不変

少年はヒーローになりたかった。

世界を変える英雄を夢想した。


心無い人が「無理だ」と彼を罵った。


少年はそれでも諦めなかった。

画面の奥のヒーローが支えてくれたから。


心無い人が多すぎた。


画面の奥のヒーローは、何にも助けてくれなかった。


胸元に隠した野望は地面に転がり落ちた。

自信なんか擦り切れた。


少年は青年へと変わった。


雑踏に揉まれ、彼は色々なことがわからなくなっていった。


色々なことが上手くなった。


自分を騙せるようになった。

小賢しいことができるようになった。

他人を貶めることができるようになった。

見て見ぬフリが上手くなった。


彼は、くだらない人間である。


四角い闇で切り取られた電子の街を、今日も彼は縫うように歩いている。


青年の名前は、ひろ。

日々の激務と鬱屈な日常に疲弊しながら、のうのうと今日を生き続ける。


午前中の上司の怒鳴り声が、耳の奥で反響したまま消えない。

代休もない。

生き続ける意義もない。


彼は、そんな人間である。


彼はフラフラと歩き続ける。


目抜き通りから少し逸れたこの道は土曜日にも関わらず、光と人影でごった返しだ。


「3821」「見ろ マグネシウムだ」「トリックじゃない」「罪を数える」「鯖」...。


目の痛むような電光と甘言を湛えながら、ネオンサインやらは怪しく点灯し、通行人を刹那の快楽へと誘う。


そんなのには目もくれず、淡々と足を引き摺るように動かしていった。


走り去る車。


黒ずんだ排気ガスが、街の明かりに浮かんでは消え、その上空をエイの群れが飛行する。


恐らくペット用のものが捨てられ、そのまま野生で繁殖したのだろう。


エイは飛ぶ。

これは一般常識だ。


ひろの肩が通行人にぶつかった。

サイバーサングラスを掛けたその男は、振り返ることなく舌打ちをして、また人混みへと消えていった。


時は2039年。

テクノロジーの飽和によって、世界には抽象的な不安が蔓延していた。


10年前に起きた都市直下型大規模災害の影響は人々の心に強く根差している他、改造人間による無差別殺人行為のニュースが後を絶たない。


急進的な成長と崩壊的な衰退を経た世界は、万物が既製品で歪に組成されている。


世も末である。


ひろはぶつかった男の方を、じっと見ていた。

男が見えなくなっても尚。


ドブを煮詰めたような目。

口は固く閉ざされたままだ。

何も言えないのか。

それとも、何も言わないのか。


しばらくして、彼はゆっくりと向き直り、また酔えない足取りで歩みを進めた。


またしばらくすると、19歳ほどの少年がガタイの良い男に絡まれているのを見えた。


もっとも、それも当たり前の風景なのだが。


少年は男に頬を殴られ、ゴミ袋の山にぶつかった。

近くに弦がめちゃくちゃになった、少年のものらしきギターが転がる。


当たり前。当たり前。


ひろは、その風景を目の端で捉えると、鼻一杯に息を吸い込んだ。


汚染されきった空気が、鼻の奥に漂い、しばらくその場でモヤついて消えた。


それから、彼は逃げるようにその場から走り去った。

ただただ、それから逃げ出したかった。


...何から?




