クレーマー騒動

 高原ツーリングではなかったけど、儀式の日はいつになるかとあれこれ心待ちにしてた。そしてだけど今夜こそ何かあるはず。だってだよ、今夜はなんとホテルのレストランでフレンチなんだ。神戸でホテルと言えば、やっぱりオリエンタル、ポートピア、オークラになると思ってるけど、今夜はポートピアホテルのフレンチなんだ。


 ここのフレンチはミシュラン二つ星のベージュ アラン・デュカスの世界唯一の提携店なんだ。ここのフレンチは代々本場のフレンチレストランの提携店らしい。どうだ凄いだろう。これがどれだけ凄いかよくわかんない部分もあるけど、きっと凄いはず。


 だから気合を入れておめかしした。だってこういうレストランってドレスコードがあるはずじゃない。ドレスコードまで言わなくても、他のお客さんもきっとハイソな人だろうから、その場の雰囲気を乱さないようにするのがTPOのはず。


 健一とも外食はしてるけど、やっぱり居酒屋とか、焼鳥屋とか、串カツ屋とか、ファミレス程度なんだ。これはアリスもそういう店の方が気楽なのもあるし。健一ならなおさらのはずだと思ってる。


 だからこんな格式の高そうな店に二人で行くのは初めてなんだよね。つうかここまで正式のフレンチなんか行ったこともないもの。だから言うまでもなくこの店も初めてだ。だから今夜は特別の夜のはず。


 そうだよ、ここまでの舞台設定をして健一がやろうとしている事は、一つしか思いつかないじゃない。だからアリスも期待に胸を膨らませてポートピアホテルに行ったよ。笑ったらいけないけど健一もスーツを着てる。


 健一のスーツ姿なんて初めてじゃないかな。着慣れていないとの、見慣れていないのもあってなんかギクシャクしてる気がする。アリスも他人のことを言えないけどね。でも健一の緊張感の理由はそれだけでないはず。どう考えても特別の夜のはずだからだ。


 三十一階までエレベーターで上がって、ここみたいだ。健一が予約客であると言ったらテーブルに案内してくれた。思ってたより広いな。さすがにみんな着飾ってるよ。まあ、これだけの料金を払えるお客さんだからリッチなんだろうな。


 レストランは南北に窓が並んでるけど、案内されたのは山側の窓際のテーブルだ。ポートピアホテルって長方形じゃなくて、楕円形になってるじゃない。レストランもその影響があって、窓際のテーブルと部屋の中央側のテーブルとの間が少し離れてるんだ。


 それは構造からわかるのだけど、山側のテーブルと中央側のテーブルはえらく離れてるな。それだけじゃないのよ、山側のテーブル同士もなんか不自然なぐらい離れてる気がする。というかアリスたちのテーブルだけ他のテーブルとえらい離れてる気がする。


 たぶんレストランでも窓際のテーブルは特等席のはず。これも昼間なら海側のテーブルも良いのだろうけど、夜となれば神戸の夜景が楽しめる山側のテーブルはレストランでも最上席になるのじゃないのかな。


 健一は今夜のためにこのテーブルまで指定して予約したのだろうか。それともタマタマそうなったとか。でもさぁ、健一は専務とは言えこの手のレストランの常連とは言えないはず。どうなってるのだろう。


 それも気になるけどとにかく緊張する。格式の高いフレンチと言うだけで緊張するのに、今夜はもしかしてと思うと夜景を楽しむ余裕もないぐらい。期待に胸を高まらすってこんな風になるのだって実感してる。



 そんな時だった。アリスたちに引き続いて案内されたカップルのお客さんがいたんだ。アリスたちのテーブルに近いんだけど、窓際じゃなくてレストランの中央の方だった。テーブルが近いから嫌でも聞こえるのだけど、


「山側の窓際のテーブルと指定したはずだぞ」


 ありゃ、りゃ、予約トラブルかな。ボーイさんみたいな人が対応していたけど、どうにも宥めきれなかったみたいで、


「ディレクトールを呼べ」


 ディレクトールってなんだと思ったけど、トラブルに気づいた応援みたいな人も来たんだ。


「お前はディレクトールか!」

「いえメートル・ド・テルの山田ですがお話を伺います」


 ディレクトールとかメートル・ド・テルはどうやらフランス語の役職名みたいだけど素直に日本語にすれば良いのに。その辺が本格派フレンチのこだわりなのかもしれないけど、とにかくメートル・ド・テルって人が宥めても収まる様子がなくて。


「ワシを誰だと思っておる。日印紅茶の越後屋だぞ」


 越後屋って聞いて、最初に思い浮かんだのが御老公様だった。世を忍ぶ仮の肩書が越後のちりめん問屋の隠居だったものね。あれも長いことちりめんじゃこの問屋だと思い込んでいたのはアリスの秘密だ。だってだよ、ちりめんと聞いて反物をすぐに連想する方がおかしいじゃない。


