スペシャルナイト
なんか真剣な話になりすぎた。こういう真面目な話は嫌いじゃないけど、そんな話をやりにこのレストランに来たのじゃない。話題を変えよう。シナリオライターとしてもアリスを健一がどう見ていてくれたかはわかったけど、女としてのアリスはどうなのよ。
二人が目指しているのは結婚だ。結婚相手を選ぶ理由はあれこれあるし、その中に人として尊敬できるはあっても良い。でもさぁ、男が女を選ぶ時に、それだけを理由にするなんてレアケースも良いところだ。
「中三で同じクラスに初めてなっただろ」
つうかクラスメイトになったのはあの時に一回限りだ。
「噂通りの人だと思ったのが第一印象かな」
陰キャブスでしょ、
「そんなことを思う男子はいなかったんじゃないかな」
葛木に散々言われたのを聞いてるでしょうが。
「あれか、あれは、そうだな。好きな子がいたらイジメたくなるってやつだ」
はぁ、あの葛木がそうだったなんて信じられないよ。
「同窓会で聞いたんだ」
ありゃ、十五年振りに明かされた驚愕の真相ってやつかな。
「葛木のことはさすがにどうでも良いが、アリスはまさに高嶺の花過ぎた」
高嶺の花は前も言ってたけど、
「アリスが自分で言ってたじゃないか。同級生の男子はガキに見えたって。だから男子にとっては高嶺の花だったってこと」
なるほど、そういう意味での高嶺の花か。そんなアリスを初恋の相手に選んだのはやっぱり変わってるよ。次に出会ったのがオフィス加納になるけど、
「天使が舞い降りて来たのかと思った」
ウソ吐け。お世辞も度が過ぎると嫌味だぞ。オフィス加納には魔女級の美女がどれだけいることか。麻吹先生や新田先生、泉先生なんてアリスだって腰が抜かしそうになるぐらいの超絶美人だぞ。
さらに映画にも出演した尾崎美里もまであそこにはいるのだぞ。実在する妖精とはまさにそうじゃないの。今日だってそうだ。コトリさんやユッキーさんだって綺麗なんてものじゃない。
「麻吹先生たちが綺麗なのは認める。オフィス加納の仕事を始めた頃は仰天したからな。月夜野社長や如月副社長もそうだ、それでもボクにはアリスの方が綺麗だし魅力的に見える」
アリスは健一の言葉を信じるよ。だって健一が選んだのはアリスだ。近くに魔女級の美女がいてもアリスを選び愛してくれている。それは口だけじゃない、態度でも体でも存分に示してくれている。
アリスは健一こそ、いや健一だけがかアリスの相手を出来て、アリスを幸せにしてくれる男と信じてる。これだけメロメロにされているのは紛れもない事実だもの。でもさぁ、アリスは汚部屋の女王でもあるんだよ。
「さっきも言ったけどボクの夢は叶わなかった。それでもせめて傍にいて見ていたい。そして及ばずながらその成功の夢を手助けしたい。それがボクの手に残った最後の夢だ」
そんな風に汚部屋の女王を見てたなんて・・なんか空気が重いな。健一がなにかを決断しようとしている。それも違うな、決断はこのレストランに来る前にしてるはず。悩んでいるのはどのタイミングで切り出すかだけのはず。
こういうものは経験が無い・・・こういう経験が多い方が変か。いないとは言わないけどレアだろうな。流れ的には、会話が途切れて、そこで最後の決心をするぐらいのはずなんだ。だからあるとしたらそろそろの感じがするけど、よくわかんないな。
まさかと思うけど、切り出すタイミングじゃなくて、アリスが断る可能性を考えてるとか。ここまで関係を深めてるけど、相手の心の最後のところはわからないと言うものね。健一、勇気を出して。
アリスの心は決まってる。健一の言葉が二人の未来を開くんだ。ここはね、健一が勇気を見せる時だよ。健一は怖いぐらいの顔をしてる。男の方にもこれぐらい重圧がかかるものだと良くわかる。アリスはね、待つことしか出来ないの。それが出来るのは健一だけなんだよ。
「アリス、ボクはアリスを幸せにするために生まれてきた。だからこれからはずっと一緒にいて欲しい」
出たぁ、取り出されたボックスが開けられるとダイヤの付いた指輪だ。俗にいう給料三か月分ってやつ。
「ボクと結婚して下さい」
ついに、ついに言ってくれた。プロポーズってこんなに嬉しいものなんだ、涙が止まらないじゃない。やっとこさ、絞り出せたセリフは、
「お世話になります」
もうちょっと気の利いたセリフの方が良かったはずだけど、なんにも思いつかなかった。胸がいっぱいになるってこの事だと思ったもの。でもこれじゃあ、シナリオライター失格だよ・・・でもないか。これこそリアリティだ。こんな時に気の利いたキザなセリフの応酬をする方がウソ臭いもの。
それから健一がアリスの左手の薬指に指輪を嵌めてくれた。これを感動って言わずしてなんと言うんだよ。なんか全部思い出しちゃった。健一との再会、そこから一途にアリスを愛し抜いてくれた日々をすべてだ。
アリスは普通の意味で良い奥さんにはなれそうにない。でもそれを全部分かって健一はアリスを選んでくれた。アリスはね、アリスはね、死ぬまで、いや死んだって健一だけを愛せるって余裕で誓える。
アリスたちのテーブルなんだけど、なぜか不自然なぐらい他のテーブルと離れてるんだよね。だからテーブルの周りは広々してるのだけど、そこにチェロを抱えて来た人が現れてなにやら曲を弾き始めたんだ。
このメロディーって聞いたことがあるぞ。そしたら一人、また一人って感じでチェロとかバイオリンとか弾く人が増えて行った。やがて指揮をする人まで出て来たけど、これってベートーベンの第九のはず。
ふと見るとアリスのテーブルの前だけじゃなく、他のテーブルでもトランペットとか吹いてる人がいるじゃない。ここまでの規模になるとオーケストラだ。曲はあの有名なメロディーを重ねながら大合奏になったのだけど、また男の人が進み出てきて、
「O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.」
そうだった。ベートーベンの第九と言えば合唱とも呼ばれるけど、歌声の入る交響曲だ。ここはテノール独唱部だけど、そこまでやるんだ。第九の独唱はテノール、バス、ソプラノ、メゾソプラノだけど、えっ、ソプラノをユッキーさん、メゾソプラノをコトリさんが歌うのよ。
たぶんだけどテノールもバスもプロのはず。というかプロじゃなければあんな声が出せないよ。なのにユッキーさんもコトリさんも負けていない。負けているどころか互角以上の気がする。なんて素晴らしいハーモニーだ。えっ、いつの間にかまた人が増えてる。
「Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!」
レストランが震えるぐらいの大合唱だ。第九の合唱はシラーの歓喜に寄せてだけど、その一説はこうだったはず。
『そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい』
アリスには心を分かち合える健一がいる。アリスの指輪を嵌めた手の上に健一の腕を重ねてもらいながら、ずっと聞いてた。
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