第二話 夏海彩(一)

 あやが寝ていると、けたたましい音で目覚ましが鳴った。早くうるさい音を止めようと、彩は手のひらで叩きまくる。手はかすりもしなかったが、そうこうしているうちに目覚ましの方から止まってくれた。静かになったのでもう一度寝なおそう。彩はそう思って目を閉じた。すると、今度は階下から母親の呼ぶ声がする。

「彩! 起きなさい! 大学に遅れるわよ!」

 こちらは、目覚ましと違って止める事が出来ない。彩は諦めて、布団からもそもそとい出した。


 彩はここ最近、毎日のように夢を見ていた。それは、いつも同じ夢で、毎回、えない感じのスーツ姿の男性が出て来る。彩の好みとは全く違う相手なのだが、一緒にいるととても楽しかった。食事をしたり映画を観たり。いつも互いの顔を見て笑いあった。

 しかし、いつも見ているはずなのに、夢から醒めると、どういう訳か顔だけ忘れている。そして、どんなに思い出そうとしても思い出せない。なのに他の事、例えば、名前などは漢字まで覚えている。「川井悟かわいさとる」それが相手の名前だ。


 今日は朝から必須科目の講義があった。彩は数日前に風邪を引いていたので、治ったとは言えまだ体はだるく、大学を休みたい気持ちでいっぱいだった。しかし、単位が危ないので休む訳にはいかない。彩は仕方なく出かける準備をして、最後にマスクをつけると、家を出て駅へと向かった。


 今は夏。朝から太陽が照りつけて、信号待ちの間にも汗が出て来た。彩は駅に着くと、ハンカチで汗を拭きながら電車を待つ。しばらくして来た電車は満員で、彩は思わず自分の匂いを確認してしまった。幸い汗臭くはなさそうだったが、こんな状態で満員電車など最悪としか言いようがない。電車の中はクーラーが効いているとは言っても、熱気は漂うし、汗でベタベタな体が当たるのは正直気持ちが悪かった。

 彩はなんとか出入り口付近の場所を取る事が出来、ポールに捕まりホッと息をつく。しかし、安心したのも束の間、彩の後ろに男性がピッタリとくっついて来た。不快ではあったが、満員電車なので誰かと密接してしまうのも仕方ない事だと思う。彩はなるべく体を離そうと動くのだが、どうやっても離れない。初めは偶々たまたまだろうと思っていたが、いくらなんでもあやしすぎる。彩が場所を移動しようとすると、男性は逃げるのを阻止そしするように抱きしめて、彼女の身体中を触り始めた。助けを求めようとするのだが、身動きも取れず、怖くて声すらも出ない。周りは彩の方を横目に見ていたが、誰も助けようとはしなかった。彩は泣きそうになりながらも、目を瞑って耐える。駅に着いてドアが開いたら逃げられると思うのだが、たったの数分がやけに長く感じた。痴漢がさらに大胆に触りはじめ、彩がもう駄目だと思った時、近くで男性の声がした。

「ちょっと、やめないか」

 そして、男性は痴漢の腕をつかんでひねり上げた。


 次の駅に着くと、彩は、男性と、痴漢と、三人で駅員室に行った。

 駅員室では色々と質問されて、解放されるまでに時間がかかった。そして、やっと解放されると、彩は助けてくれた男性に礼を言おうと近付く。しかし、男性は電話中で話しかけるタイミングがない。彩が電話が終わるのを待っていると、しばらくして男性がスマホを耳から離した。

 彩は急いで男性に近付いた。

「あの。先程はありがとうございました」

 礼を言って、彩は深々と頭を下げる。

「いや、別に」

 男性は困ったように答えて、この場を立ち去ろうとする。彩はそれを止めようと、慌てて声をかけた。

「お礼させてください」

 彩はそう言うと、はカバンからスマホを取り出す。

「連絡先。教えて貰えませんか? お願いします」

 男性は迷惑そうにしながらも要求に応じる。そして、彩が「夏海彩なつみあや」と名乗ると、男性は「川井かわい」とだけ言った。

「川井さん?」

 彩は名前を聞いて、驚いたように目を見開く。それは、いつも見る夢に出て来る男性の名前と同じだった。彩はもう二十歳になるし、夢で見る相手が現実にいるなどという小説のような話があるとは思っていない。しかし、それでも確かめずにはいられなかった。

「あの、私!」

 せめて下の名前が聞きたい。彩はそう思い声をかけるが、川井は落ち着かない様子でそわそわとしていた。

「すみません。急いでるんで」

 川井はそう言うと、足早に立ち去った。

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いつかキミと 汐なぎ(うしおなぎ) @ushionagi

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