第32話 食欲に塗れた決意



 準備が完了した翌日。

 シルティがこの地に漂着して三十一日目の朝。

 いつものように、細切れにした蒼猩猩あおショウジョウの肉と磨り潰した肉、己の生き血を混ぜ、塩をほんの少し振って、レヴィンに与える。


「今日からは歩くからね。いっぱい食べときなよ?」


 はぐはぐと夢中で肉を貪るレヴィンの背中を撫でながら、シルティは空を仰いだ。

 木々の枝葉の隙間から、透き通るような青空が見える。昨日は一日中雨が降っていて比較的涼しかったのだが、今日は憎らしくなるほど快晴だ。

 早朝だというのにぐんぐんと気温が上がってきている。暑くなりそうだ。


 レヴィンが食事を終え、さらに排泄を済ませたのを確認し、シルティは財産を詰め込んだ籠を背負った。

 ベルトには鞘もどきの筒が二本の平紐で吊るされており、シルティ渾身の力作である〈紫月〉が納められている。これまでは常に片手が木刀で塞がっていたが、これで両手を自由に扱えるようになった。

 剣帯の役割を担う平紐の調整には随分苦心したが、その甲斐あって抜刀は極めてスムーズに行なえる。

 蒼猩猩あおショウジョウや巨鷲に不意打ちを受けたとしても迎撃に難は無い、はず。


「さ、行こっか、レヴィン」





 装備を整え、移動を再開してから、四日目の朝。

 シルティは食事中のレヴィンの背中を撫でながら、自分も生肉を食べつつ、空を仰いだ。

 最近のシルティは、食事中のレヴィンを撫でながら空を仰ぐのが日課だった。朝、昼前、昼過ぎ、夕方、夜の一日五回だ。

 食べた分だけ身体は成長する。すると次は成長した分だけ身体を動かしたくなるようで、レヴィンは就寝前などに激しくじゃれついてくるようになった。〈玄耀〉の製作時には小型犬ぐらいの体格だったレヴィンだが、今ではそこそこ大きな中型犬と言ったところ。わずか半月ほどで一回り以上大きくなっている。


 それが、割と本気ガチで異種格闘戦を仕掛けてくるのだ。

 そろそろ片手で適当にあしらうのは難しくなってきており、シルティは昨夜から両手を解禁した。いずれレヴィンはシルティが遠く及ばない筋肉の極みに踏み込むだろう。まだ幼いとはいえ琥珀豹、さすがの身体能力だ。


 ちなみに、食べているのは昨日の昼間に狩った二匹目の羚羊レイヨウの肉である。

 森の中で発見し、襲って狩った。

 どうやら羚羊は反射神経が相当に優れているらしく、一匹目と同様に二匹目もシルティの強襲にしっかりと反応して魔法を使ってきたのだが、問題ない。

 不可視の魔法ごとぶった斬ってやった。

 初対面では木刀を圧し折られるという屈辱を味わった相手だが、〈紫月〉を振るう今のシルティの敵ではなかったようだ。


 シルティは大口を開けて、羚羊の大腿筋をガブリと齧り取り。

 むぐむぐと咀嚼。

 嚥下。

 そして、長い長い嘆息を吐き出す。


「あぁ……やっぱり、これ美味しいなぁ……」


 とても美味しかった。

 感動的なまでに、本当に美味しかった。

 ちなみに、昨夜に食べた心臓と背ロースも、めちゃくちゃ美味しかった。


 柔らかくも強い弾力があり、旨みに溢れている。獣のにおいが全くないというわけではないが、決して不快ではない。臭みというよりは癖と呼ぶべき、好ましく心地のいい風味である。軽く振った塩もちょうどいい塩梅で、脂が持つ微かな甘味をくっきりと際立たせていた。ほんの一つまみで満足感が桁違い。やはり塩を作ったのは大正解だった。

