明日私は誰かのパパ

名取信一

第1話

 ため息をつき、オフィスを見回すと随分人が減ってきた。ふと腕時計を見ると8時になっている。窓の外へと視線をやると真っ暗になっていた。最近は会社も朝残業を推奨しているし、リモートで片付ける社員も増えた。数年前と比べても夜のオフィスは寂しくなりがちだ。

 ついつい作業に熱中していたらこんな時間になってしまった。約束の時間まで思ったよりも時間がない。今日の作業はここまでにしたほうが良さそうだ。私はそう考えると大量に広げたファイルを一個一個閉じて保存し忘れた項目がないか確認し、終了ボタンを押した。


 「今日はお先に失礼するよ。」

 「お疲れさまでした、課長。」

 私は通路を挟んで向かいの席の部下に軽く挨拶をすると、上着を羽織ってオフィスを出てエレベーターに乗った。部下は先月異動してきたばかりの若手社員だ。最近張り切りすぎているのか目の下にクマが目立つ。このペースで頑張りすぎると体を壊すかもしれない。今度飲みに誘った時にそれとなく注意をしておこうかと考えた。


 エレベーターに乗りながら私は待ち合わせの場所までのルートを急いで検索した。普段は余り行くことがない銀座の近くの店だ。歩いていくには遠すぎるが、かと言って電車を乗り継ぐにはもったいない距離だ。都心にオフィスがあるというのは、必ずしも良いことばかりではない。却って行きにくい距離感の場所が出てきてしまうのだ。

 少しお金はもったいないが、タクシーを使おう。私はビルを出て、流しのタクシーに手を振り、乗車した。


 「運転手さん、銀座のYBビルディングまでいけますか?」

 「はい、わかったよ」

 

 運転手は随分老けた男だ。声はしゃがれているし、髪の毛は真っ白だ。メーターやカーナビを操作する手つきも心なしかノロノロしているように見える。私もいい年だ。もしかしたら相手からはこの男のように見られるかもしれない。人の振り見て我が振り直せというように、私も身だしなみくらいは気をつけよう。私はスマホのカメラで自分の姿を写し、ネクタイをきっちりと締め直した。


 目的のビルに着くと私は辺りを見回した。相手はここには見当たらない。先にビルの中に入ったのだろうか。

 不意に強いビル風が吹いてきた。もう冬に差し掛かっている。スーツの上着を羽織ったくらいでは寒くて仕方がない。冬特有の重たい風が体の芯から熱を奪っていくのを感じながら、私はYBビルディングの中に入ることにした。


 自動ドアを入るとすぐそこに白い上着を羽織ったスレンダーな女性が立っていた。


「遅かったよ。結構待っちゃった。」

「ごめん陽茉梨。待たせちゃったね。今度のプレゼントは好きなのを指定していいよ。」


 今日は金曜の晩だ。一週間の仕事が終わると気持ちが一気にリラックスできる。きっと顔の表情もほぐれているに違いない。いや、間延びしていると見るべきか。会社での表情と今の表情は随分違うだろう。こんな鼻の下を伸ばした顔を後輩が見たらどう思うか。仕事は仕事、プライベートはプライベート。しっかり分けたほうが充実したライフを送れるというものだ。


 「相田さん。最近お仕事の方は忙しい?私ちょっと寂しくなっちゃって。」

 「ああ、最近ちょっと異動してくる人が多くてね。ゴタゴタしていて会う間隔が空いてしまったかもしれない。」

 「そうかあ。今月はどうなの。」

 「そうだなあ、多分暇にはならないけど、でも頑張って陽茉梨のために時間はちゃんと用意するよ。」

 陽茉梨は嬉しそうな顔をしながら私の手を握ってきた。


 行きたかったフランス料理店に私達は入った。席に座ると一気に疲れが出てきた。椅子にハンガーに上着を掛け、ネクタイを緩めると椅子の背もたれにもたれかかってため息をついた。

 改めて陽茉梨の顔を眺める。色白な肌に少し面長の顔、長い黒髪が非常に美しい。じっと見ているだけで私の心臓は高鳴っていく。それに若い女と来れば最高じゃないか。

 

 パパ活、という活動が最近流行っているらしい。アプリで出会った若い女性に男性の側がお金を渡して擬似的なカップルになるというものだ。今はインターネットが発達して色々な娯楽が可能だ。私も最初は少し抵抗感があったが、一度始めて見ると病みつきになった。


 陽茉梨に対しては35歳ということで通しているが、実際には私は40を過ぎている。若い女と後腐れなく恋愛するなんてそうそうできるものじゃない。うまく付き合えたとしても30代だろうし、そんな年代の女と付き合おうものなら結婚を要求されるに決まっている。

 でも、パパ活を始めたらそんなモヤモヤとはオサラバできた。金は多少かかるが、若くて可愛い子はよりどりみどりだ。こんなことなら早く始めるべきだった。


「相田さん、最近友達が私に冷たくてさー」

「なんかあったのかい」

「大学のサークルで同じ学年の子なんだけど、最近先輩の目を気にしているのか妙に飲み会のたびに大人しぶっちゃってさ。飲み会が終わったら一人で先輩の手を握ってペタペタしていて見ていて不愉快極まりなかった。ああいう色気づいた感じの女って感じ悪いと思わない。」

「そういう女はどうせ悪い男に捕まっていいように遊ばれた後に捨てられるだけだと思うぞ。」

「本当にそうかなあ。」

「俺が若い頃に知り合った女にもそういう奴はいた。常にメスの顔つきをしていて、テキパキしている強そうな男にくっついていくのが習性の奴らだ。あいつらが付き合っている男でロクな奴を見たことがない。表面上はスマートに振る舞っているけど、女を使い捨てにするような男ばっかりだ。」

「先輩はいつもスマートだけどなあ」

「そういう奴に限って本性を隠すのがうまいんだって。グイグイ来る男なんてろくでもねえぞ」

 陽茉梨は私の講釈をうんうん頷いて聞き入っていた。相変わらず年上の男性の喜ぶポイントをわきまえている女だ。そもそもパパ活に手を染める女子大生がメスの顔つきをした同級生の悪口を言うなんて矛盾もいいところだ。こういう界隈で知り合える女なんてその程度の頭とモラルしか持ち合わせていないに決まっている。


 私は陽茉梨の相談に対して長々と講釈をたれ続け、ワインを口に流し込んだ。若くて美しい女と遊びながらワインで酔うという快感。本当に極上の瞬間だ。

 いい具合に酔いが回ってくると話すのにも疲れてきた。もともと昨日一昨日と残業続きで、昨日の夜はフラフラだったのだ。会話のネタもなんだか尽きてきた。私はスマホを開いてニュースサイトを眺める。

 「先週に引き続き、今週もまた女性の遺体が発見された。被害者は東京都に住む大学生の中島香菜さん19歳と見られ、遺体は首が切り取られており・・・」


 スマホの画面から目を背け、陽茉梨の方に視線を向けると、彼女も私と同様にスマホを除いていた。いけない。場が白けてしまう。私は会話を続けようと今しがたニュースサイトで見た事件に関して話した。