        * * *




彼の住んでいる木造アパートは、駅から5分ほど歩いたところにある。

所々錆びたドアが、ギシギシと音を鳴らして開く。


ゴミ袋や衣服、カップ麺や缶ビールの空き缶があちこちに散乱する。


ゴミ袋の上に、無造作に積まれたテレビ。

キッチンには水に浸かったままの食器と包丁。

ピンチハンガーには靴下。


彼の生活の一片が垣間見えるようだった。


ひろは鞄を床に捨て、ベッドに座り込むと力無く項垂れた。


開いた窓から夜風が吹き、カーテンを力無く揺らす。


彼はこれまでの過去を懺悔するように思い出していた。


彼の人生で誇れるものは何もなかった。

失敗、敗北、理不尽。

そんなものが転がるばかりである。


でも、彼はそれでいいと思っていた。

存在しないとわかっていても、彼の心の支えは常にヒーローだった。

幼少期見たその勇姿。

どんなに辛くても、挫けない。心折れない。

心から尊敬していた。


...。

1週間ほど前である。

そのヒーローを演じた俳優が、特殊詐欺の容疑で逮捕されたのは。


もちろん、役者はどこまでいっても役者だと割り切れるし、そこにどんな葛藤があったのか推し量る術もない。


ただ、彼は悲しかった。

自分の人生の何か、全容めいたものを否定されたようで。


振り返れば、そんな繰り返しだった。

脆弱な希望で蓋をした、後ろめたい失敗の足跡を背中を押されるようにして毎晩辿った。


誰にも愛されなかったことも、自分を押し殺したことも、自分の弱さを噛み締めたことも。全部。


心の奥で塗り潰した悔しさと焦燥感が、フラッシュバック的な過去の後悔と共にむせ返る。


一日生きる度に少しずつ、悔恨のアルバムが嵩を増していく。


そうして彼は一歩一歩、健やかに生きる術を失くしていったのだ。


まるで最初からそうであったように。


窓から車のヘッドライトの光が、不規則に部屋に入り込む。


薄暗い回想シーンの中で彼は眠った。




夢の中で、彼は公園にいた。

夕陽に背を向けるようにして、赤いブランコにこじんまりと座り込んでいる。

両の手に掴んだブランコのチェーンが少し冷たい。


彼の目の前には少年が一人立ち、彼を不思議そうに眺めていた。


8歳くらいだろうか。

短く切られた黒髪に、顔には青あざができている。


パッチリとした目で少年はひろを覗き込んだ。


見間違える筈もない。

少年時代のひろがそこに立っていた。


「おじさん、」


今よりも高い声で少年はひろに語りかけた。

まるで、何かどことない責任感に駆られる調子で。


「どうしたの?」


...。

ひろはしばらく逡巡すると、チェーンをギュッと握りしめて、口を開いた。

チェーンが、カチャっと微かな音をたてる。


「大したことじゃないけど...」


ひろは、どこか遠い目をして他人事めいて話すようにした。

きっと、それがいい。


「我慢することが立派だと思ってたから、どんなに酷いことに遭っても、どんなに間違っているって思っても、ずっと呑み込んで...ずっと」


吐き出すように言葉を紡いでいく。

丁寧に。グロテスクに。


「そしたら、もう...何が正しいのかわからなくなっちゃった。自分が何をしたいのかだって、もう...。なんか、もう...無理なんだ。」


ひろは少年を見た。

若かりし頃の、まだ死んでいない瞳をなるべく真っ直ぐ見ないようにした。


「ごめんな。」


誤魔化すような薄い笑みと押さえ込んだような優しい声色だった。


箍が外れたのはすぐだった。


自分の発した言葉の重みと酷さに、押し潰されるような気がした。

今までひろの心を押さえ付けていた鬱屈とした何かが壊れ、とめどない感情の波が溢れ出してしまう。


涙と鼻水でいっぱいいっぱいの、湿った顔を隠すように、彼はまだ頭を項垂れた。


「ごめん...。」


呻いたような声だった。

とにかく悔しくて、申し訳なくて、やるせなかった。

少年に誇れるものなど彼の人生にはなかった。


少年は食い入るようにじっと彼を見つめて、動かない。

それから唇の端をピクピクと痙攣させると、まだ幼い喉でこう言った。


「酷いこと言うかもしれないけど...いい?」


夕焼けに照らされて、ブランコの影が傾いていく。


「わかるよ。自分の事だもん。焦りも悔しさも全部。...わかってるよ。」


少年は小さく息を吸うと、ひろの右手を優しく両手で包み込んだ。

温い体温がひろの右手に伝わった。


「でも...」


ひろは、ふと何かに気付いたように顔を上げた。


「『無理だ』なんて言わないで...」


目尻に焦げるような橙色を湛えて、ひろと同じ様に立ち尽くす少年の姿がそこにはあった。

火照った青あざと零れ落ちた跡。

握られた手をひろは強く握った。


同じ二人の少年は、同じ未来に立ち尽くした。


何も変わることはなかった。


夕暮れ。

パンザマスト。

やけに遠く感じるカラスの鳴き声。




        * * *




その日は曇りだった。


ひろは、普段は乗らない7時の電車の吊り革に掴まっていた。

初めての定時だった。


彼はまたドブを煮詰めたような目をして、3日前に見た夢の正体を考えている。


モニターめいた車窓から、テクノロジーと反比例して退廃的と化したビル群の有象無象がチラつき、ただ右へ右へと景色が流れていく。


都市の夜景は目に悪い。


電車は、ビルとビルの狭間に滑り込む様にして架かるコンクリート製の無骨な線路の上を直走り、カーブを曲がって直線的な道へ入った。


暴走族のクラクションと光。


...。

お気付きだろうか。

電車の前方、橋の左側に聳え立つ高層ビルの9階。怪しく光る2つの光を。

けたたましいエンジン音を鳴らし、タイヤが駆動する!


