第5話 蒼猩猩
(
ほとんど完全な不意打ちを食らい、無様に地面へ転がりながらも、シルティは自身の状況を冷静に把握していた。一撃を貰ったらしき側頭部に湿った感触がある。出血だ、だが大したことはない。ギリギリだが、咄嗟に首を振って衝撃を逃がせた。痛いは痛いが、意識も視界もはっきりしており、行動に支障はない。
続いて襲ってきた嫌な予感に従い、左腕の力だけで跳ね起きつつ、右前方へと身を
シルティはさらに一歩、前方へ大きく跳び退き、空中で身体を半捻り。
両足でしっかりと着地し、襲撃者を真正面に捉え、睨み付け……思わず、ぎょっとした。
(でっかッ!!)
それは、恐ろしく巨大な猿だった。
二本の脚で確と立っており、股関節や膝は曲がっているが、それでもなおシルティより頭二つ分は高い。
見上げるようなその巨躯は、一度見たら忘れられないほど特徴的な、暗い緑色の短い体毛で密に覆われていた。顔面は無毛に近く、だが、やはり暗緑色。皮膚自体が緑色なのだ。
脚の間からは凄まじい太さの尾が長々と伸びているのが見え、蛇がとぐろを巻くように地面に接していた。身体を支える三本目の脚の働きをしているようだ。
脚はやや短くずんぐりとしており、対照的に腕は長い。シルティの頭部および地面を叩いた打撃は、この腕を振るったものと思われる。
初めて見る獣だ。
だが、シルティがサウレド大陸に渡る前に仕入れた情報の中に、この特徴に該当する名があった。
(
蒼猩猩。サウレド大陸全域の森に生息する、長い
オスはその名の通り、
一方、メスは皮膚こそ緑色だが、オスとは似ても似つかない灰色の体毛を持ち、一見すると同じ種とは思えないほど外見が異なっている。蒼猩猩は性差の大きい種なのだ。
つまり、シルティの前に姿を現したこの蒼猩猩は間違いなくオス個体である。
彼らは一匹のオスが複数のメスを囲い込んで五匹から十匹の
メスは臆病かつ慎重で、仔と共に住処に引き籠っており、人前に姿を現すことはほとんどない。
一方でオスは自らの群れに対する執着と責任感が非常に強く、文化的に表現すればとても甲斐性があり、メスと仔を守るために単独での見回りを極めて勤勉に行なうという。
食性は植物食に偏った雑食なのだが、これは単に得やすい食物が植物だというだけで、肉がある場合は肉の方を好んで食う。当然、その性質も攻撃的で、しかも排他的。群れ以外の同種を共食いするなど日常茶飯事だ。
ちなみに、ハーレムを持てない大人のオスは、ハーレムを持てないオス同士で三匹前後の互助的な群れを作るらしい。
シルティに牙を剥いているこの個体は、見たところ単独のようだ。
つまり、家族のために頑張る、男気に溢れた群れのリーダーなのだろう。
蒼猩猩がその身に宿す魔法は『
体表面からある程度の範囲にある空気を、意図的に
しかし、自身の身体が発する匂いや音の伝達を完全に遮断することができ、結果的に驚異的な隠密能力を発揮する、とシルティは聞いていた。
実際、これほどの巨体でありながら、襲撃される直前までシルティは全く気付けなかったのだから、その情報は正しいのだろう。
潜んでいたのか忍び寄ってきたのかはわからないが、シルティの警戒に引っかかるような音はなかった。すんすんと鼻を利かせてみるが、やはりこの至近距離にいても
聴覚と嗅覚、さらに視覚でも捉えにくい、奇襲の専門家だ。
シルティは木刀を速やかに中段へと構え、切っ先を蒼猩猩の鳩尾へ向けて、腰を落とす。
(んひひ……)
シルティの口元は楽しそうに緩んでいた。
久しぶりの陸上での戦闘だ。楽しんでいる場合ではないとわかっていても、身体に流れる蛮族の血が沸いてしまう。