 「ニュースを見たかい?また連続首切り殺人事件が起きたみたいだぞ。最近すっかり物騒だな。コロナ明けで人々も殺気立っているんじゃないか」

 「本当に。夜帰るときも心配。」

 「帰りのタクシー代を出してあげようか。夜道が心配だろうし。」

 「いや、大丈夫。終電で帰っても私の家の近所は明るいし・・・」

 「そうか、ならいいんだけど。」


 私は会話中に良くないと思いながらもニュースの続きが気になってしまい、再びスマホを眺める。そこにはニュースサイトが表示されたままだ。

 「被害者の女性は犯人とマッチングアプリで知り合ったとみられ、警察は捜査をすすめると共に〜」


 「マッチングアプリの連続殺人か。実際にどんな人が使ってるかわからないものな。やっぱり陽茉梨も怖かったりする?」

 「私は大丈夫だよ。相田さんは見るからにいい人だもん。」

 「それならいいんだけどな。ほら、俺もう35じゃん。危ないおっさんなんかに勘違いされたら怖いなーと思っちゃったり。」

 「そんなことないよー。」

 陽茉梨は私の手を握って微笑む。笑顔が色白の肌と合わさって本当に可愛らしい。再び私の心臓は早鐘を打った。

 

 今回殺された女子大生は23歳だった。陽茉梨は本当は何歳なんだろうか。私に対しては18歳の大学一年生と言っている。アプリを使う女はやたらと18歳や20歳を名乗りたがる。それより年齢が低いと女子高生に該当するので年齢を偽るだろうし、それより年齢が越している者は自分を若くフレッシュに見せたいだろう。陽茉梨だって本当は大学2年か3年かもしれない。3年だとしたらそろそろ就活じゃないか。今度面接突破の極意でも教えてやろう。

 

 いい感じに酔いが回ってきたが、ワインはここまでにしておこう。あまり飲みすぎた姿を見られたくはないのだ。トイレに立つついでに私は他の客を見渡した。

 店には色々な客がいた。50前後のサラリーマン風の男性二人組、頭を金髪に染め、何の仕事をやっているのかは分からないがやたらと景気の良さそうな30くらいの男、服装や手元の艶から上品さが伺える老夫婦、そして私と同じだろうか。40前後のサラリーマンと女子大生と思しき二人が座っているテーブルもあった。


 陽茉梨との会話は楽しい。会社と違って相手に気を使いすぎないし、私の会話を素直に聞いていてくれる。お互いの身の上話も多い。もっともその殆どは虚偽だ。相田という名前を彼女の前では使っているが、それはマッチングアプリ用の名前だ。虚偽の名前、虚偽の年齢、虚偽の身の上話・・・パパ活自体が虚偽の関係だからそれは当然だろう。これは究極のごっこ遊びだ。私は彼氏のふりをし、陽茉梨は彼女のふりをする。そこにはドライだが綺麗でサッパリとした関係性がある。これはこれで良いものだ。


 もしこれがリアルな恋愛関係だったら大変だ。社内恋愛で揉めて左遷された同期もいる。社外の相手でも、メンヘラ女に執着されると日常生活は振り回されるし、もし子供でも出来ようものなら人生を棒にふってしまうだろう。こうしたリスクを考えるとパパ活は安全でリーズナブルな性欲の発散法なのだ。


 「そろそろ遅いしお開きにしようか」

 「今日はこの後ホテルには行かないの?」

 「すまん、今日はちょっと事情があって家に帰らないとダメなんだ。」

 「そう。残念だけど仕方ないね。」

 「今日は食事だけになってしまったけど、次はスウィートルームにでも予約を入れておこうか。」

 「やったー!楽しみ。」


 私は陽茉梨がトイレに立っている間にフランス料理の会計を済ませると、スーツの上着を羽織って次のデートプランの構想を考えていた。新宿にするか池袋にするか。新宿の普段のホテルは会員割引が効くが、いつも同じところだと飽きられてしまうだろう。それだったら少し趣向を変えてもいいかもしれない。いっそのこと遠出して熱海の温泉に・・・いや、熱海には2度と近づきたくない。行くとしたら草津だろうな。


 ビルから出ると私は流しのタクシーを捕まえ、陽茉梨を押し込んだ。

 「え、まだ終電残ってるからいいのに。」

 「まあいいから。ほら。」

 私はタクシー代の3000円を渡すとドアに手をかけた。

 「今日も楽しかった。また来週会おう。」

 そう言うと私はタクシーのドアを閉め、陽茉梨に手を振った。

陽茉梨も私の方に手を振り返している。タクシーは音を立てて発進し、やがて交差点の向こうへと去っていった。


 スマホで時刻表を眺めると、既に電車には間に合わない時間になっていた。やれやれ、終電を逃したのは私の方じゃないか。

 私はすぐさま別のタクシーを捕まえると家路についた。


 「ただいま〜」

 私は玄関のドアを開けると靴を揃え、リビングに入っていった。

 「今日は遅かったじゃない。夕飯作っちゃったよ」

妻は不機嫌そうな顔で私の顔を見つめる。

 「すまないな。急に案件が2つ降ってきてしまって、どうしても今週中に終わらせたかったんだ。」

 「だったら連絡してくれないと困るよ」

 「ほんとごめんって」

私はマンネリ化した言い訳を矢継ぎ早に並べながらソファーに座り込んだ。朝帰りでもしようものなら妻に不信感を持たれてしまうだろう。朝帰りをする時は出張だという嘘をついているのだが、今回は下準備をしていなかった。


 私はリモコンでテレビをつける。プライムタイムのニュースはとっくに終わってしまったが、深夜帯のニュースが放送されていた。ぼんやりと眺めながら冷蔵庫にあったスナック菓子を食べる。

 

妻が少し怒った顔で私に対して苦言を呈してきた。

「ちょっと。脱いだ靴下をこの辺りに放置するのはやめてくれない。いつもいつも私が片付ける羽目に・・・」

「悪い悪い。すぐ片付けるから」

私は妻の機嫌を損ねないうちにササッと靴下を洗濯機の中に放り込んだ。

「全く将馬と一緒。いつもだらしがなくて。『親に似ない子はいない』って言うからね」


妻はここ最近、何かにつけて怒りっぽい。もしかしてパパ活がバレているのだろうか。いや、それはないだろう。もしバレていたとすればその怒りたるや凄まじいものになることは想像に難くないからだ。


「そういえば最近ちょっと痩せたんじゃないか。いつもよりもスリムに見えるけど。」

「あら、そう。最近のジム通いの成果が出できたのかもしれない。」

「ジムに通ってもほとんどの人は三ヶ月で行かなくなるって言うからね。一年も続いているだけで世の中の半分より優秀だよ。」

「あと2キロくらい落とせると理想なんだけどね。」

「このペースだったら1ヶ月くらいでいけるんじゃないのかな」


妻は最近ジムでのトレーニングに熱心だ。私は妻の熱中していることに話を切り替えることで妻を喜ばせることにした。パパ活の後ろめたさだろうか。最近妻に対して気を遣う事が多い。

「そう言えば。」

妻が興奮気味に口を開いた。

「将馬の校内テストが帰ってきたんだけど、今回は結構成績が良かったみたいで、上位10番に入れそうみたいよ」

「本当か。結構よくやったな。高2になって最近だらけていたイメージだったが、結構いけそうだな」

「最近は部屋でゲームばかりやっているみたいだけど」

「高校生の男子だろ。ゲーム三昧なんて当たり前さ。それでもやるべきことはきちんとやっているものだ。俺も高校生の時はゲームばっかりやっていたけどちゃんと有名大学には入れている。『親に似ない子供はいない』って言うだろ」