 それでも日印紅茶ならアリスも良く知ってる。紅茶輸入の神戸の大手のはずで、北野坂にオシャレなカフェもあるのよね。そこの社長だから金持ちだろうし、社会的地位はあるのだろうけど横柄だな。そしたらまた一人応援に来たけど、その人がディレクトールって人のようだ。


「越後屋社長でいらっしゃるのは良く存じ折ります。ですが、本日の山側のテーブルは難しいとお伝えしているはずです」


 なんだよ、無理だって伝えてるならしょうがないじゃない。


「難しいとは努力すれば出来ると言う事だろう。だからなんとかしろと言ってるのが聞こえんのか」


 あのね、言葉を飾るってのを知らないのか。ダメと言ったらトゲトゲしいから難しいと言っただけじゃない。そりゃ、その中には突然のキャンセルで案内できる可能性も含まれてるだろうけど、窓際のテーブルがすべて埋まっているぐらい見たらわかるだろうが。


 不満があったらそれを伝えるのは悪いとは言わないけど、ここまで来ると横車とか横暴だよ。今どきならクレーマー、それもモンスター・クラスだぞ。でもあれだろうな、越後屋社長はいわゆる常連のお得意さまで上客ってやつなんだと思う。


 だからレストラン側も無碍に出来ないのだろう。それはわかるけど、こんなところで、こんな揉め事を見せられるのは良くないよ。あんたがクレームを付けるのは勝手だけど、他のお客様の迷惑になっているのがわからないのかな。


「ワシに恥をかかせる気か!」


 参ったなと思ってたら、なんとこっちに飛び火してきた。


「あそこのテーブルが良いと言っておるのだ。替わらせれば済む話だ」


 ちょっと待ってよ、どうしてアリスたちが替わらなきゃならないよ。


「あんな貧乏人にあのテーブルは似つかわしくないと君は思わないのか。この店の品位と格式にも関わるだろうが」


 あのね。アリスたちは金持ちじゃないけど貧乏人呼ばわりされて見下される覚えはないぞ。アリスたちだってここの料金ぐらい払えるよ。食い逃げするようにでも見えるって言うつもりなのか。


 いくら社長だからって言って良い事と悪いことがある。ここまでの侮辱をされる覚えはないぞ。お前は何様のつもりなんだ。そしたらだよ、越後屋社長は席を立ってこっちに来やがったんだ。レストランの人も押し止めようとしたけど、それを押しのけ振り払い、


「君たち風情にこのテーブルは分不相応だ。そもそもこのレストランに不釣り合いだ」


 こいつ、言わせておけばそこまで言うか。そしたら健一の方に向かって、


「君は現場労働者だろう」


 まあわかるか。角刈りだし、陽に焼けてるし、筋肉質だし、手だってコツゴツしてるものね。だからなんだって言うんだ。


「近くで見れば笑いたくなるような安物のスーツじゃないか。君のような人間はここにに来るのが間違いだ。君に相応しいのは町の定食屋だ」


 町の定食屋を舐めるな。美味い、早い、安い、そしてボリューム満点の庶民の味方だぞ。


「底辺は底辺らしくしろと言っておるのがわからんのか。底辺でも日本語ぐらいわかるだろう。底辺の貧乏人にお似合いの底辺彼女も居心地が悪そうにしているぞ」


 この野郎、底辺、底辺って何回言いやがった。ああ見えても健一は専務なんだぞ。そりゃ、日印紅茶より小さい会社かもしれないけど、そこまで言われる覚えなんかどこにもあるものか。


 ふと見ると健一の顔が真っ赤だ。あれは怒りに震えてるよ。と言うか健一が怒ってるところなんて初めて見るもの。それもこれは単に怒ってるのじゃなく激怒だよ。椅子を引きかけてるから立ち上がる気だ。


 ここで怒ってくれるのは嬉しいけど、健一が本気で怒ったりすればタダでは済まないよ。なんとかしないといけないけど、アリスでもどうしたら健一を止められるかなんてわかんないよ。どうしよ、どうしよ・・・その時だった。


「越後屋社長、そこまでや」


 こ、この声はまさか、


「このテーブルは月夜野が予約して、友人であるこの二人にプレゼントしたもんや。越後屋社長は、月夜野がプレゼントしたテーブルで、この月夜野の友人が食事を楽しむのを許せないとでも言うつもりか」


 コトリさんじゃないの、


「あなたのような人が輸入する紅茶を飲みたいとは思いません。然るべき対応をさせて頂きます。わたしたちの友人を侮辱し、貴重な時間を妨げた報いを覚悟しておきなさい」


 ユッキーさんも来てたんだ。

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