し輝いている。

 俺と丸山君も互いに顔を見合わせて微笑んでしまうが、きっと同じ結論に至っているからだろう。何も言わず送り出そうとしたが、彼は何の悪気もなく口を開いてしまった。

「そういう集まりをするから、彼氏が――」

 バカ。呆れるよりも先に白石さんが反応を示してしまう。

「何か言ったかしら? 丸山君」

 開いてしまった口は塞がらない。

「いえ、何も――」

 目を細めて、口角を上げた彼女の笑みは薄らと背筋を凍り付かせた。丸山君も静かに口を閉ざし、小さく頭を下げる。

「それじゃあ、二人とも。お疲れさま」

 白石さんは口元に手を当て「ふふ」と微笑むと、俺たちの言葉を待たずに店員休憩室から出て行った。小さく「お疲れさまです」と言ったが聞こえてはいないだろう。

 その場に取り残された俺たちは、白石さんについては一切触れずケーキの話題に戻る。

「丸山君はさ、甘いもの得意?」

「まあ好きっすね。得意とまでは言いませんけど」

「ふーん、そっか」

 短く相槌を打っているうちに、彼はもう一度冷蔵庫を覗き込んでいた。先程よりも時間をかけて選びたいのか、箱ごと取り出し、テーブルに持ってくる。

「そういう榊さんは、甘いもの、お好きなんすか?」

 テーブルの上に箱を広げた彼は、こちらには視線を向けず訊いてきた。質問はしつつも今はさほど興味がなさそうだ。丸山君は頭を悩ませてケーキを選ぶことに集中している。

「俺は、そんなに好きじゃないかな」

「何がすか?」

「何がって、甘いものだよ。お前が訊いてきたんだろ」

「あ、そうでしたね。すみません、選ぶのに必死で、つい」

 やっと頭を上げた丸山君はフルーツケーキを選び、先ほど使った取り皿の上に丁寧に移していた。

 ベリー系のフルーツが綺麗に飾られたケーキは見る者の目を奪い、手を伸ばさせる。

「榊さんは、もういらないんすか?」

 どうせなら、と箱を覗き込んだ。

 箱に残っているケーキは五つ。売り場に残る従業員は夜間責任者の福永さん、そしてレジチェッカーの三人。店長の丸山君への言伝を踏まえるとあと一つは食べておいた方がいいのだろう。

 抹茶ケーキに苺のショートケーキとチーズケーキ。ベリー系のフルーツケーキにチョコレートケーキが残されていた。

 甘さは控えめな方が好きだ。チーズケーキは既に食べてしまったし、次は抹茶ケーキにしよう。崩さないように取り皿に移すと、早々に丸山君が残りのケーキを冷蔵庫にしまってくれたようだ。