 妻はついさっきの嫌味を冗談で返したことで、苦笑いを顔に浮かべていた。


酔いが少し冷めてきたところで私は布団に入った。今日の陽茉梨との一日はなんとも楽しかった。妻との結婚生活も18年になる。将馬という子宝にも恵まれた。申し分のない円満家庭だろう。でもここまで安定していると、たまには刺激がほしい。妻を愛していないわけではないが、男としての本能も少しは満たしたいのだ。


 恋愛というのは不思議なものだと思う。テレビをつけても雑誌を読んでいても、恋愛の話は多い。グルメの話や健康の話と同じくらい人間に取って重要な関心事だ。若者の青春は恋愛が全てとも言って良い。

 しかし、結婚すると途端に恋愛という行為はご法度になる。かなりの手のひら返しだ。恋愛というアクティビティは思春期から結婚までのせいぜい15年くらいしか許されない活動なのだ。

 私は立派な人間でも強い人間でもない。だからこうして疑似恋愛という形で時たま本能的な娯楽を楽しんでいる。誰に迷惑をかけるわけでもない。私は楽しみを得るし、陽茉梨はお金を得るし、妻はいつもの通り日常を送っている。「三方良し」だろう。いや、元の「三方良し」の最後は「世間良し」だった。パパ活のことを世間は許容しないだろう。だからダメだ。


 酒がいい具合に残っていて、私は吸い込まれるように眠りに落ちた。


 目の前にスレンダーな美女が立っていた。彼女は私に向かって微笑む。私は彼女を追いかけていく。すると彼女は走って逃げていってしまう。行き止まりに突き当たると彼女は壁に顔を向けてしゃがんでいる。彼女に後ろから声をかけると彼女は振り返った。するとその顔は鬼の形相だった。

 私は彼女の首に手を掛ける。彼女はますます鬼の形相を強め、目は血走っている。私は恐怖を感じながらも更に彼女の首に体重を載せて必死で締め上げる。彼女はぐったりとして首がダラリと横に傾く。その目は虚ろで私の目をじっと見つめているようだった。私は興奮と開放感が入り混じった高揚感の中、大きなため息をついた。


 気がつくと汗でびっしょりになって目が冷めていた。暗い中で目を擦って時計を見るとまだ朝の四時半だ。やけに鮮明な夢を見た。悪酔いしたのかもしれない。いずれにせよ中途半端な時間だ。私は再び目を閉じ、二度目の眠りに落ちた。


 一週間が経ち、再び金曜日を迎えた。今日はまた陽茉梨と会う日だ。私は今日こそは時間をたっぷりと取ろうと予め計画的に仕事を部下に押し付け、6時には会社を出ることができた。

 本当は金曜に予定を入れるのは避けたかった。毎週金曜ばかりに深夜帰りが続くと妻に気付かれそうだからだ。しかし陽茉梨は金曜になるべく約束したがっていた。他の曜日はバイトが入っていて、なかなか予定が合わせられないらしい。今の学生は随分忙しいみたいだな、と私は思った。

 「相田さん〜合いたかった〜」

 ついに彼女が現れた。今日は普段とは随分違った姿だ。

 「髪の毛染めた?色が随分明るくなったね」

 「えへへ、イメチェンしてみたんだ。どう?」

 「めちゃくちゃ似合ってるよ。今回の服にも似合ってるし、なかなかセンスあるじゃん」

 私は心にも思っていないセリフを吐いた。私の好みは長い黒髪だ。今回の彼女のように明るく染めてショートカットにした髪型は昔から好きになれない。とはいえ、それを口に出して言うわけにもいかない。形だけは褒めておいたが、早く元に戻してほしいものだ。


 「今週はなんか楽しいことでもあった?」

 「特に無いなあ」

 「友達と遊びに行ったとかバイトで褒められたとか」

 「本当になんにもなかったなあ」

 「それは残念。まあそんな日も多いよね」

 話していると料理が届いた。彼女はスマホを取り出すと、料理の画像を何枚か撮影し始めた。

 「これって最近よく聞くインスタ映えってやつか?」

 「そうそう。美味しそうな料理の画像をインスタに上げるのが最近の楽しみなの」

 彼女のスマホを見ると先週にはなかったストラップがついていた。ディズニーランドのキャラクターがついている。何年も前、まだ将馬があどけない子供だったころ、ディズニーランドにはよく行った。園内にしか売っていない限定品だ。将馬に買ってあげた時は何度もジャンプして喜んでいたものだ。

 「このストラップ、かわいいね。どこで買ったの」

 「あーこれね。この前原宿で友達とショップに行ってかわいいからつい衝動買いしちゃったの」

 嘘だ。と私はすぐに分かった。このストラップは園内でしか売っていないはずだ。彼女は今週どこかで本当はディズニーランドに行ったんじゃないだろうか。今週は何も出来事がなかったと陽茉梨は言っていたが、そうは思えない。ではなぜそれを言わないのだろう。


 考えられる可能性はただ一つだ。陽茉梨には私の他にもう一人男がいる。


「陽茉梨って、今まで彼氏っていたことあるの?」

「私、全然恋愛に詳しくないし、経験豊富なんかじゃないよ」

「えーそうかな。結構立ち振舞いはこなれていたけどな」

「相田さんの前に一人いただけだよ」


これも虚偽だ。明確な根拠は無いが、多分そうだろう。陽茉梨は初めてあったときからマッチングアプリには慣れていたし、恋愛経験は豊富そうに見えた。男が喜ぶ笑顔の作り方を知っていたし、恋愛に対する恐怖心のようなものが全く存在しないように見えたからだ。

 

「相田さん、私のことを疑っているの?」

「疑っているっていうのはどういうこと」

「他に彼氏がいるとか」


陽茉梨は感度がいい。私が疑念を抱いていることを悟られたのか。それとも単なる冗談なのか。少しずつ聞き出す予定だったが、思ったよりも早く目論見がバレてしまったらしい。

 

「いや、別にそんなことは思ってないよ。単純に陽茉梨の昔の恋愛話が聞きたかっただけさ」

「昔の恋愛話なあ。ロクな男いなかったな。言い寄って来ても結局カラダ目的みたいなのばっかりだったし。もっと私を見てくれる人じゃないとダメだなってその時に思ったの」

「そうだよね。そんな男と付き合ったっていいことないよ」

「相田さんは私のことを見てくれるもん。普段寂しかったから、相田さんのおかげで毎日が楽しいよ」

「ハハハ。思いが通じて良かったよ」


 彼女の言っていることは本当だろう。パパ活女子の殆どは金がほしいだけではない。金を貰いつつもそれと同じくらいに承認を欲しているのだ。だから寂しさの穴埋めのために男性と付き合っているというのが本心だろう。問題はその心の穴を埋める男性が一人で足りるのかということだ。


 「今こうして二人でいられるのって幸せなことだよね」

 陽茉梨は少し影のある表情でつぶやく。

 「陽茉梨って結構寂しがりなんだな」

 私は降って湧いた疑念に頭がいっぱいになりながらも話を合わせた。

 「えへへ、でも相田さんのお陰で寂しくなんてないよ」

 陽茉梨はニッコリと微笑んだ。いい笑顔だ。プロの笑顔というやつだろうか。一度疑い始めるとちょっとした動作も全て作り物に見えてくる。

 「まだまだ飲み足りないな」

 私は余計な考えを頭から振り払おうと追加で酒を頼んだ。せっかくのパパ活の時間だ。考えても仕方がない疑念について悩む時間がもったいない。それなら酒で気分を良くして陽茉梨と楽しくやろう。私はわざとらしくテンションを上げた。


