アンジェ
「あー! まだお店開いてる時間なのに、お酒飲んでる!
もう! 駄目なんだからね!」
店内へ足を踏み入れると共にそう叫んだのは、十代前半を迎えて間もない少女である。
金色の髪は、後頭部でポニーテールに結わえられており……。
顔立ちは、猫科の幼獣を思わせる愛らしい造作だ。
着ている服は、有名キッズブランドのそれであり、カタログのモデルにも劣らぬほどよく似合っていた。
「アンジェ……。
済まないな。
昔の馴染みを迎えたもんで、つい、気分が良くなっちまったんだ」
先程まで見せていた迫力は、どこへ飛んでいってしまったのか……。
ベックが、しゅんとした様子で禿げ上がった頭をかく。
そんな彼の様子に、思わず目を剥いたのが、スコットである。
なんとなれば……。
自身がまだバーテンダーであった時代、彼からは幾度となく、受注していたが、こんな顔を見せたことは一度もなかったからであった。
好ましいか、好ましくないかでいえば――好ましい。
彼が引退すると言った時には、誰もが引き止めたものである。
あるいは、そんな生き方は無理だと告げる者もいた。
しかし、ベックという男は現役時代と同様……必ずやり遂げるという鋼の精神でこれを成し遂げたのが、今のやり取りだけで察せられたのである。
「こちらのお嬢さんが?」
「ああ、まあ……そうだ。
アンジェ、ご挨拶なさい。
こちらは、パパの古い友人だ」
ベックにうながされ、アンジェと名付けられたらしいかつての赤ん坊が、元気よくお辞儀をしてみせた。
「アンジェです! よろしくお願いします!
……パパがお友達を連れてきたのなんて、初めて!
ゆっくりしていってください!」
「ああ、そうさせてもらうとも」
目を細めながら、うなずいてみせる。
実に……いい子だ。
ベックの育て方も、よかったのかもしれないが……。
それ以上に、生来生まれもった魂というものが清らかなのであると、そう思えた。
また、そのような子供であったからこそ、死神とまで呼ばれた男が、このような場所で流行らぬスシ屋となる道を選んだのだ。
素晴らしいことだと、思う。
自分やベックが足を踏み入れた世界は、ベッドの上で安らかに死ぬことなど……。
まして、このように穏やかな暮らしへ転身することなど、夢に見ることもできない。
身に染み付いた死の香りが、斥力のごとくそういった物事から遠ざけてしまうのである。
それを、この男は実現してみせた。
なんとも……希望の持てる話ではないか。
正直な話、引退を決意するには、かなりの勇気を必要としたものだ。
技術面では自分を凌駕するに至ったとはいえ、後継者はまだまだ経験が足りない。
それを補いながら、現役生活を続ける道もあったのではないかと、後ろ髪を引かれていたのである。
それが、今、吹っ切れた。
今更、子を設けようとは思えない。
しかし、何か……何か、今までに思いつかなかった道を見つけようと、確かに思えたのである。
「それじゃあ、パパ!
わたし、行ってくるね!」
そんなことを考えていると、店内の奥――おそらくは住居部分につながっているのだろう――へランドセルを放ったアンジェが、店の外へと飛び出そうとした。
時刻は、まだ昼と夕の境目だ。
この年頃ならば、友達と遊びたかろうと思っていると、ベックがあごに手を当てる。
「ん……?
今日は、誰と遊ぶんだったか……?」
「もー! パパ、忘れたの?
今日は、ニカちゃんと一緒に、劇場へ観劇に行くんだから!
か・ん・げ・き!」
アンジェが腰に手を当ててそう言うと、ベックが思案気な顔になった。
「そうだったか……?
あそこの劇場は、子供が観るような劇をやっていたっけ?」
言われてみれば、なるほど、不思議である。
ここ、惑星ロピコの遊興施設というものは、基本的に、大人のセレブを客層と定めていた。
無論、子供向けの娯楽施設が存在しないわけではないが、劇場というのは、いかにもそのくくりから外れた存在に思える。
「子供向けの劇じゃないもん」
自分とベック……二人の疑問へ、腰に手を当てたアンジェが得意気に答えた。
「今日、観に行くのはカルメンだよ!