奇襲の一撃で仕留めきれなかった
忙しなく身体を揺らしている。
タイミングを計っているのか。
目で間合いを測っているのか。
どちらにせよ、次の一手を譲るつもりのないシルティにはあまり関係が無かった。
己の手の内にある頼りない木刀を、自分の肉体の延長であり、かつ頑丈で切れ味鋭い太刀である、と強く自分に
パシンッ。
木刀から、焚き火の弾けるような甲高い音が響いた。
息を静かに吸い。
止めて。
跳び出す。
シルティの足元がくぐもった音と共に弾け、水平に近い角度で土塊を舞い上げた。幼い頃より磨き上げてきた正確な脚運びと重心移動は、たった一歩の蹴り出しで凄まじい加速を可能とする。超越的なまでの動きの
地面を這うように間合いの内へと侵入。
そして、瞬時に停止。
静止状態から超速の飛び込み、さらに超速の飛び込みから静止状態への、
行き場を失った制動エネルギーを、関節と筋肉を駆使して束ね上げ、得物へと流し込む。
「ふッ!!」
鋭い呼気と共に斬り上げられた木刀の左逆袈裟は、僅かな反応すら許さず蒼猩猩の頸部に叩き込まれ、内包する破壊力を余すことなく発揮。蒼猩猩の太い首を呆気なく
胴体と生き別れになった頭部は、牙を剥き出しにしたまま、眉間を軸にくるくると回転して落下を開始する。
シルティは殺害の余韻に浸ることなく、トントンと跳ねるようにステップを刻んで後退した。血を浴びるのを防ぐためだ。血の
刎ね飛ばされた蒼猩猩の頭部は速やかに地面に落ち、一度、二度とバウンドして転がる。
時を同じくして、残った胴体が鮮血を盛大に噴き上げ始めた。なんと、頭部を失ったままどっしりと立ち竦んでいる。腕がビグンビグンと痙攣しているが、下半身は揺るぎない。蒼猩猩の二本足と尻尾の三点支持はかなりの安定性を誇るらしい。
地面に転がった頭部は、まだ意識があるらしく、戸惑ったような表情を浮かべながら眼球をきょろきょろと動かしていた。なにが起きたのか理解できていないようだ。
そして、突如として
首の断面から吹き上がる血液は徐々に勢いを失ってきたが、それでもまだ依然として立っていた。
文字通りの見事な立ち往生である。
魔法『停留領域』が奇襲に極めて有用なのは間違いない。だが、言ってしまえば消音と消臭をもたらす魔法だ。面と向かった戦闘の役には立たなかった。
実のところ、これは
となると、あとはもう単純に肉体が備える暴力の勝負になる。
尋常な殺し合いでは、蒼猩猩はシルティの敵ではなかったようだ。奇襲を成功させておきながらシルティにさほどダメージを与えられなかった時点で、勝敗はほとんど決していた。
「ふぅ」
緊張を息に乗せて吐き出す。
結果だけ見れば圧勝だったが、殺し合いはいつだって緊張するし、楽しい。殺した経験のない種と殺し合うのは特にだ。
見知らぬ土地で、武器と呼ぶのも烏滸がましい木の枝を握り、最初に出会った敵対者が他ならぬ蒼猩猩というのは、非常に幸運だったといえるだろう。
シルティは蒼猩猩の情報をいくらか持っていたし、固有の魔法『停留領域』は奇襲さえ凌げばあまり怖くはないものだった。オスが単独で狩りを行なうという習性もシルティの有利に働いている。数と連携は暴力の乗算だ。仮に蒼猩猩が十匹以上で高度な連携を取る狩りを行なうような生態だったならば、結果は違っていたかもしれない。
(……しかし、酷い手応えだったなー……)
シルティは右手の木刀を検めながら、顔を顰めた。
蒼猩猩の極太の首を見事に刎ね飛ばしたあの一撃は、当人としては決して満足のいくものではなかったらしい。
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