 「ところでさ、その金髪似合ってるよ〜」

 「え〜うそ〜ありがとう〜嬉しい〜」


 相手のことをわざとらしく褒め、相手も本当かわからない大げさな反応で返す。これは虚偽なのだろうか。そうかも知れない。でもお互い楽しければいいじゃないか。漫画だって小説だって虚構だ。接客だって営業だって半分以上はただの商売文句だ。パパ活だって同じだ。事実かどうかよりもお互いが気分良く過ごせるかなんだ。


 酒が頭に入ってフラフラしてくる。眼の前の2つのグラスが4つに見えてくる。いや本当は1つのグラスが2つに増えて、それがさらに4つに見えているのかもしれない。今日も飲みすぎてしまったみたいだ。

 陽茉梨が私に微笑みかける。短い金髪が綺麗だ。彼女が大人っぽい妖艶な女性に思えてくる。スレンダーな体形に引き締まった手足。私は男性としての本能が呼び覚まされるのを実感していった。


 その晩はフラフラの状態で予約していたスウィートルームに陽茉梨と二人で泊まった。酒が入って更に興奮し、とんでもなく爽快だった気がする。「気がする」というのはどうにも記憶があやふやだからだ。朝になって帰ろうにも妻には出張だと告げてあるので、夕方まで時間を潰さないといけなかった。二日酔いでガンガン痛む頭をコンビニで買った頭痛薬でなだめ、皇居の周りをウォーキングしながら帰りの電車に乗った。


 目的もなしに街を歩いていると不思議と頭の中に過去の記憶がひとりでに浮かんでくる。私は記憶の奥底にしまい込んだ、若い頃の恋愛を思い出した。


 それは大学生の時のことだった。三ヶ月だけ付き合った同級生の女と別れてから、私はこういう同じ環境の相手とは違う、もっと違う世界の女性と付き合いたいという願望を抱いていた。そんな時に出会ったのが理絵だった。アルバイト先の飲食店で出会った女だ。歳も私より5つも上で、生まれた家も育った環境もまるで違う相手だった。彼女は20代半ばにして既に子供がいた。てっきり結婚しているのかと思ったが、そうではないらしい。相手の男は「どこかに消えちまったクズ」だそうだ。


 理絵は金髪のショートカットでスレンダーな体形の、垢抜けた美女だった。その派手な外見とどこか薄暗い雰囲気が私には魅力的だった。彼女と遊んでいると学校のようなレールに乗った世界とは異なる世界を見せてくれるようだった。夏休みは家に上がり込んで一日中ゴロゴロしたものだ。もっともそのとろけるような時間は一歳になる娘の泣き声でしばしば中断されたのだが。


 「私、本当は寂しがりなの」

理絵がよく言っていたセリフだ。もしかしたら彼女の派手な外見は心の穴の裏返しなのだろうか。私はしばしばそう思っていた。

 理絵とすれ違い始めたのは大学4年だろうか。私は既に今の会社の内定を手にしており、社会人へと心を入れ替え始めていた。初めて会うビジネスエリートたちと今後のキャリアについて教えを請い、出世への野心が燃えたぎり始めた頃だ。

 一方で理絵は相変わらずアルバイトを点々としていた。「私、子供が好きだから保育士の免許を取りたいんだよね」と彼女はよく語っていた。しかしそのために何かを準備している素振りは見えなかった。

 「理絵もそろそろ真面目に腰を落ち着けたほうがいいんじゃないの。アルバイトばかりじゃなくて」

 「だから頑張ってるって言ってんじゃん!」

 理絵は声を荒らげた。本人にしても触れられたくないことだったのか。でもこちらとしても大事なことだからはっきりしておきたい。本人のためだ。

 「私は必死で働きながら子供も育てないといけないし、大変なの。あなたみたいな何もしなくていい大学生じゃないの!」

 「だからそれはわかったけど、もう少し計画的に動いたほうがいいだろと思って・・・」

 「少しは私の気持ちも分かってよ!」

 近くで理絵の娘のけたたましい泣き声が聞こえてきた。びっくりさせてしまったらしい。

 「理絵!ごめん、お母さんたち大きな声出しちゃったねえ〜」

 理絵は先程の怒り顔から急に真顔に戻り、子供をあやし始めた。

 その姿を見て私は彼女との間の距離が少しずつ広がっていくのを感じざるを得なかった。


 理絵との関係が終わった決定打はたった一つのキーホルダーだった。

その日も理絵の部屋でくつろいでいると、ディズニーランドのキーホルダーが目に入った。不思議に思って周りを探ってみると、ディズニーランドで売っているグッズがたくさん棚の引き出しの中に入っていた。そして、その中の一つに記念のツーショットがあった。そこに写っているのは見知らぬ男だった。

 「おい、これどういうことだよ!」

 「え・・・これは・・・」

 私はその後一時間ほど激しい怒りに包まれた後、急に我に返った。ここ最近、彼女とすれ違っていたのは紛れもない事実だ。それでも二股されていたというショックは大きかった。

 「私、寂しかったから・・・」

 「寂しいって言われたもさあ、俺だけを愛してるとか言っていたのは嘘だったってことだよな」

 「そんなことないよ。本当だよ。今でも好きだよ」

 私は呆れて物も言えなかった。所詮、結婚もしないでよくわからん男と子供を作るような女だ。期待してはいけないことくらい分かっていたはずだ。私は苛立ち半分、軽蔑半分で理絵の家を出て、今度はもっと真面目な女性と恋愛しようと心に決めた。


昔の嫌な記憶を思い出しながら歩いていると、ようやく家が見えてきた。妻はいつものようにニコニコして私を出迎えてくれた。適当な言い訳で昨日の出来事をごまかすと、私は妻と二人で夕食を取ることにした。


 テレビを見ながら妻が話しかけてくる。

 「将馬が今日は友達と泊まりで遊ぶって言うから、久しぶりにジムに行ったんだけど、最近なかなか脂肪が落ちなくて〜」

 「うんうん」

 「このくらいの年齢からだんだん体重が落ちなくなるのが私のお母さんに似てるのよね」

 「親子で体質は似るって言うからな。でもお母さんはあの歳でもシワが全然ないじゃないか。だからきっと君もなかなかシワができないんじゃないか」

 「だといいけどねえ」

 「やっぱりだんだん親に似てくるんだな。俺も糖尿病には気をつけないとな」

 私の家系は糖尿病が多い。父や叔父も60過ぎた頃から発症していた。私もそろそろ食事に気をつけないと二の舞いになってしまう。酒の飲み過ぎからかなと私は考えた。


 テレビを付けるとニュースが放送されていた。

 「先週に引き続き、今週も若い女性が殺害され、首を切られるという事件が発生しました。被害者は東京都在住の会社員、石原恵那さん23歳とみられます。石原さんはマッチングアプリで出会った〜」

 テレビに被害者の顔が映し出されていた。色白で面長の美人だ。なかなかの美人で、不謹慎ながら私は見入ってしまった。顔の系統が陽茉梨に似ている。最近のパパ活女子はこういう顔が流行っているのだろうか。社会人にもなってパパ活を続けている女子も増えているらしい。