 再びテーブルを挟み、向かい合うような形で座ることになる。

「いただきます」

 丁寧に手を合わせた彼は、ゆっくりとケーキを食べ始めた。俺も彼に倣い「いただきます」と合掌をすると、フォークを手にする。

 先程までの言動、感情が、うそのように穏やかな時間が流れ出した。会話もなく、お互いの呼吸音と、カツンとお皿にフォークがぶつかってしまう音が響く。

 二つ目に食べた抹茶ケーキは思った通り甘さは控えめでしつこくもない。それでいて抹茶の苦みが僅かに残された。

 そんな味に酔い痴れて、俺は静かに何度か頷いた。味覚に全神経を使い、他の器官は正直二の次だった。丸山君の声も何処か遠くに感じられてしまうほどだ。

「さっき彼女はいないって言ったじゃないすか。でも惹かれてる人はいるって。ま、惹かれてるって言い方だとわかりづらいっすかね」

 何となく相槌は打つけれど、ケーキを味わうことにばかり気が向いて仕方がない。

「好きな人がいるんす」

 丸山君の言葉に耳を傾けなくては、と思いつつも、抹茶ケーキに魅了されてしまった俺は、完食するまでの間、彼の話を右から左に聞き流してしまうだろう。

「僕よりも年上で、結婚もしてそうな年齢だけど、そもそも恋人がいないからか、せっかくのクリスマスなのに働いて」

 ――それほどまでに美味しいのだが、進展していく話の流れにふと白石さんの姿が過る。自分よりも年上で、クリスマスなのに働いて、女子会。

 意外にも年の離れた女性が好きだったとは。

 ケーキを食べ進めながら、ふとそんなことを考えた。

 だが丸山君の方へ視線を向けると不意に目が合う。まるで告白をしているかのように混じりけのない真剣な眼差しでこちらを見つめ、一切の冗談も交えずに言葉を続ける。

「仕事が終わってもなかなか帰ろうとしないで、時間を潰すつもりで適当に駄弁ってるんす」

 丸山君の言葉に不覚にも手が止まってしまった。俺の今の状況と完全に一致している。

「あーそうだ、性格的な意味で言えば……人前では明るくてよくイジられる愛されキャラって言うんですか? でも本当は、あんまり他人を信用していないようにも見えるんすよね。人と距離を縮めたがらないというか、何処かで人と仲良くなることを拒絶してる?」

 冷静に分析されていたことに驚き、耳を疑った。抹茶ケーキの魅惑が水のように薄まり、丸山君の話に耳を傾けてしまう。

「本人は自分のことをあまり話したがらないんですけど、僕の前では少しだけ、ほんの少しだけですけど、他人の前ではしっかりと作っているはずの壁が脆いというか、何て言うんだろう、僕が近くにいる時だけはガードが緩いような気がしてるんですよね」

 一体誰のことを話しているのだろう。丸山君は誰に片想いをしている? 俺は思わず口を開いた。数分前に抱いていた彼への興味が再度強まる。

「なあ、それって、だ――」

「ね、榊さん」

 訊く前に俺の名前を呼ばれてしまった。突然過ぎる呼びかけに思いがけず「は?」と首を傾げてしまう。続けざまにもう一度訊ねるつもりだったが、間髪入れずに言葉を返された。

「お腹が膨れちゃったので、最後の一口食べてもらってもいいすか」

「え……ああ」

 突然過ぎる言葉に、言われるがまま「あーん」と口を開いてしまった。一口サイズのケーキが口に入れられ、じっくりと堪能する形になってしまう。

「甘いもの得意じゃないって言ってましたけど、フルーツが苦手じゃなかったら、意外とイケますよね? こういうの」

 質問をする機会を逃してしまった俺は、ケーキを味わいながら小さく頷いた。彼はまるで何事もなかったかのように取り皿を片付け始める。

 自分の胸の中に生じたしこりのような異物感がハッキリと感じられた。このまま帰りたくはない。丸山君が誰を指し、俺に『好きな人』と告げたのか、応援すると言った気持ちに偽りはないが何も知らずに応援できるほど単純な恋愛でもなさそうな気がして、慌てて抹茶ケーキをかきこんだ。

「丸山君待って。俺もすぐに片すから途中まで一緒に帰んね?」

 彼に声をかけると、二つ返事で一緒に帰ってくれることになった。

 これまでの人生、何人か付き合いのある人間はいるが、幼馴染を除いては、こんなにも自分から距離を縮めようと思ったのは初めてだった。丸山慧という人間が、どうして俺をここまで駆り立てるのかはまだわからないが、自分の感情に素直に従ってみようと立ち上がる。

 それから俺は一度も座ることなく取り皿を洗い、拭きあげると食器棚に戻した。そして瞬く間に帰宅準備を整えると、彼とともに職場を後にしたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 外に出ると、一面銀世界が広がっていた。

「ホワイト、クリスマス……」

 嬉しそうに微笑む丸山君は、風に踊る粉雪を、手袋を嵌めた右の手のひらの上に乗せている。傘を差すようなほどではないが、今年初めて眺める雪景色にはつい、自分自身の頬も緩んだ。

 それは俺が一人で雪を眺める時には湧き上がらない感情だったかもしれない。まるで子犬のように、目には見えない小さな尻尾を躍らせる丸山君が隣にいるからこそ、俺もまた笑ってしまうのだ。

