軽口

小狸

短編

「言葉がさ――軽くなっているように思うのだよ」


「なんだ、君にしちゃ随分と抽象的な表現じゃないか」


「そりゃそうさ。断言して言質を取られちゃ敵わないからね。発する言葉にも、気を付けなければいけない。君も小説家の端くれなのだから、その辺り注意を払いたまえよ」


「分かっているよ、辻浦つじうら


 私は、友人の家に邪魔していた。


 小さなマンションの一室である。


 この友人――辻浦はその中に多くの書籍を有している。


 一体どこにそんな空間があるのかと身構えてしまうけれど、何のことはない。この男、整理整頓が大の得意なのである。気が付いたら物の整理をしている。書籍を一つ買う毎に、本棚の一斉整理を行っているのだ。本人曰く、整理と整頓はまた違うらしいが、無骨で粗雑な私には、その違いは分からない。


 私と辻浦とは、大学時代からの友人である。元より人間関係の長続きしない、進学するにつけ関係をリセットしてきた私にとっては、珍しく長続きしている友人である。聞けば、辻浦にはそういう友人が何人もいるという。私とはまた別種の人間である。そんな辻浦と私との邂逅をここで述べることも吝かではないが、今は止めておこう。


「それで? 言葉が軽くなっているとは、どういうことなんだ」


「どうもこうも、だよ。『虐待』『いじめ』という言葉が、昨今あまりにも物語内で流布し過ぎていると思うのだ」


「ああ――まあ」


 その傾向は、私にも少しだけ分かる。


 一応私は、小説家である。


 陰鬱な私小説を書いている。


「前に君と話した時に、インターネット上で小説を投稿するサイトがあり、君もデビュー前に少し投稿していた、と、君は教えてくれただろう。あれから気になってね、少し読んでみた。するとどうだい――悉く、見る物語の大半の主人公に『虐待』や『いじめ』、そうでなくとも『被差別』という属性が与えられているじゃないか。僕は頭が痛くなったよ」


「そうか? 令和の今の時流である『生きづらさ』を主題とする小説のことを鑑みれば、それは当然の帰結だと、私は思うが」


「そういう意味じゃないよ」


 君は全く分かっていないな、と、辻浦は言った。


「『虐待』も『いじめ』も、言葉にすると一言だが、そう簡単に与えて良い属性じゃないんだよ。君は今の時流を『生きづらさ』だと言ったが、僕は『多様性』もあると思っている。そこにね、まるで当然のように学生時代に『いじめ』を受け、あるいは家庭内で『虐待』を受け、そこから物語が始まる――そんな主人公にあふれている。主人公に対する悲劇の属性が、画一化されてきている。これはね、僕としては、由々しき事態だと、僕は思うのだよ」


「つまり、こういうことか?」


 私は続けた。


「そういう者達に配慮して、書き手は物語を書くべきだ、と?」


「それは近いが、少し違うな。どんな表現でも、誰かを傷付けることはできる。ただ、『虐待』や『いじめ』などを作品内で扱う時は、本来もっと気を付けなければならないのだよ。その表現を見て、心の傷が開く人間がいるということを」


「同じじゃないか」


「同じようで違うよ。あまりにも濫用らんようされ過ぎていると、僕は言っているんだ。やれ右を見れば、身体的、精神的――性的暴力。やれ左を見れば、親からの暴力的支配、虐待、『親だって人間である』という理由で正当化される多くの言動。当たり前のように『いじめ』『虐待』という、たった二文字三文字で表現されてしまっているんだよ。しかもそれは、主人公の悲劇性を露わにし、その後の逆転の描写を展開するがためだけに、だ。に、現実に、僕は遺憾の意を表明したいのだよ」


「それは――」


 やはり同じじゃないか――と言おうとして、止めた。


 私自身、上司からのパワーハラスメントを受け、心の病にかかり、仕事を辞したことのある身だったからである。多分辻浦は、敢えて私に配慮して、その言葉を遣わなかったのだろう。


『パワハラ』『セクハラ』『ブラック企業』だって、主人公や登場人物の悲劇性を表現するために用いられる――否、濫用されるものである。


「コンテンツの一部、ね。まあ、言わんとすることは分かるが、辻浦。それは、君にはどうしようもないことじゃないか。第一君は操觚そうこ者ではないし、君がどうにかできる話じゃないだろう」


「そうだねえ。だからこそ、遺憾の意を示すだけに留めているのさ。世の中には、どうしようもないことというのはあるからねえ。まあ、だからと言って君の表現の幅を狭めて、後から文句を言われても面倒だ、話はこの辺りにしておこう」


「おいおい、いつものように快刀かいとう乱麻らんまを断つような御高説は無いのかい。君にしては煮え切らない終わりだな」


「僕はね、悲劇のコンテンツ化とうれうと同時に、だと思っているんだよ。表現の自由だとか、政治的な正しさだとか、そういうものは抜きにしてね。僕程度が何を言ったところで揺らがないで欲しいと思う気持ちもあるんだよ。今あるものは今あるもので、と思うんだ。だから君も、君の思いの丈を、小説として発露して良い」


 この友人は、私の私小説が、時折私の実体験に基づいたものになっていることを、見抜いている。


「ただ――そうだな」


 と、最後に、


としては、今の文学界は、少々見ていて苦しいものがある、それだけだよ」


 そう言って、辻浦は笑みのようなものを浮かべた。


 彼の背中には、幼少期、彼の元母親から付けられた切り傷が、未だひしめいている。


 銭湯には、一度も行ったことが無いのだそうである。


 それを思い出して、私は――。


 この辺りで。


 丁度、午前零時を回ったので、私は筆を置いた。




(「軽口」――了)

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