 妻がリモコンを持ち、チャンネルを変える。

 「こんなニュースよりさ、知ってる?久米淳子が不倫した話が持ち切りになってるよ」

 ニュースではいつものような芸能人の不倫報道がなされている。

 「絶対久米淳子は不倫していると思ったんだよね〜あの人二回目でしょー。昔っから変な色恋沙汰の話は多いし、付き合っている男もろくでもないのばかり」


 私はこういうニュースには大して興味がないのだが、世の中には芸能人の不倫話に飛びつく輩も多いらしい。久米淳子といえば20年ほど前に一世を風靡したアイドルだ。当時は毎日CMに出ていたのを覚えている。最近見なくなったとはいえ、未だに私の年代では追いかけている人も多い。

 妻が言う

  「ああいう女は心に穴を抱えていて、常に男に愛されていないと自我を保てない、関わらないほうが良いタイプね」

 「そりゃ不思議だな。結婚しているから満足はできないのかね」

 「むしろそういうタイプの方が浮気するって言うからね」

 「そんなものか」

 「一度ならともかく、二度三度道を踏み外す快感を知ってしまうと、麻薬のようにやめられなくなるのよ、人間っていうのは」

 私は一応話題のニュースだからと真面目にニュースを見ていたが、聞くに耐えない内容だった。流出した音声テープには「寂しかった」とか「愛されたかった」とか聞いているこちらが恥ずかしくなるような内容ばかりだった。まるで別れる直前の理絵を思い出す。


 夕飯を食べてお腹がいっぱいになると、急に眠気が襲ってきた。夜に仕事の続きを進めておきたかったのだが、この状態だと能率が良くない。私はいつも使っているカラーボックスの一段目からうつぶせ寝専用の小型枕を取り出した。机に枕を載せ、その上に頭を載せ、少し仮眠をすることにした。


 私は雑木林の中にいた。眼の前にあるのは真っ白い肌の裸体だ。こうして眺めるとミロのヴィーナスのように綺麗だ。いや、違う。彼女はこれからミロのヴィーナスに変身するのだ。

 私はのこぎりの歯をロウのように白い首筋に当てた。湿った感触がのこぎりから手に伝わってくる。人間の肉は柔らかい。ゼリーを切るように歯は首に食い込んでいく。数回歯を前後に動かすと固いものに当たった。骨だ。私は力を入れて骨を切断していく。今まで見たどんな裸体よりも美しい。興奮で胸が高鳴るのを感じた。気持ちいい。楽しい。やめられない・・・


 私はハッと目が冷めた。額に一筋の汗が垂れてきた。また変な夢を見てしまった。未だに心臓が早鐘を打っているのを感じる。夢を見ながらよほど興奮してしまったらしい。気を取り直して作業に取り掛からないといけない。私はパソコンを取り出すと三回ほど深呼吸をし、仕事に取り掛かった。


 陽茉梨との次のデートは3週間後だった。どうにも大学のレポートが忙しくてなかなか予定が合わないようだ。毎回金曜日だと妻に怪しまれるので本当は別の日にしたかったのだが、結局今回も金曜日になってしまっていた。

 「随分間が空いちゃったね。陽茉梨。あえて嬉しいよ」

 「私もそう、寂しかった。相田さん」

 私は陽茉梨を見つめながら彼女の白い首筋をうっとりと眺めていた。気を良くして高めのワインを注文する。ほんのりと温かいワインを二度に流し込むと体が少しずつ暖かくなってきた。

 「陽茉梨って本当に人懐こいよな」

 私は陽茉梨に語りかけた。

 「私、小さい頃から寂しがりなの。あんまり家族に恵まれなかったからかな」

 「家族って?」

 私は気になって陽茉梨に訪ねた。彼女が自分の生い立ちを話すのは珍しかったからだ。パパ活はお互いの身元を誤魔化すのが基本だ。だから私はあえて陽茉梨に深い話を尋ねなかった。もちろん自分が聞かれた時に応えたくないという引け目も大きい。

 「私は伯父夫婦に育てられたの。実のお母さんは私が小さい頃に家を出ていってそれっきり」

 「それは大変だ。おじさん夫婦のところに引き取られたってことか。苦労したのかい。」

 「嫌なことをされたりはしなかった。おばさんは血の繋がらない私に優しくしてくれたし、私立の学校にも行かせてくれたし、でも・・・」

 「そうか。大変だったね」

 「おじさんもおばさんも、どこか他人行儀というか、他所の子供を見ているような目で私を見ていた。一緒に住んでいた従兄弟とはどうしてもどこか態度が違う気がした」

 「再婚した夫婦だと前妻の子はお菓子が少ないなんて話はよく聞くからね」

 「いいや、そういうことじゃないの。従兄弟は悪いことをするとこっぴどく叱られていたし、テストの成績が悪いと怒鳴られたり」


 陽茉梨がこんなに長々と自分の話をするのは初めてだ。今までよほど気にしていたに違いない。家庭環境の悪さは後々まで影響する。パパ活をやっている若い女の子にはこういった境遇の子は多いだろう。血縁は大事だ。一人息子を持っているからこそ分かる。他人の子だったらどうしてもよそよそしくなってしまうだろう。

 「怒られないだけマシだよ」

 私はひとまず陽茉梨の気持ちを明るくしようと軽薄な言葉を吐いた。

 「でも私にとってはそれが寂しさの一つだった。私はどこまで行っても他人の子。住んでいる家も所詮は間借り。居場所がどこかに欲しかったの」

 「居場所かあ・・・」

 「今の私にとっては相田さんが居場所だよ」

 「それは良かった。これからも一緒にいような」


 私はなんとも掛ける言葉が見つからなかった。こうして心の寂しさを埋めるために陽茉梨はパパ活を続けているのだろう。今まで相手にした人数は何人だろうか。今この瞬間も付き合っている相手は私だけではないだろう。男性からの承認と、男性からもらったブランド品で彼女は心の穴を満たしている。しかし、その穴からはどんどん水が抜けてしまうため、常に補給をしなければ生きていけない。


 「実のお母さんはいい加減なアバズレだって叔父さんが言っていた。私は記憶にないけど。父親のわからない子供を産んでアルバイトを点々とするような人だって」

 陽茉梨は金髪に染めた髪を揺らしながら私の手を握った。その顔は少し悲しそうだ。

 「きっと事情があったんだよ。世の中色々な人がいるからな」


 そう言いながら私は突然背後からハンマーで殴られたような衝撃を受けた。心臓が早鐘を打つ。陽茉梨と初めて会ったときの胸騒ぎの正体にやっと気づくことができた。そのスレンダーな体型に面長な顔と白い肌。彼女の容姿は理絵に瓜二つなのだ。もしかして・・・私の額には汗が流れてきた。


 「実のお母さんはどんな人だったんだ。名前とか」

 「うーんあんまり言いたくないな」

 「言いたくないじゃなくてさ」

 「秘密だって」

 つい動揺してしまった。これはあくまでパパ活だ。陽茉梨も自分の個人が特定されるような情報は言いたくないに違いない。無理やり聞き出しても嫌われてしまうだろう。私自身、過去の黒歴史について明かしたくないというのもある。