 彼の笑顔を奪う必要があるのだろうか。自分自身の好奇心と彼の笑みを天秤にかけてしまうことが些か勿体ないように感じてしまうのは、どんな心境の変化だろう。

 今までごく一部の人間にしか興味を抱かなかった俺が、どうして丸山君には関心を寄せるのか――明確な答えはまだ見つからないだろう。彼の想い人の名前を知ったからといって、何を得られるのかもわからないが、何も聞けずにいたら一緒に帰ろうと勇気を出した意味がなくなってしまう。

「丸山君。さっき言ってた好きな人って誰のことなんだ?」 

 勇気を奮い立たせ口にした言葉に、彼はひどく哀しそうな笑みを浮かべていた。そして俺と視線を合わせることなく、一歩、また一歩と歩き出す。

「誰って言われてもなぁ……やっぱ気付いてないんすね」

 少しずつ遠ざかっていく言葉は白く覆われた世界に消えていってしまうようだった。彼は声を張ることなく、徐々に背中を丸めながら呟く。辛うじてこちらに聞こえてはいるが、今にも届かなくなるだろう。

「いいんです、もう、いいんです」

 振り返ることなく次々と紡がれる言の葉に、俺は急いで彼の背中を追いかけた。

『これ以上、聞かないでください』

 丸くなりつつあった彼の背中はそう語っているようにも見えた。

 だが俺の駆け足気味の足音が聞こえたのだろうか。丸山君は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。今にも雪景色の中に消えてなくなってしまいそうな、儚げな微笑み。

「忘れてください」

 淡い風にさえ吹き飛ばされてしまうであろう、吐息混じりの言葉。

「榊さん、雪、止んじゃいましたね」

 俺は、哀しげに曇り空を見上げた丸山君を前に、静かに口を閉ざしてしまった。振り絞ったはずの勇気は冷風とともに流されて行き、俺たちはそれ以上の会話をすることもなく、彼が利用するであろう最寄り駅、馬出駅にまで歩き出した。

 今日の丸山君は何処か気がかりな行動ばかりを取っている。しかし問いかけることもできずに、ただ自分の中で募る彼への疑心と興味が大きく胸の中で渦巻くばかりだ。

『好きな人って? 俺の知ってる人なのか』

『応援するって言ったろ? もう少し詳しいことを聞かせてくれよ』

 彼への問いかけが頭に思い浮かんでは早急に霧散していくものの、別々に帰ろうとは言い出せなかった。 

 ほんの少し先を歩く丸山君を、後ろから強く抱き締めてしまいたい衝動に駆られたのは今回が初めてだった。

 確実に変わりつつある心境に戸惑いながらも、丸山君が先程見せた寂しげな表情に俺は胸を打たれてしまった。けれど強く抱き締めようとしたのは心だけで、体は動かない。心の暗い奥底に沈めた過去が甦ってしまうのを防ぐように、一種の防衛本能が働いていた。

 彼との距離を取らず、ただ後ろ姿を追うように住宅街を歩いていると、見慣れた最寄り駅に到着した。

 疲れた表情のサラリーマンや、屈託のない笑顔を浮かべているカップルの姿などが目に留まる。

 しかし一際目を奪われてしまうのはやはり丸山君の姿だった。歩みを止めた彼は俺の方へ振り返ると、駅を指さし、口を開いた。

「駅、着いちゃいましたね」

 交通系ICカードを手に取ることもなく、俺に問いかける。

「電車乗るんでしょ? 榊さんは」

 電車に乗る必要のない俺もまた、特に鞄の中を漁ったりはしない。

「僕、電車には乗らないんすよね。家、すぐそこなんで」

 丸山君の思わぬ言葉に俺はつい溜息をこぼしてしまった。

「なんだよ、それを先に言えよ。俺だって乗らねーわ」

 ベンチがあれば今にも腰を下ろしてしまいたい気分だった。

 スーパーから徒歩十分。いくら自宅までの道なりに馬出駅があるとはいえ、いたずらに時を過ごしてしまったような感覚だった。丸山君の好きな人の名前を聞き出すこともできず、何か深く意味のある会話をしたわけでもない。