そのままビル内オフィスの廊下にタイヤ痕をつくり、直進して強化ガラスを破砕!!

ビルから飛び降りたそれは、電車の進行方向に落下せんとしている!!


造られたビル街の光によって、落下中のその姿が一瞬露わになる。

タンクローリーだ!!!!


それは重力に従い、無慈悲にも1両目の前方へ衝突した。


数十人の乗客が天井ごと押し潰される。


刹那、爆音が一つ。


爆炎が一気に拡散し、電車の前方を包み込んだ。


数コンマ遅れて車体全体が一瞬、宙に浮く。


その衝撃で脱線した列車は、周囲のビルを

巻き込んで豪快に炎上をはじめた。


タンクから溢れた石油が一気に引火したのだ。


不幸なことに、衝突部付近に乗っていたひろは身体が焼かれる痛みを味わいながら、押し潰された死体や炎上しながら咽ぶ乗客を見ることとなった。


ひろは形容し難い焦燥と絶望、戸惑いに打ちひしがれながら、ただ身体が焦げる痛みに苦しんだ。


...実の所、彼は少しばかし心地よさを感じていた。現実は飲み込めない。現状だって、そう。

なら、終わりが見える「死」の方が、何とも楽で良いものじゃないか。

彼の心には、ほんの少し...だが確かにそんな気持ちが芽吹いていた。「迷い」だ。


ひろは腹這いになって、炎上する車内を這い歩く。


脳のまにまに、走馬灯めいた情景が次々と浮かんでは消える。


彼の人生にあんまりキラキラとしたものはなかった。

ほとんどのものは、少しずつ積み上がった失意の数々。塗り潰せなかった後悔の数々。


その断片が、彼を最期の時まで嘲笑った。

ひろは口を歪めた。

そして、また幼児めいてしめやかに涙を流した。

業火がそれを、踏み躙るように焼き尽くす。


言葉にすれば容易く、一辺倒で、陳腐なものに感じてしまうが、彼は悔しかったのだ。


虐げられてきた過去も何もできなかった自分も、全部。


ひろは、ふと何かに気付いたように顔を上げた。


少年がひろの目の前に立っていた。

8歳くらいだろうか。

短く切られたた黒髪に、顔には青あざができている。


パッチリとした目で少年はひろを覗き込んだ。


見間違える筈もない。

少年時代のひろがそこに立っていた。


少年はまるでそこにいないかのように炎など意に介さない。

そこに少年はいないからだ。


ひろの網膜にのみ焼きつく幻。

走馬灯めいた夢が、現と混ざって顕れたのだ。


少年は何も言わずにゆっくりと腕を上げると、ひろから見て左側の壁を指差した。


ひろはそこを見やる。

焼け落ちた列車の壁。

入り込むわずかな光...!


