蒐集家

中且中

第1話

 夜に起きているようになった。昼が怖いからだ。

 夜は良かった。誰もいないからだ。

 夕方になると私は街を出る。街は城壁に囲まれている。街の外は草原である。地平線まで丘陵が続いている。

 門から出て、道を歩いていると日が沈む。今日もまた陽は没した。西の空の夕陽は地平線の上に融けるように広がって、一本の赤い線になった後、滲んで消えた。西の空は夕陽の残滓のような茜の色で、やがてそれは菫の色になって夜の色になって、夜の帳を針でついたように一番星が輝いた。ひゅうと風が吹いて、草原が海のように騒めく。夜明までまた私はひとりきりになる。

 ぶらぶらと街を見下ろせる丘まで歩く。街からのびる道は、丘陵をまっすぐ地の果てまでのびている。少し歩いて、脇道に入る。その路が丘まで続いている。

 夜にばかり起きているようになったのに理由はない。誰しもそんなふうにしたいという欲求はあって、たまたま私がその欲求を現実に実行した、というだけの話だ。いつか私ももとの生活に戻るかもしれないし、あるいは戻らないかもしれない。だが戻るだろうという予感がある。ふっと人生の正道を抜け出して、一時のアヴァンチュールに身を浸すというのも、悪くはないことだ。ちょっとぐらいレールをはずれても、もとの場所に戻れるくらいには、今の時代は平和で余裕がある。

 ちらりと背後の街を振り返る。燈火で街が燃えているかのように輝いている。前を向きなおすと、夜空と、月光に薄い青色に染まった草原が広がっている。

 ふと、前方に何かが立っているのに気がついた。それは人間だった。路傍に佇立して、街のほうを眺めている。

 近づいていくと、それが白いゆったりとした服を着た髪の長い女だとわかった。背が高い。ふと先方がこちらに気がついて、会釈をした。こちらも会釈を返す。女の横を通ると、隠れていた顔が見える。齢はいまいちわからない。男のような、女のような気もする。なんだか駅前にあるような彫刻がそのまま人間になったような顔をしている。

「こんばんは」

 と女が言った。

「こんばんは」

「どこに向かうのですか」

「丘に。そこから街が見えるので」

「そうですか。実は私も街を見ようと思ってたのです。ご一緒してもよろしいですか」

「ええ、まあ」

 私は頷く。そのまま、一緒に丘に向かう。道中、会話は無い。女はゆっくりとした歩調で、私のあとを付かず離れずついてくる。丘を登る路は、つづら折りになっている。折り返しにくるたびに、街を見ようとするが、丘の斜面に遮られてよく見えない。十数分ほど歩くと頂上に着く。

 丘の上、燈火に彩られた街は、宝石の山のように見える。私はほっと溜息を吐いた。

 街を眺めるのは、夜に起きるようになってからのルーティーンだった。私はここで街が完全に寝静まるまで時間を潰した。そして、盛り場の最後の灯が消えてから、街に戻って、夜が明けるまで、街路を逍遥する。なにが楽しいというわけでもないけれど、でもなんだか落ち着いた。

 ぼうっと街を眺めおろしていると、ふと横に女が立った。女もまた街を眺め降ろしている。

「夜が明けなければいいのに、と思いませんか」

 突然、女が言った。

「そうですね。私もよく思います」

 驚いたが、その発言には同意であった。女は私のほうをちらりとも見ずに、また、

「目の前の景色を、この夜を永遠に、ひとつの箱の中に閉じ込められたらいいのに、と思いますか」

 と続ける。

 よくわからなかったが、とりあえず相槌をうった。

「ええ、そうできたら、少し楽しそうですね」

 女はこちらを見て笑んだ。

「そうでしょう」

 じっと街を眺めている。街は四角の城壁に囲まれて、箱のようだ。箱の中には、数多の建物が誰かがそっと丁寧に配置していったかのようにならんでいる。無数の燈火が灯って、宝石箱のようだ。中央に立つ楼閣が蝋燭のように輝いている。街路が、光で描いた線のように縦横に走って、光っている。

「そうしたら」

 女が言う。

「え」

 と私が横を向くと、陶然とした面持ちで、女は街を見下ろしていた。そして、言った。

「そうしたらずっと眺めていられる」

 私が意図を読み取れずにいると、唐突に、女は眼下の街に対して、そっと手ですくうような動きをした。するとたちまち眼下の街は消えうせた。まったく魔法のようであった。眼下に広がっていた燦然たる街明かりがなくなって、あたりが暗くなったような気がする。

 見れば、女の手のひらの上には小さなきらきらとした光の粒がのっている。よく見るとそれは小さな街である。さきほどまで眼下にあった街が、小さくなって女の手のひらの上に乗っているのだ。

 私は息を呑んだ。

 女は懐から小箱を取り出して、小さな街をそっと箱の中に置いた。箱の中を覗くと街がある。箱の中には小さな草原がある。箱の蓋の裏には夜空が描かれている。

「これでいつでも楽しめる」

 と女は言う。

 私は呆然とした。

 丘の下で先ほどまで輝いていた街は忽然と消失し、そこには草原が広がっている。まるで最初からなにもなかったかのようだ。女は何食わぬ様子で、佇んでいる。

 街のあった場所を見ていると、ふとこれでは家に帰れなくるということに気がついた。その途端、私は得も言われぬ哀しみに、胸が埋め尽くされそうになった。消失の感覚が胸を満たした。先ほどまでなにがなんだかわからず、呆然としていたのに、今では感情が溢れ出してパニックになって、泣き出してしまいそうだった。

 女が箱を持ち上げた。くるりと後ろを向き、歩き出す。女は箱を持ち帰ろうとしている。

「待ってください」

 と私は咄嗟に言った。

「持って行かないで」

 私の言葉に女は首を傾げた。私は女の目を見つめた。女は少し首を傾げたあと、合点がいったように

「あなたもこれが見たいんですか。私のところに来たらいつでも見せてあげますよ。他にもいっぱいありますから」

「そうじゃないんです」

 女は首を傾ける。何と説明したらいいだろう。私は呆然とした。

 その様子を見て、女が言った。

「どうしましたか」

 私はすがるように女を見上げた。救いを求めるように、許しを求めるように私は女の手を取り、懇願した。

「これでは、家に帰れなくなってしまいます。戻るところがなくなってしまう」

 と私は訴えた。

 その言葉が伝わったのか、女は悲し気に眉をさげた。

「こんなに綺麗なのに」

「おねがいします。街を元に戻してください」

「夜が明けなければいいのに、とあなたも言ったでしょう」

「言いましたけど。でも嫌なんです。やっぱり昼間も好きなんです」

 その言葉を言った瞬間、女はまったくとんでもない罵倒を受けたかのように目を見開いた。それから女は残念そうに溜息を吐いた。

「そうなの、残念」

 そう言いながら、女は箱を地面におろした。蓋を開け、街を掌にすくいあげ、かつて街のあった場所にそっと戻した。ふっと瞬きをすると、もう眼下には街があった。まるで何事もなかったかのように、街が存在し、燈火が燃えるように輝いている。

 眼下に広がる街の景色を眺めて私は胸をなでおろした。女に礼を言おうと思って、振り返る。だが、女はいなかった。

 私はなんだか夢でも見ていたかのように思った。

 ふと、風が吹いた。眼下には街が見える。

 今日はもう寝ようかな、と私は思った。ひさしぶりに朝日が、太陽が見たかった。

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