 彼の背中を追い、歩いていた時間に意味があったのだろうか。

 そう後悔するより先に、ふとあることに気が付いた。

「俺たち、案外近所に住んでたりして?」

 ろくに考えることもなく口に出してしまったが、丸山君が表情を曇らせることはなかった。それどころか頬を緩ませて楽し気に返答をしてくれる。

「それはあるかもしれないっすね。この踏切の先の商店街にある肉屋さん知ってます?」

 何気なく弾む会話に俺も嬉しくなって、意気揚々と言葉を返した。

「コロッケが旨いあそこか?」

 悩む素振りもなく、はつらつとした笑顔を見せる彼とは、本当に家が近いのかもしれない。

「そうです、そこ! 名前はなんて言ったっけ」

「あれだよ、あれ」

 二人してど忘れから行き着いた答えは一緒だった。

「ミート中島!」

 俺たちは息を合わせて店名を発すると、次の瞬間には溢れんばかりの笑顔を浮かべた。

 こんな何気ない会話で、ここまで大きく笑い合える空気感の持ち主とは初めて出会ったような気がする。それが年下の男性であることには驚きだが、特別嫌でもなく、これが運命だというのであればすんなりと受け入れたくなってしまうのは、丸山君だからだろうか。

「あーやっぱ同じ肉屋さんを想像してたんすね! なんだろ、普通に嬉しいんすけど」

「何だよ、こんなことで嬉しいのか?」

 次第に恥じらうような笑みに変わっていく彼は、若干目を泳がせていた。今日何度目とも知らない新たな丸山君の一面に、また心が揺れ動いてしまう。

「あっ、肉屋さんの名前をハモらせたってことだけじゃなくて……」

 口ごもる彼は少しずつ目線を落としていった。だが俺はつい続きを求めてしまって――。咄嗟に彼の肩に手を乗せて、言葉を待った。

 想像もしていなかった自分の変化に、自分自身が一番驚き、少しずつではあるが過去を払拭できているような気さえした。

「何だよ、言えよ。丸山君」

 穏やかな笑みを浮かべ彼に声をかけると、静かに顔を上げてくれた。俺の言葉に初めは戸惑いの色を見せてはいたが、徐々に表情を緩ませていく。目を細め、何処か大人びた様子で笑うのだ。

「あんたのその笑顔を独り占めしたいんすよね」

 丸山君から発せられたこれっぽっちも予期していなかった言葉に、俺は呼吸をするのも忘れて、意味を確認してしまった。

「それ、どういう」

 しかし突然、上着の中でスマートフォンが振動した。一瞬にして現実に引き戻される。

「電話すか? 出ちゃってくださいよ」

 彼に言われるがままに電話に出ると、苛立ちを窺わせる声が耳に入ってきた。

『牛乳買って来て』

 短すぎる用件に唖然としてしまう。ただスマートフォンを握り締めるだけ。

『兄貴、聞いてんの? 何か言えよ』

 捲し立てるような蓮の言葉にハッとして、慌てて相槌を打った。

「わかった、買ってくよ。ただもう帰っていいのか? 彼女は」

『牛乳、頼んだから』

 怒気を孕む声の主は、俺の質問に答えようともせず電話を切った。途端に不通音が耳に届き、何も言えないままスマートフォンをしまい込む。

「……榊さん? 家に帰ってよさそうなんすか」

「あぁ、まあそうみたいだ」

「ついでに何か頼まれたんでしょ? さすがに高校生の僕はそろそろ帰らないとまずいんで、ここで別れますか。方向は一緒でも、今日は、ね? また明日っす」

 名残惜しそうな面差しの彼にまだ聞きたいことがあったにも拘らず、俺は言葉も返せないまま手を振り返した。丸山君もまだ何かを言いたげな様子だったが、意外にもあっさりと背中を向け歩き出していた。踏切を越えた先で右に曲がっていく。