 「嫌なことを思い出させてしまって悪かった。もっとお酒を飲むかい。ウイスキーとか」

 「私ウイスキーを飲むと悪酔いするって言ったじゃん」

 「ああ、そうだったな。すまんすまん」

 私はきまりが悪い笑いを浮かべて誤魔化した。


 「今回はホテルなしで帰ろう。そうだ。今度伊勢丹で買い物にいかないか?」

 「いいね。楽しみ。私カバンほしい!」

 「陽茉梨の今使っているバッグ、どんなものか見せてくれない」

 「いいよ〜」

 陽茉梨のブランド物のカバンを眺めるふりをしながら私は先程の疑念で頭がいっぱいだった。今日はとてもホテルで楽しむような精神状態じゃない。一刻も早く帰って一人で頭を整理したい気分だ。私は陽茉梨と別れ際に抱擁すると一目散に家路を急いだ。


  私が付き合った当時、理絵の娘はまだ小さかった。2歳くらいだったはずだ。そうなるとあの娘は今は22歳か、いや、23歳かもしれない。大学1年生と陽茉梨は言っていたが、パパ活で正直に年齢を言う女はいない。いや浪人している可能性を考慮すると・・・


 考えながら歩いているとあっという間に家に着いてしまった。玄関を超えてリビングに進むと妻が私の帰りを待っていた。

 「最近の将馬ってまた別の女の子と付き合ってるみたいで〜」

 妻は意気揚々と話し続けている。

 私は仕事の疲れと先程の件で頭がいっぱいだったため、ロクに話が頭を通らず聞き流す感じになってしまった。

 「すまない、今日は疲れていて眠い。早めに寝るよ」

 「あら、これから面白いところなのに。まあいいわ。おやすみ」


  自分の部屋に戻ると、長い間心の引き出しの奥にしまっていた記憶を取り出して、計算を続けた。この歳だからこそ数年の年の差は誤差だが、若い世代となると少しの誤差で大きく学年が違ってくる。陽茉梨は本当は社会人なのか。しかしそれにしては陽茉梨は若いような気もする。

 私は普段開けない、自室のカラーボックスの二段目を開けて過去の写真を探した。ひとつひとつ見ていると、ようやく目当てのものを見つけることができた。私と理絵のツーショットだ。やはり陽茉梨にうり二つだ。

 私の頭に色々な可能性が巡った。陽茉梨は理絵が育てていたあの娘なのか、それとも赤の他人なのか、それとも・・・

 私の頭の中に浮かんだのは、考えうる中で最悪のシナリオだった。なんとしてでも確かめておかねばならない。私は別れ際に抜き取っておいた、彼女のカバンに付着していた髪の毛を小さなビニール袋へ入れた。


 陽茉梨から数日後にいつものようにメッセージが届いた。

 「相田さん、この前はごめんなさい。気を悪くしたかな。最後の方、ずっと浮かない顔をして心ここにあらずという感じだったよ。陽茉梨は全然気にしてないから、来週また合いませんか?」

 私は返信に迷った後、こう返した

 「少し仕事が忙しくなりそうなので、来週と再来週は厳しい。一ヶ月も空いてしまって申し訳ないけど、来月はどうかな」

 「仕方ないね、分かった。楽しみに待ってる」

 「あと一つ頼みがあるんだけどいい?」

 「なに?」

 「次は髪の色をもとに戻してほしいんだ。」



 陽茉梨と待ち合わせに選んだ場所は古ぼけた喫茶店だった。いつものような銀座や六本木のフランス料理店ではない。ここは私が大学時代にいつも入り浸っていた店だ。3日に1回はこの店でタバコを吸いながら会話を楽しんでいたものだ。ある時は友人と、ある時は後輩と、ある時は理絵と。


 「いらっしゃい」

 店主のおやじさんが挨拶をする。20年前に比べるとかなり老けた。髪の毛の量は減って白髪も増えている。それでも落ち着いた声は昔のままだ。

 

 奥に入ると陽茉梨が待っていた。前回と違って髪は黒いままだ。金髪の美女を見ると理絵と彼女にまつわる嫌な思い出を思い出す。やはり髪はナチュラルのままが一番良い。

 「やっほ〜」

 陽茉梨がこちらに向けて手を振る。私も負けじと手を振り返す。

 「遅くなった。ごめん」

 椅子を引いて腰を落ち着ける。椅子の座り心地も20年前と何も変わらない。

 「相田さん、今日はなんだかいつもと雰囲気が違うね。どうしたの。もしかして先週陽茉梨が変な話をしたから引いちゃった?」

 「いや、全然気にしていないよ。それよりさ・・・」

 「どうしたの?」

 陽茉梨は首をかしげる。

 「陽茉梨、本当は女子大生じゃないだろ」

 私は声のトーンを低くして質問を投げかけた。

 「ええと、なんでそう思ったの」

 陽茉梨は引きつった表情で返した。

 「別に、大した根拠はない。なんとなくだ」

 「なんとなくで決めつけないでよ」

 「もし高校生だったらこれは犯罪になるんだぞ。大事なところを誤魔化しちゃダメだ」

 「もし陽茉梨が高校生だとして、相田さんが知らなければ問題ないんじゃないの」

 「第一なあ・・・」

 私はつい冷静さを失って説教臭く話してしまった。

 「高校生のときからこんなパパ活なんてしてちゃ良くないんじゃないか。もっと勉強とか部活とか、やることがあるだろう。どこの大学を受けるとか決めてるのか」

 「そんなの陽茉梨が決めることだよ。相田さんには関係ない」

 「関係ないってそりゃそうだけどさ」

 「第一パパ活なんてするオジサンに偉そうなことなんて言われたくないよ」

 「そうだな、すまない。ごめん」

 私は矢継ぎ早に問い詰めてしまったことを後悔した。陽茉梨を説得するにしても、もう少しやり方があったはずだ。完全にペースを間違えてしまったようだ。

 「関係ない人に指図されたくないよ」

 陽茉梨は会ったときの笑顔が嘘のように不機嫌な表情をしている。その白い肌と面長な顔は理絵にそっくりだ。そして不機嫌な表情をしたときの眉間のシワは私にそっくりだった。



 その検査の結果が届いたのは待ち合わせの三日前のことだった。陽茉梨と会う前に間に合うか怪しいところだったが、なんとかセーフだった。受け取り先を会社の私の席にしておいたので、妻には郵便物の存在がバレていないはずだ。会社を出るなり私は封筒を破って中の紙を広げた。私の不安は的中した。


 ”親子関係にある可能性は99%”


 紙に書いてあった文言だ。私は気が遠くなるような感覚に襲われた。陽茉梨はおそらく理絵と私の子だったのだ。


 理絵から連絡があったのは今から17年前、社会人一年目の冬だった。「久しぶりに会いたい。見せたいものがある」

 私は別れたとはいえ、まだ少し理絵には未練があった。彼女には垢抜けた独特の魅力があったのだ。当時既に現在の妻と知り合い、交際を始めていたが理絵のことも忘れていなかったのだ。

 しかし理絵から告げられたのは驚きの一言だった。

 「これはあなたの子よ」

 私は愕然とした。理絵の手に抱かれた赤子、それを私の子だと理絵は言う。

 「どういうことだよ」

 「どういうことってあなたの子供よ」

 私は理絵の言うことが信じられなかった。理絵はふしだらな女だ。色々な男と関係を持っている。どうせこの子供も私のことは思えない。単に付き合っている男の中で私が一番将来有望だから接近してきたに違いない。

 「冗談じゃない、ふざけるな」

私はその場で激昂すると、理絵の下を去った。


 付着していた陽茉梨の髪の毛を採取して業者に鑑定に出したところ、親子関係は99%証明された。あの赤子はきっと私と理絵の娘だったのだ。そしてその娘は母親と同様に、若くしてふしだらな男性関係に逃避して心の寂しさを埋めている。しかもその男性のうちの一人は同じ相手なのだ。「親に似ない子はいない」という。こんなところまで親に似てしまうとは。私は理絵の生き様を陽茉梨が繰り返すと想像しただけで、嫌悪の感情を覚えた。