わたしも、もう十二歳なんだから!
いいものを見て、一人前のレディを目指さないとね!」
そう言いながら胸を張る姿は、残念ながら、年頃の子供そのものである。
それにしても、カルメンとは……。
ベックの娘は、なかなかにおしゃまな女の子へと成長したらしい。
「はっはっは……。
そうか、そうか……。
劇の終わりは、何時頃になる?
迎えに行くから、連絡をくれ」
「うん! それじゃ、行ってくるね!
パパのお友達も、また!」
「ああ、また会おうとも」
元気一杯に出かけていくアンジェを、友と二人で見送った。
「さて、さて……。
演目がカルメンならば、軽く三時間くらいは上演することになるでしょうが……。
果たして、お嬢さんとお友達は、眠らずに最後まで観れるでしょうか?」
「眠っちまったなら、それもそれでいい。
大人になるなら、必要な経験だろう?」
「違いない」
そう言って笑い合い……。
どちらからともなく、再び盃を手に取る。
二口目の酒も、やはり……良い味であった。
「それで、何にする?
まさか、スシ屋に来て、何も食べず帰るってことはないだろう?」
「そうですね……。
では、適当にいくつか握って頂きましょうか」
――ニィーア!
これまで、人間たちのやり取りなど、興味なさげにカウンターで毛づくろいしていた猫であるが……。
おしぼりで手を拭きながらの言葉へ、追従するように鳴き声を上げる。
「はっはは。
お嬢さんもご相伴してくれるのかな?
それならば、食べ残す心配はなさそうだ」
――ニャア!
任せておけ、とでも言うように、猫が鳴き声を上げた。
「ふ……。
となると、猫が食べれないネタは避けなきゃな。
まあ、シャリを食わせてる時点で今更だが」
そう言いながら、ベックが、驚くほど堂に入った職人技を披露し……。
楽しい食事が始まったのである。
--
「一体、どのような気分だったのですか?
命を奪う側から、守り、育てる側になることを決意した時というのは……」
かつて、バーテンダーと呼ばれていたのは伊達ではない。
求められる真の役割ではないとはいえ、酒というものにも精通し、また、それなりの免疫を持っているのがスコットという男である。
ゆえに、スシや焼き魚を隣の猫と分かち合い、小一時間ほど飲んだところで、酔いに支配されるということはなく……。
ふわりとした心地良い気分のまま、スシ屋へ転身した友人にそう尋ねた。
「……決意、というほどのものじゃない」
対するベックの表情は、なんとも言えず味わい深いものだ。
およそ人生というものに備わる酸いや甘さというもの全てが、濃縮されたような顔をしているのである。
ただ、回想しているというわけでは、このような顔になることはないだろう。
「あの時……。
脱出ポッドの中へ入れられていた赤ん坊を見て、俺もきっと、生まれたんだ。
ああ、そうだ。
それまで、俺は死んでいた」
「ならば、今のあなたは生まれて十二年の子供というところですか」
「まあ、そんなところだな」
あえて、友の顔を見ることはなく……。
ただ、じっと眼前の焼き魚へ視線を注ぐ。
コメを使ったこの酒は、蒸留酒のように長期間熟成させる代物ではない。
しかし、今ばかりは、年代物のそれに負けない奥深さが感じられた。
――ニアッ!
「ふふ……はいはい」
猫にせがまれ、焼き魚をほぐす。
「――ッ」
「――ッ」
スコットとベックの表情が引き締まったのは、その時である。
――ニャア!
やや遅れて猫が反応し、カウンターから床へと降り立つ。
「邪魔するぜ!」
そして、数人の男たちが入店するのと入れ違いで、店から去って行ったのである。
来店者たちの注意を引かぬよう気配を消したその歩き方は、危険を察知した野生動物のものであった。
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