 対して俺は踏切を渡ると、彼とは違い直進し続ける。そして途中にあるコンビニエンスストアで頼まれた牛乳を買うのだ。先程までとは異なりたった一人で。

 丸山君の姿は見えなくなり距離はどんどん離れていくが、心には彼が残り続けた。それどころか俺の胸中を占める面積は広がり続け、微笑んでいるのだ。

「家に送ってきゃよかったかなあ……」

 闇夜に向けて呟いた言葉は俺の耳にしか届かない。彼に告げるべきだった言葉かはいまいちわからないが、今になって思い浮かんだ事態に肩を落とした。

 今日一日だけで丸山君の様々な表情を見られたような気がしてならない。今までには知ることのなかった、彼の内側、もっとも他人に触れさせていなかった部分に触れていたような――。

 俺はコンビニエンスストアに向かう道中、そして牛乳を購入し、蓮と暮らすマンションに帰るまでと、ずっと丸山君のことだけを考えていた。目を瞑れば彼の姿が瞼の裏に映り、ちゃんと家に着いただろうか、彼の好きな人とやらは果たして誰なのか、この彼に対する興味、好奇心はただの後輩に向けるものだけなのかと思案に暮れていた。

 だが早い段階で気付いていたのだ。人との距離を縮めるのは得意だが、何処か陰のある男子高校生、丸山君に俺は惹かれていると。

 マンションの敷地に入り緑に囲まれた私道で、俺は改めて再認識した。彼から向けられる視線、かけられた言葉の一つ一つには意味があったのだろう。何もなければ、俺のようないい年になっても恋人がいない男に、屈託のない笑顔を見せるはずがない。

 エントランスへの道すがら、一人俯いて赤と白のレンガで彩られた道を歩いていると、足元に突然他人の影が映り込んだ。次の瞬間には、突如として右肩に衝撃が走り俺は思わず息を漏らしてしまった。そして右手に持っていたビニール袋を勢いよく手放してしまう。

「っ……うわあ!」

 反射的に聞こえてきたのは男の驚き狼狽する声と、どさりと尻餅をついた音。自分はバランスを崩した程度だったが、相手には怪我をさせてしまったかもしれない。

 俺は慌てて音のした方へ視線を向けると、痛そうに尻を撫でる男性の姿がある。すぐさま駆け寄ったものの、つい他の物に視線を奪われてしまった。その人がピンク色のくまのストラップを握り締めていたからだ。

「すみません! ケガはありませんでしたか?」

 案の定自分が声をかけるよりも先に、青年に心配されてしまった。

「それはこっちのセリフ。俺は平気だけど、そういう君の方が怪我とかしてないか? どっか痛むところとか……。本当ごめんな、俺がよそ見をしてたせいで」

 彼を立ち上がらせるべく腕を伸ばすと、強く手を握ってはくれたが、悲しそうな表情を押し殺し、無理矢理笑顔を作っていることに気が付いてしまった。

 やはり何処か痛むのだろう。

「どっか痣とかできてないか? 万が一があったら――」

「全然、平気ですから!」

 俺の心配を他所に彼は落としていたスマートフォンを拾い上げると、そのまま走り去ってしまった。

 この場から早々と遠ざかりたかったのだろうか。

 一人残された俺は、彼が持っていたストラップについても気が向いてしまうが、放置してしまっていたビニール袋を持ち上げた。幸い牛乳パックは変形しておらずこのまま帰ってしまっても問題なさそうだ。

