取り留めも無いこと

Nekome

 指と頭とその声が

「ここはね、音の粒を出す感じで……そうそう!そしたら……」

白黒の鍵盤、それしか私には映っていなかった。先生に言われた通りに弾いてみる。澄ました顔で、顔だけ見れば、チャンピオン。しかし内心は、ドクドクとした緊張感で満たされていた。次間違えたらどうしようか、そう焦って弾くと、また間違えた、さっきと同じところを!

「ここシャープついてるからね」

優し気な先生の声、それが私を暗い暗い底へ沈めていく。助けて!誰か私を、今すぐにでもこの場に隕石が落ちて、私もろとも崩れ去ってくれないかしら。そんなことを願っても敵わないし、どうしようもない。

「あっ」

そんなことを考えていたらまた間違えて、あたふたとしてしまう。

「この曲って、イ長調だから、ハ長調だとこうなるでしょ?そこから……」

「あー、はい、はい、なるほど」

聞いた瞬間は理解している、本当だ。でも、情報が足されていくにつれて、頭がどんどんとパンクして、警鐘を鳴らしている。

「書いてみるとわかりやすいの!ここに音階書いてみて」

先生は、私がシャープを上手く拾えていないから、間違えたのだと思っているらしい。違う、違うんです!本当に、ただ単純に、シャープがついていることをわかって、間違えたんだ。ただの練習不足なんです。

気を遣われてしまうほど単純で、簡単で、本当に自分でもびっくりするほどあり得ないミスだ。前回のレッスンから一時間ぐらいしか練習していない、それが招いた、あり得ないミスだ。先生も、飽きれているだろう。どれほど注意しても、改善しないんだから!ああ、ごめんなさい。

「一音ずつ正確に見ていくといいかもね!どの音が重なり合っているのかわかりやすいから」

「わかりました、ありがとうございました」

レッスンが終わった。部屋を出て、受付の人に声を掛けて、外に出る。頭がガンガンとする。練習しないと、その焦燥感が私を襲う。

練習する時間はたくさんある。その事実が、私の頭の中で反芻している。増やせない……時間はある……増やせない……時間はある。目の前の信号の光がぐらぐらと揺れている気がした。例えば、ここで腕でも折ってしまえば、私の気持ちは晴れるのかしら、いやきっと、晴れない。罪悪感は留まることを知らず、寝れぬ寝れぬ。

交差点を渡って、公園のベンチで、顔を伏せた。

少し経って、歩き出す。ピアノの、あの声と、指の感触と、弾けたときの気持ちの高揚を思い出す。

大丈夫、まだ楽しい。

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