彼は彼女から4文字を奪った

第1話 仕事

 「ノーア、愛してるよ」

 「私もよ、クリス」



 愛してると言えなくなったのは何故だろう。いつからなのかはわかっている。もう三年も経つ、彼の調査を終えたときからだ。


 日中、デスクワークをしがない無名の会社で働いているという私は夜、スパイとして働く。日中は普通の在米日本人女性の和泉綾乃として、夜はノアというイギリス人として。

 外交官として有能だった日本人の父と売れっ子作家や翻訳家として有名だったイギリス人の母の元に産まれた私の容姿は母譲りでイギリス人として通すことは難なくできた。


 「ノア、夜桜が見れるレストランがあるみたい。明日の夜一緒に行かない?ノア、桜好きなんでしょ?」

 「えぇ喜んで!よく覚えてたね、私が桜が好きって。」

そんな会話をしながら私はクリスとイギリスのパディントン駅を目指す。そして住んでいる家に帰る。

 喉が渇いた。靴を脱ぎ、冷蔵庫の中の炭酸水を開け、グラスに注ぐ。両親は日本にいるから絶賛一人暮らしだ。靴をはき、外へ出る。そして屋上へ登りとある建物の屋上へ向かう。並外れた身体能力と観察眼をもつ私だけがいける私だけの秘密の場所。そこからは見下ろす街も、見上げる月や星も、私が日々神経をすり減らしながら惰性で生きている世界と同じとは到底思えないほど綺麗に映った。

 もうそろそろ、クリスともお別れだな、次はどこの誰かしらなんて思いながらあの日から忘れられない私に跡を残していった彼のことを考える。そういえば彼もあの月を見ているんだなと思ってみたり、彼も秘密だよと彼だけの秘密の場所に連れていってくれたなと思い出してみたり。いつもは国に、仕事に縛られている私もここだけでは自由になれる。嘘を平然と言い、相手から情報を引き出す。誰も信じられない。そんな世界で生きる私が見る世界は清らかな水のように澄んでいた彼の目から見える世界に比べたらとても冷たく汚い世界なのだろう。だから私はここにいる時間が大好きだった。どんなに冷たく汚い世界でも、ここから見れば美しく見えたから。


もう、寝よう。明日が楽しみだ。

 

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