 苛立っていた様子の蓮を待たせ続けてしまうと、より怒らせてしまうだろう。人使いの荒い弟を内心で毒づきながら、俺はマンションのエントランスへと向かった。


 *    *    *    *    *


 エントランスを抜け、自宅へと到着した俺は待ち遠しそうにしていた蓮に牛乳を手渡した。電話の時同様、何処となく苛立っており、普段の二割増し目つきが悪い。

「蓮、何かあったのかよ? 機嫌悪そうだぞ」

「兄貴には関係ねー」

 事情を聞き出そうとするものの何も教えてはくれない。

 それどころか碌にお礼を言われることもなく、牛乳を飲み進めていた。苛立っているタイミングでコップに注いだ牛乳を一気飲みするのは蓮の癖だ。

 これ以上質問をしても無駄だろう。俺は一度溜息をつき、言葉を控えると自分の部屋へ向かった。

 部屋に到着しベッドを前にすると、どっと疲労感に襲われ倒れ込んでしまう。ゆっくり仰向けになると、カーテンも開きっぱなしで、電気も点けずにいたままの部屋には僅かな外光が差し込んでいた。

 ふと物悲しく感じてしまう光景に「クリスマス、だったな」と呟いてしまう。しかしその一言に呼応してか脳裏には不思議と丸山君の姿が過る。

『彼女はいないって言ったじゃないすか』

 彼の言葉は抹茶ケーキに敵わず、適当に話を聞き流していたはず。

『好きな人がいるんす』

 それまでは全く関心がなかったのに。

『誰って言われてもなあ……やっぱ気付いてないんすね』

 ふとした瞬間に見せる、目を奪うような表情と。

『いいんです、もう、いいんです』

 何処か諦めているような言葉の数々に。

『忘れてください』

 俺の心は占領されていた。

 もちろん悲しそうに微笑む表情だけではない。

『あんたのその笑顔を独り占めしたいんすよね』

 大人びた笑みもしっかりと記憶している。

 彼は今日一日だけで様々な顔を見せてくれた。そのどれもが印象的で、俺の中には、ある感情が生まれたのだ。

 きっとこの想いは丸山君への好意だ。彼をもっと知りたい、時間をかけてでも他の人が知らない丸山君の一面を見たい。俺をもっと好きになってもらいたい。俺も彼を好きになりたい。

 そう考えてはみたものの、過去の自分が、心の奥底にある古傷が否定する。

「でもやっぱ俺には無理なんだよな。人を好きになることも、人に想われることも」

 ゆっくりと横向きになりベッドの上で体を丸め込んだ。

 丸山君は何も悪くはない。俺に向けてくれた気持ちの一つ一つは実に嬉しく、その体を抱き締めてしまいたいとさえ思わせてくれる。

 けれど、どうにもできそうになかった。心と心を通わせる恐怖が体を震わせてしまうから。

 目を瞑り考え込んでいると、上着の中でスマートフォンの通知音が鳴っていた。期待で胸が膨らんでしまうのは、――古傷とは相反して――俺が既に丸山君に恋をしているからだろう。

『榊さん、外、出てみてください』

 メッセージを確認し、胸を躍らせつつ起き上がった。ベランダに向かう途中で、『おい、いきなりなんだよ』と打ち込んでいく。

 送信ボタンを忘れずに押し、ベランダから外に出ると、俺は小さく白い息を漏らした。再び純白の雪が降り出していたのだ。まさか彼が来ているのだろうか? と疑いを持ってはいたが、見下ろすとそういうわけではないらしい。

 ただ風に踊るように雪が舞っている。

 上着を着たままだったからか身体を冷やすこともない。一度ベランダの扉を閉めた。すると今度は丸山君から電話がかかってくる。

 小さく笑みをこぼした俺は、スマートフォンの画面をスワイプした。左耳にスマートフォンを近づけると、嬉々とした声が聞こえてくる。

『雪、また降りましたけど、見てますか?』

「そのためにわざわざ連絡したのかよ」

 驚きの余りつい冷たい言葉を返してしまうが、こんな風に、何気なく電話をしてくる年下じみたところがまた俺の心を奪うのだ。

『あれ、ダメでした?』

「ダメじゃない、けど」

 別れた時よりも明るい口調で声をかけてくる丸山君に胸を撫でおろした。けれど、彼の想いに応えることはできない。たとえ俺自身が丸山君を今よりも好きになったとしても、だ。