ひろはそこに向かって、ただただ一心不乱に這い進んだ。


迷いは無かった。




        * * *





ひろが炎上する列車から飛び出した時、僥倖にも雨が降り出した。


彼は反射的に地面にゴロゴロと転がる。


熱った身体が夜風に吹かれる。


奇跡的にも火は消えた。

しかし、彼に残った火傷痕、特に顔の左半分の酷いものが目立つ。


ひろはうつ伏せに寝転んだまま頭を上げ、目線だけで何とか周辺を見渡して、驚愕に目を見開く。


死屍累々。

焼け焦げた肉片や残虐に混じり、他殺された死体たちが辺り一面に転がっている。


ひろの方に背を向けるようにして佇む異形の影。


サイバーパンクで流線的な黒いフルフェイスマスク。

顔の部分は液晶めいており、光り輝く円がモノアイのように光る。

口部には数本の管が無秩序に接続されており、さながらガスマスクだ。

ネイビーのダボっとしたフードの隙間からは、機械的なデザインの肋骨が見え、彼の異物感を強調しているように思える。


そう、改造人間である。


テクノロジーの飽和が生み出した無機質と醜悪の権化。

それが今、目の前に。


高層ビルのディスプレイに淡々と流れる改造人間による無差別大量殺人のニュースを、ひろは食い入るように思い出した。


何も感じずに通りすぎた日々の記憶を。


改造人間の両の手には、しめじめと血の滴るサバイバルナイフ。


そして、彼の視線の先には8歳くらいの男の子が一人、怯えた顔で佇んでいる。

足元には惨殺された母親らしき肉片。


悪である。

ひろにとっての絶対的な悪。

狂気、理不尽、その全て。


これは幻ではない。

現実である、と彼は理解していた。


ひろの瞳孔が開き、視界が揺れ動いてスローモーションめいた。


泥のように、のらりくらりとうごめく風景。


ひろはしばらく目を見開いたまま、動かなかった。

数秒して、脳が情報を整理しだすと共に諦めがひろの手を引いた。


見て見ぬフリをしよう。


このまま死んだフリをしていれば助からないこともないだろう。

実際、目の前の子供に割く体力など残っていないし、自分にこの状況が打開できるとも到底思えなかった。


ひろはただぼんやりと寝転がり、目の前の映像を眺めていた。


そうだ。

これが、この世界の当たり前だった。

少年の夢は折られ、失望を突きつけられ、挙句人の命などゴミ同然に踏み躙られる。


そうか。

仕方ない。

当たり前なら、仕方ない。


だったら、

逃げるように逃げて、醒めるように醒めて

ただ最期まで醜く息を吸っていよう。

それがいい。


当たり前なら仕方がないじゃあないか。

無理だ。無理なのだ。


また数秒して、ひろは視線を下ろし、死んだように頭ごとうつ伏せになった。


視界にまた走馬灯めいた人生のハイライトが映る。


世界に突きつけられた理不尽。

挫折。絶望。夜。埃被った諦観。


目の前で死に絶えていく人々。

火。橙色。夕焼け。

自分を見つめる過去の自分。

あの日託した熱。

あの日託された言葉。


「『無理だ』なんて言わないで...」


...。


...。


...自分をかっこいいと思えるか。

ずっと問うてきた不甲斐ない自分に。


誰でもない、自己否定的な言葉を押し付けて、自分を塞ぎ込んだのは誰か。


少年はヒーローになりたかった。

何故?


画面越しのヒーローが、絶望に負けじと踏ん張った時、自分自身を変えた時、泥臭く刃向かった時。

俺は...俺は確かに...かっこいいって、そうありたいって思っただろ!


俺は許せなかった筈だ。

目の前の理不尽も苦しみも押し潰されそうな光も。


諦めきれなかった筈だ。

諦めばっかりのこの世界を。


そうだ、何が当たり前だ!!クソが!!

俺にとっての「当たり前」は、もっと、もっと...!!!!


馬鹿馬鹿しい。

馬鹿馬鹿しい!!!!


全部だ。

全部。


...。

「当たり前」だ。

俺は、俺の「当たり前」を享受したい。

貫きたい。

誰にも譲らない。


どうせ最期くらいなら


変わるのだ。変えるのだ。




逃げ場は無いのだという焦燥が彼を彼たらしめていた。

その眼光はかつての少年めいたものだった。


勝算なんて無い。賞賛なんて無い。

でも、ここで立ち上がれなかったら、今度こそ生きていけない気がする。


音も立てずにゆっくりと立ち上がった。

どこからそんな力が湧いてくるのかさえ彼にもわからなかったが、彼は確かに生きている。


ひろは近くのコンクリート片を大きく振りかぶり走りだし、訳も分からず叫び出した。


どこからそんな力が湧いて出たのかはわからない。

だが、怒りに似たその喚きは、淡白い光を放つビル壁にこだまし、ヒーローの名に相応しい輝きを帯びていた。


改造人間の頭部にコンクリート片が迫る。






雨音。

ひろの会心の一撃が世界に轟くことはなかった。

フードの改造人間は、接近してきたひろの頭を掴むと、地面に力いっぱい叩きつけた。


コンクリート片が無慈悲に転がる。


当たり前だ。

常人が改造人間に歯向かえる訳がない。


改造人間はサバイバルナイフを投げ捨てると、ひろの胴体に正体して馬乗りになる。

そして、ひろの頭を一発一発冷酷に殴りつけるのだ。


頭蓋の砕ける音だけが、辺りに響き渡る。


鼻は折れ、顔は血だらけになって、ひさゃげた。

そこに、生気なんて微塵も残っていなかった。


20発程殴ったところで改造人間はそれを辞め、おもむろに立ち上がった。


脈も、呼吸もない。

ひろは死んだ。

実に呆気ない幕切れだった。


男の子は腰を抜かし、失禁をして、もう言葉も出ない。

改造人間は投げ捨てたナイフを拾うと、それをじっと見つめた。


雨は強さを増していくばかりで、ただただ、さっきまでひろだったものを線路に打ち付ける。


ただただ、ただただ、その強さを増して。


夜はまだ明けない。


これが、この世界の当たり前。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る