三首三様

葉霜雁景

春夕の影

1. むかしばなし

 長きにわたった戦争が終結し、損壊した都市の修復も完了した頃、春の祝祭に向けて彩られ始めている街があった。

 道や広場、窓辺の花壇には花が開き、優しい色をした青空には旗飾りがなびく。男も女も輝く笑みを浮かべ、老人たちはカフェテラスの軒先や自宅の窓からまぶしそうに街を眺めている。子どもたちは待ちきれないとばかりに、石畳の道や階段を駆け回り、ちらほらとその手に持たれた風船が、パッと視界に点を打つ。


 花の香りを乗せた、ふんわりと温かい空気に頬を撫でられ、道行く一人の男は感嘆した。赤い色は血ではなく、鉄や硝煙しょうえんの恐ろしい臭いもしない――この上なく平和だ。

 けれど、男の顔には、染みついた冬の影が残っている。男は軍人だった。軍服ではなく、いたって普通のシャツとズボンに肩掛けの鞄を身に着けているが、うららかで再構築された街に馴染めず、その影を悟られないよう歩いていた。


「もう、いい加減にして! あんまり騒ぐと魔女が来るわよ、北の山から飛んでくるわ」


 ぴしゃり。行く先で女の金切り声が上がる。思わず男も視線を上げると、玄関先で母親が子どもを叱る光景が始まっていた。叱られた少年たちは水を差されて不機嫌そうだが、母親の剣幕と魔女の名前にたじろいでもいそう。

 魔女。昔話の登場人物として、男もよく聞かされた名前だ。人命を容易く散らす銃火器が恐ろしいものとなった今日でも、未だにその名を恐れるのか。いや、恐れるのが荒唐無稽な存在であることこそ、平和の証左なのかもしれない。


 微笑ましい一場面を背景として通り過ぎ、男はふと、前方のさらに遠くへ視線を投げた。先の母親が言っていた魔女は、街の中からでも見える北方の山に棲んでいるという。かつては王城とその城下町があったが、防衛にも役立てられない遺物と化していると聞いた。これも歴史の授業で習ったこと、昔の話だと思い出して、男は口の端に自嘲を浮かべる。昔の色褪せたことばかりが凝固して、今の色鮮やかさに馴染めない。

 いつの間にか、軍人の男は四十近くまで年を重ねていた。整えられた茶髪と、静穏を湛えた灰色の目が特徴的な顔は端整だったが、経年の美しさとは縁遠かった。男はどうしようもなく荒廃し、疲弊して、それを隠すことにまた力を割いていた。


 春の祝祭が美しいと有名な街を歩いていても、男の心は未だ凍原を歩いている。黒い足跡を刻み続けている。もう充分だった。男は先を急いだ。死に場所と定めた、街外れにある丘へ。

 死ぬために来たとはいえ、男は祝祭の邪魔をするつもりなどない。丘を越えた先にある森の奥深くへ踏み入り、そう簡単に見つけられない場所で死のうと決めていた。


 大きな道を外れても、祝祭に浮かれる空気はなかなか薄まらなかったが、街を出てしまえばさすがに消えた。長閑のどかな風景にはもう目を向けず、男はひたすらに丘を目指す。辿り着いて登り、どこへ続いているかも知れない森の中へと踏み入っていく。

 陽光に温められた緑や土の匂いが満ちる中、男はまた、昔の話を思い返していた。まだ軍人になることは夢だった頃、まだ戦争が激化していなかった頃、まだ心から笑える余裕があった頃。どれも既に遠ざかり、元々の色は分からなくなっている。今、歩いている世界と何ら変わりがない。男はもう、どこにも行けない。


 やがて行き着いた森の奥は、男が足を止めれば、何の音もしなくなった。人の気配も、獣の気配もない。男は鞄を下ろすと、引っ張り出したロープを近くの木にかけて、輪っかを作り縛った。決して失敗しないように、しっかりと。

 手際よく、丁寧に作られた専用の絞首台は、男が沈黙の一部になるのを待っている。選ばれた木は段差の上に枝を伸ばしていたため、踏み台は必要ない。男の首は、縄の形で現れた生死の境界を越えた。ためらうことなく、易々と。

 足場を失い、喉が絞まる。死に際した体が、抵抗の機能を働かせる。次第に頭が回らなくなって、男の意識は苦しみの中、暗転した。進退どちらもままならなくなった男は、やっと終わることができた。


 終われた、はずだった。






 死ねたと確信した男は、しかし目を覚ました。どことも知れぬ部屋の中で。絞首の苦痛はどこにもなく、同時に体の感覚もない。しかし、首の周りはふわふわした物に包まれているような、妙な感触がある。定まらず不明瞭な頭と視界でも、奇妙なことが起きているらしいのは察せられた。

 一体、自分はどうなったのか。自殺は失敗したのか。徐々にはっきりとしてくる視界に情報を求めて、男は目を見開いた。男の目が覚めるのを見越したように、真正面に立てかけられていた姿見。くもり一つなく磨かれた鏡面には、テーブルに敷かれたクッションの上で、首だけとなった自分が映っている。


「な、に……?」


 驚いても、声が零せる。鏡面の首は、自分と同じ動きをしている。整えられた茶髪も、灰色の目も変わりない。男は首だけになっていた。


「お目覚めになられました?」


 首だけになった自分などという信じがたいものを映していた鏡に、またも信じがたいものが映り込む。男の首の真後ろに、金髪の女が現れたのだ。鏡の枠外から出てきたのではなく、枠内に忽然こつぜんと。


「初めまして、軍人さん。何が起こっているのか理解できないと思いますが、ご覧の通り、あなたは首になって生きています。一度は死ねたけれど、私が少しの間、生き返らせてしまったから」

「生き、返らせる? そんな、バカな」


 鏡面で、男の首は引きつった笑みを浮かべているが、金髪の女は涼しい顔をしていた。未だ男の後ろにいながら、橄欖かんらんの瞳で男を射抜く。鏡を介しても、有無を言わせない迫力があった。男に渦巻く混乱も、打ち付けられて静まった。


「私の名は過去に消えましたので、名乗るのであれば北の城主、あるいは北の魔女と名乗りましょう。春の祝祭に死の気配を察し、あなたの遺体を回収して、我が城へお招きしたのです」


 ――あんまり騒ぐと魔女が来るわよ、北の山から飛んでくるわ。

 ――かつては王城とその城下町があったが、防衛にも役立てられない遺物と化している。


 子どもたちを叱っていた母親の声が蘇る。ふと思い出した歴史の授業が鮮明になる。金髪に橄欖の双眸、朱色のドレスと華やかな出で立ちをしたこの女が、昔話の魔女だとでも言うのか。疑心はあれど、納得せざるを得ない。それくらい、いま男が置かれている状況は、異常だ。


「あなたの死を、先延ばしにするつもりはありません。ただ、少し、ここにお引き留めすることを許していただけませんか」

「……こちらに、選択の余地など無いでしょう」


 落ち着きを取り戻した声が、引きつっていた男の顔を元に戻し、経年のしわをあらわにする。死んだはずが喋る生首となった男は、魔女と思わしき華やかな女の元に、しばし留め置かれることとなった。

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