 私は陽茉梨に言った。「説教みたいなことを言ってごめん。許してくれ」

 陽茉梨はまだ不機嫌そうな顔のままだった。

「もうこういう話やめようよ」

「ああ、そうだな。でも一つだけ聞きたいんだ」

「何?」

「陽茉梨、兄弟っていないの?お兄さんとかお姉さんとか。もしお母さんがいなくても兄弟なら助け合えるかもしれない。そこがもしかしたら陽茉梨の居場所になれるかもしれない。」

陽茉梨は相変わらずムスッとした表情だ。聞き方が悪かったかもしれない。

「実は・・・生き別れだけど、姉がいたんだよね。私が生まれる前にヨソの家に里子に出されてほとんど会う機会はなかったけど」

「そうか。お姉さんか」

 私と最後に会った時点で理絵は上の子を放棄していたようだ。なんとも無責任だ。やはりあの女は本当にろくでもない女だ。

「お姉さんにあってみようとは思わないの」

「別に。家族の話はあんまりしたくない」

 陽茉梨は再び不機嫌そうな表情を浮かべた。私は陽茉梨の機嫌を少しでも直そうと声をかけたが、結局うまい言葉を思いつくことができなかった。

 「相田さん、私のこと嫌い?」

 「そんなことはないよ。大好きさ。この世で一番好きさ。だから陽茉梨にはもうパパ活からは足を洗ってほしいんだ」

 「なんでそんな事言うの。こうしてなかったら私達出会えなかったんだよ」

 「出会えたのはなにかの縁だと思う。でも陽茉梨のことを大切に思っているからこそ、もうこんなことはやめてほしいんだ」

 私は多分お前の父親だと本当は言いたかった。この子は私の長女であり、将馬の姉なのだ。でもその勇気はなかった。私には家庭があるし、社会的立場がある。20年も前に切り捨てたふしだらな女の過去を蒸し返したくはない。私は弱い男だ。だからこの場では沈黙することしかできない。実の娘への責任から逃げた上にあろうことか慰み者にしてしまったのだ。

 「それに・・・これ以上パパ活を続けているとほら・・・悪い男の餌食になって首切られて殺されちゃうかもしれないし」

 「余計なお世話だよ」

 「なにかと物騒だしさ。パパ活なんて危ないって。俺もパパ活からは足を洗うし、陽茉梨も一緒に足を洗おうぜ」

 「ご心配ありがとうございます。何か他に言うことはありますか」

 陽茉梨は再び不機嫌な表情に戻った。これ以上同じことを言っても取り付く島がないだろう。きっともう彼女と会える機会はない。私は弱さ故に陽茉梨に何もしてやれなかったのだ。今更父親ぶっても無駄だろう。そんな権利はないし、もう手遅れだ。

 「これで好きなものを買いな。その代わりパパ活はおしまいにしてほしい」

私は財布から30万円の入った封筒を渡した。これが私にできる精一杯の償いだ。陽茉梨は驚いた顔をして私の方を向いた。私は陽茉梨をギュッと抱きしめた。彼女の面長な顔をじっと見つめると、喫茶店を後にした。


 私は帰り道、理絵と陽茉梨の事ばかり考えていた。二人が似ているのは顔だけではない。生き様も良く似ている。どちらも満たされない心の穴を抱え、複数の男に依存し、共に私と出会った。

 陽茉梨が孤独に陥ったのは全て私のせいだ。なぜなら理絵を殺したのは私なのだから。


 理絵の殺したことは私が常に記憶の最下層に置き、思い出さないようにした記憶だ。17年前、理絵に呼び出された私は子供を見せられ、激昂した。私には将来があったし、他に結婚したい女性もいた。理絵のような自分にふさわしくない女性とは縁を切るべきだと思っていた。しかし理絵は唐突に結婚を迫ってきた。私はそんな準備はできていない。第一、この子供が自分の子供かも怪しいではないか。

 当時の私は今よりも遥かに向こう見ずで、短絡的だった。理絵のような女に絡まれたら人生を棒に振ってしまう。そういう焦りばかりが支配していた。私は理絵を仲直りの記念と嘘をついて熱海への旅行に誘った。そして、人気のない山の方に誘い出して首を絞めて殺した。無我夢中で首を締めていると最初はジタバタしていた理絵はぐったりと意識を失い、そして冷たくなっていった。

 その後の経験は私には忘れられないものだった。白く美しい理絵の死体。そこにはグロテスクな魅力があった。最初は身元がわからないようにバラバラにするつもりだった。しかし、首を切り取っている時に私は経験したことのない性的興奮を覚えた。あのときの快感は忘れられない。私が内に秘めた猟奇性を自覚した瞬間だった。


 家に帰ると妻が玄関で出迎えてくれた。 

 「あら、今日は金曜なのに早かったね。今日も食べてきたんだっけ?」

 「ああ、晩ごはんはいらないよ」

 私は心ここにあらずといった表情で応えた。

 「あら?これは何?」

 妻は私のスーツの方に手をやると、髪の毛を掴んで自分の顔に近づけた。髪の毛は私のものにしては長すぎる。まずい、これは多分陽茉梨のものだ。

 「この髪の毛、何?」

 妻は怪訝そうな表情で聞く。

 「なんだろうな。帰りの電車でおしくらまんじゅうしていた時に着いたんじゃないか」

 「帰りの電車ってそんなに混んでるの」

 非常にまずい。理絵のことで頭が一杯ですっかり証拠隠滅を忘れていた。別れ際に陽茉梨と抱擁した際に付着したに違いない。普段だったらどんなに酔っている時でも、帰る前に必ず髪の毛や化粧の粉が付着していないか確認していた。しかし今日はすっかり忘れてしまった。なんとか誤魔化し通さないといけない。

 「実は・・・同僚に勧められたキャバクラに最近通っていて・・・」

 「そんな馬鹿みたいな遊びのために金を浪費しないでよ。ただでさえ家のローンと将馬の塾代がかかるのに・・・」

 「すまん、次誘われた時は適当な理由をつけて断っておくよ」

 「本当に男はバカだから・・・」

妻はブツブツ文句を言いながら台所へ戻っていった。もうこういった嘘を妻につく必要もなくなる。退屈を紛らわす手段としてパパ活に逃避していたが、もうそれも終わりだ。私は家族のありがたみを忘れていたのかもしれない。帰るべき場所があるというのはこの上ない贅沢だ。

 「今夜はロールキャベツを作ってみたんだけど、どうかな」

 「お!でかした。早く食べたいぞ」

妻はいつもと変わらず私に夕飯を作ってくれる。当たり前のように毎日過ごしているが、感謝を忘れてはいけない。こうしたごく普通の家庭を手に入れたかったのだ。そしてそれは思っているよりも難しい。現に私も理絵と陽茉梨を犠牲にするという代償で家庭を手に入れた。私は罪悪感を感じながらも妻に心のなかでそっと頭を下げた。