 人は怖い。平気で他の人間を傷物にする。そこに好意があろうが関係はない。いや愛の形として、それが成り立つ場合もあるのだろう。幼き日、家族がそうだったように。

「明日もバイトだろ? 下らないことで連絡してこないで、さっさと風呂入って寝ろ」

『高校が冬休みに入ってるんで、そんなに疲れてませんよ。って、こんな話をしたくて電話したんじゃないです』

 声のトーンを抑えた彼は間を置くと、俺の返答を待たずに思わぬ問いかけをしてきた。

『ね、榊さん。仕事の時以外は……悠矢さんって呼ばせてもらってもいいですか?』

「なっ……いきなり、なんだよ、それ」

 突然過ぎるお願いに一瞬息を呑んでしまった。その後の言葉も噛み噛みになってしまう。

 言われた本人でさえこうなってしまうのだ。話を持ちかけている丸山君がどれだけ勇気を振り絞っているのか、簡単に想像がつく。さすがに無下にするわけにもいかなかった。

「けどま、いいよ。好きに呼べって」

 真っ直ぐな瞳で見つめてくれた丸山君を蔑ろにできるはずもない。

『悠矢さん! 悠矢さん!』

 彼は電話の向こう側で嬉しそうに声を弾ませ、好きな人の名前を連呼する。わかりやす過ぎる喜びに、俺自分もまた頬が緩んだ。同時に、丸山君のあの発言の理由もわかったつもりだ。

『その笑顔を独り占めしたい』

 たった今、俺も同じ思いを抱いている。

 こいつには自分の前で笑っていて欲しい。何の我慢もせずに、素直にいて欲しいとさえ考えてしまう。

 丸山君とは会ってまだ半年程度だが、たった一日の言動でここまで惹かれてしまった。

 けれどそう易々とこの感情を認め、必要以上に彼との距離を縮めてしまうわけにはいかなかった。これ以上恋に溺れ傷付きたくもなければ、誰も傷付けたくはない。そう誓って、俺はあの日から生きてきたはずだった。

 それなのに俺は、年下の男性に好かれて誓いを破りかけている。彼を遠ざけることもできず、傍で笑顔を振り撒いていて欲しいと願ってしまう。

「わかったから、いい加減人の名前を連呼すんの止めろ。用件は名前を呼びたいってだけか?」

 だから自分勝手に電話を切ることもしない。

『あと一言!』

 電話口で楽しそうに微笑む丸山君の笑顔を奪わず、俺もまた笑う。

「なんだよ」

 ふっと真剣な声色に変わった彼から発された言葉。慣れない呼び名に若干照れつつ、一途に告げてくるのだ。

『悠矢さん、メリークリスマス』

 まるで耳元で囁かれているかのような甘い言葉に、俺もまた慣れない名前をぎこちなく呼んだ。

「あぁメリークリスマス、。おやすみ」

 俺はずるい人間だ。そう自覚はしている。

 自分自身へと向けられる好意を拒絶することもせず、かと言って本心を告げるような真似もしない。ただ自分ばかりが愛され、傷付かないように保身に走るので必死なのだ。

「好き」の言葉だけなら心は受け入れられるが、この身の深い部分に触れられようものなら、ひどく動揺し、俺は慧を傷付けてしまうだろう。

 その日が訪れるのはまだまだ先だろうが、彼を傷付けたくはない。

『それじゃあ、今日は色々とありがとうございました。おやすみなさい、悠矢さん』

 喜びに満ちた慧の言葉を聞き入れながら電話を切った。俺もまた充実感に満ち溢れていたが、スマートフォンを握り締めゆっくりと上空を見つめる。

 切り離せはしない過去の記憶を激しく憎悪している。あの日、実の父に与えられた絶望を思い出すと、今にも消えたくなってしまう。だが慧との出会いのお陰で遂に何かを変えられそうな気がした。

 それでもなお慧に素直に本心を告げられるようになるまでの間は、ずるい大人でいようと思う。

 いつの日にか、面と向かって「好きだ」と伝えられるように、少しずつ過去と向き合おう。そう雪が降る空に誓ったクリスマスの夜だった。


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