 この地に漂着してから口にした肉の中で、この羚羊の肉がぶっちぎりで一番美味しい。蒼猩猩の肉の味を一とすると、巨鷲おおワシの肉は三ぐらい。入り江で乱獲した中で最も味が良かった魚が十五くらい。

 そして、羚羊の肉は百ぐらいはある。


 恐鰐竜デイノスがちまちまと味わうように食べていたのも納得の美味しさだ。レヴィンの食いつきも激しく、無我夢中である。

 背負い籠にはまだ後肢が一本分収納されているが、この分ではすぐに食べ尽くしてしまうだろう。

 自分のためにもレヴィンのためにも、羚羊を見たら確実に狩らねば、とシルティは食欲にまみれた決意をした。


「しかし、気が付いたらひと月、経っちゃってたなぁ……」


 シルティは先ほど気付いたのだが、本日はシルティがこの地に漂着してから三十四日目だ。

 人里に辿り着くことなくひと月三十日が経過してしまった。

 ちなみに、レヴィンと出会ってから数えると二十六日目。出会った当初は親豹の乳首を吸っていたレヴィンも、今では刻んだ肉をモリモリと貪っていて、なんというか成長を感じる姿だ。まだ磨り潰した肉も少々混ぜて出しているが、そろそろ卒業する予定だった。

 なお、シルティの生き血に関してはどうやらレヴィンの成長にそこそこ良好な影響を与えているようなので、今後もしばらくは継続するつもりである。


 もう少し成長すれば頭も大きくなり、乳歯の段階では存在しない後臼歯こうきゅうしが生えてくるはず。肉食獣の後臼歯は人類種のそれとは違い、臼歯と言っても臼のような形をしていない。裂肉歯れつにくしと言って、鋭角な山のような形をしており、はさみのように擦れ違って噛み合う。肉を剪断せんだんするための鋭利な歯だ。

 これが生え揃えば、レヴィンは大きな肉塊を自分で食べやすい大きさに噛み切ることができるようになるだろう。

 猫の場合、永久歯が生え揃うのは遅くとも生後八か月ぐらい。

 琥珀豹の場合はどうかわからないが……とりあえず、レヴィンの永久歯が生え揃うよりは先に、人里に辿り着きたい。


「よし。行こっか、レヴィン」


 食事を終え、前肢を使って顔を入念に清潔にしていたレヴィンが、シルティの声に反応して立ち上がった。

 さらに、ビャゥン、と鳴いて返事。

 なんとなく、肯定の意が込められているような気がする。

 シルティは食後や就寝前などの空き時間を見つけては、レヴィンへ人類言語の教育を施してきた。異種族に言語を教えた経験などないシルティだが、幸いにもレヴィンはシルティが腕や指で指し示す動作の意図をかなり理解できるようだ。周囲にあるものを見せながら名前を発音して繰り返し聞かせる、という手順で名詞を教えることができた。

 名詞以外にも、『見ろ』『待て』『行け』『来い』『歩け』『走れ』などの単純な指令や、それらに対応する動作などは、既にかなりの精度で理解できているようだ。

 今では、『木を見て』と言えば木を見るようになり、『籠に行って』と言えば背負い籠に近寄るほど。

 とても賢く優秀な生徒に、シルティはご満悦である。


 同時にシルティもまた、耳や体毛の起き上がり方、尻尾の動き、表情や姿勢、そして声の調子などから、レヴィンの意図をかなり察することができるようになってきた。

 肯定と否定の意、そして物事の好き嫌いがわかれば、最低限の意思疎通はできる。

 時間をかけて学習を深めれば、さらに精度も上がっていくだろう。


「レヴィンは前を歩いてね」


 レヴィンを先行させ、今日も今日とて海岸線を辿る。

 この海には少なくとも恐鰐竜デイノスが生息できることが確認できたので、海岸線から多少の距離を保ちつつだ。頂点中の頂点捕食者である竜の個体数は極めて少ないはずだが、遭遇する可能性はゼロではない。


 一度目の邂逅では幸運にも逃れることができた。

 二度目はない。


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