 その晩、ベッドに入ると再び夢を見た。心の奥底にずっと隠し続け、抑え込んでいた光景だ。

 白い首筋にのこぎりを当て、切り続ける。骨を砕くと反対側の肉が伸び、健が露出する。美しい光景だ。そのまま反対側から筋を切って首と胴体が完全に離れる。私は髪の毛を掴んで生首を持った。ずっと前に絵で見たギリシャ神話のメデューサのようだ。そして私はペルセウスだ。腹の底から湧いてくる達成感と興奮。こんな快感は感じたことがない。この快感は一度感じたら忘れられなくなってしまうのではないか。麻薬のようなものだ。私は生首の顔面を自分の方に向けた。間もなく絶頂が襲ってくる・・・


 それから二週間ほど経った頃だろうか。テレビを見ているとそのニュースが突然入ってきた。「殺害された吉岡美鈴さんの遺体は一連の連続殺人事件と同様に首が切断されて持ち去られており・・・」

 私はびっくり仰天した。その顔は陽茉梨本人だったからだ。彼女は私のアドバイスも虚しくパパ活を続け、殺されてしまったのだ。


 吉岡美鈴、それが陽茉梨の本名だった。私は何度も陽茉梨と関係を持ちながら、彼女の本名すら知らなかったのだ。

 彼女は何者かに殺されてしまった。殺したのは誰だろうか。ディズニーランドに一緒に行っていた別の男だろうか。それとも新しく出会った男だろうか。今回の被害者は全員黒髪で面長で色白な美女ばかりだ。もし新しく出会った男に殺されたとしたら、私が髪の色を戻すように言わなかったら彼女は殺されなかったのではないか・・・再び後悔の念が襲ってくる。


 私は家族と社会的立場を優先して陽茉梨いや、美鈴を見捨ててしまった。17年前に私は逃げ、今日もまた逃げてしまったことになる。学生時代から女性の好みが変わっていないのと同様に、逃げ腰の態度も何一つ変わらなかった。何一つあの時から成長していなかったのだ。弱さ故に私は娘を失った。この後悔は生涯なくなることはないだろう。


 美鈴が殺されたとなれば警察は過去の交友関係を探るだろう。私のところにも捜査が入るはずだ。パパ活で密接な関係に合ったと知られれば嫌疑がかかる可能性が高い。万が一家宅捜索に入られたら大変だ。その前に念のため、17年間持ち続けたアレを処分する必要がある。

 

 私は普段決して開くことのないカラーボックスの三段目を開けた。そこにはビニールにくるまれた人の頭ほどの物体があった。ビニールをそっと開いていく。私はその物体に話しかけた。


 「君を処分しないといけなくなった。ごめんな、理絵」


 それは理絵の生首だった。乾燥してもはやミイラのようになっている。面長で色白だった昔の面影はない。17年の月日によってすっかり風化してしまったようだ。

  

 私は理絵の生首を一周させて眺めた。あのときの快感がフラッシュバックしてくる。長年心の底に封印して決して意識しないようにした感覚だ。あの経験は麻薬だ。一度知るとやめられなくなる。連続殺人犯の多くも殺人を犯すごとに快感が癖になり、エスカレートしていくと言われる。そうならないためには一度目の時点で心の奥底に封印するしかない。

 肘が理絵の頭部に当たると髪の毛がバラバラと落ちてきた。いかんいかん。私は床に落ちた理絵の髪の毛を拾い集めてビニールでくるんだ。


 土日を利用して私は理絵の首を人気のない海岸で燃やし、残骸を粉々にした後で海に流した。これで死体が発見されることはもうないだろう。私は最後まで逃げ続ける道を選んだのだ。しかし、首を処分する前に私はひとつやってみたいことがあった。

 私はスーツに付着していた美鈴の髪の毛と首から取った理絵の髪の毛、それに私の髪の毛を取ってもう一度DNA鑑定に出すことにした。前回のDNA鑑定の時は理絵のDNAは提出しなかったし、私に関しても精度は99%だった。もう一度美鈴が私と理絵の子供であることを確認しておきたかったのである。


 しかし、結果は驚くべきものだった。今回の鑑定ではなんと美鈴と理絵には血縁関係が成立するが、私と美鈴との間には血縁関係が存在しなかったのである。そのようなことがあるだろうか。もちろん鑑定には誤差があることも考えられる。しかし・・・

 

 美鈴が理絵の子供であることは間違いない。しかし美鈴の父親が私でないという可能性は十分に考えられる。やはり理絵は他の男との子供を私に押し付けようとしたのだろう。そうなると1回目のDNA鑑定で出た私との血縁関係は嘘だったのか。もちろん鑑定の結果が間違っていることは考えられる。しかしもう一つの可能性の存在に私の背筋は凍りついた。


 私は将馬の部屋に勝手に入り込んだ。私の部屋に似て息子の部屋も乱雑だ。将馬が物を隠すところといえばここしかないだろう。私は将馬の部屋のカラーボックスを開けた。

 

 私の予感は的中した。そこに入っていたのは4つの生首だ。その一つに幾度となく見た面長で色白な美鈴の顔があった。他の3つの生首も、全て面長で色白な女性だ。

 「親に似ない子はいない」という。将馬には私の最悪の部分が遺伝してしまったらしい。猟奇殺人を好むという悪魔の本能が。将馬の机の上にはディズニーランドのストラップが掛かっていた。美鈴が私と同時に交際していたもう一人の男は将馬だったのだ。美鈴のような面長で色白な女性を好むというところも私と将馬はそっくりだったし、美鈴にとって魅力的な男性であるという点でも私と将馬は同様だったのだ。


 美鈴のバッグに付着していた髪の毛は将馬のものだったのだろう。その時は全く気が付かなかった。たしかに今から思い返すと美鈴の髪の毛にしては黒くてやや短かった。迂闊だった。加害者の子供が加害者になり、被害者の子供が被害者になる。私達親子は想像以上に似た者同士だったのだ。


 私は結局、美鈴に不純な交際をやめさせられなかった。私は将馬に猟奇殺人をやめるように説得できるだろうか。アレは麻薬だ。私自身、そういう本能を持っているからこそよく分かる。4人も殺したとなるとすっかり殺しがクセになっているだろう。そうなるとやめさせるのは難しいかもしれない。

 理絵のときも、美鈴のときも私は常に逃げることばかりを考えていた。だから二人は命を落とすことになった。

  だから今回こそは逃げるのはやめよう。自分から立ち向かっていかなければ何も起こらない。これは17年間で私が身をもって思い知らされたことだ。

 私は将馬のカラーボックスから4つの首を取り出すと全て新聞紙で包み、ごみ袋に入れた。明日は平日だが、仕事などしている場合ではない。会社には急な発熱ということにして、有給申請のメールを送った。私は理絵の首を処分したのと同様に4つの首を処分することに決めた。

 将馬には必ず猟奇殺人をやめさせる。もし警察の捜査が及んだら、私が替え玉で逮捕されるつもりだ。これほどの事件が明るみに出れば必ず犯人は死刑になるだろう。替え玉作戦が成功すれば私は死刑になる。それでも問題ない。この世でたった一人の血を分けた子供が生き残るのなら。


 もちろん警察の捜査を免れる可能性もある。もしそうなれば私は美鈴の姉を探すだろう。私が理絵と付き合っていた時に、良く泣いていた赤子。理絵は彼女を里子に出してしまったらしい。探し出せるかは分からないが、もし見つけることができればできる限りのことをしてあげたいと思っている。彼女が孤独になった原因の一つは私の行動なのだから。これが私なりの美鈴と理絵に対する禊なのである。




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明日私は誰かのパパ 名取信一 @natorisinnichi

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