それでもの本音

 アリスの仕事はシナリオライターだ。この仕事はフリーランスが原則で、在宅ワークというより自宅ワークになる。まあ、パソコンが一つあれば出来る仕事と言えば仕事だからね。シナリオ書くのに資料が必要だったりするけど、これだってオンラインであらかた手に入る便利な時代だ。


 つまりって程じゃないけど自宅が仕事場になる。でも勤め人とは仕事のリズムがまったく違う。勤め人って始業時刻に出勤して、終業時刻まで働いて、その勤務時間内に一定の仕事量をすることが期待されるじゃない。ここもエンドレスの残業があるブラック企業は話がややこしくなるから置いておく。


 でもシナリオライタ―はそんなリズムじゃ働けないのよ。そりゃ、思い付かないと書けないからね。感覚としてスイッチが入るって感じかな。ここも言い切ってしまうとスイッチが入らないと書けないんだ。


 スイッチが入るとどうなるかだけど、何時間でもぶっ続けで書ける。何時間どころか徹夜になるのも多いし、それも二晩ぐらいはザラだ。最長は一週間ぐらいの時もあったけど、あの時は死ぬかと思った。何事も過ぎたるはと思ったもの。


 スイッチが入ってる時って、頭の中に泉が湧くようにシナリオが出て来るんだ。湧いて来るシナリオをキーボードで文書化しまくる感じになる。こうなるとお風呂どころか、ご飯を食べるのも、トイレに行く時間も惜しくなる。とにかく浮かんで来るシナリオをキーボードに打ち込むだけしかしたくないのよね。


 このスイッチが入るタイミングだけど実に気まぐれなんだよ。勤め人のように始業時刻とともに入るようなものじゃない。スイッチが切れるタイミングもまたそう。切れる時は体力の限界かも知れないけど、それを越えて入り続けることもあるものね。だから死にそうになったもの。


 じゃあじゃあ、スイッチが入っていない時はどうしているかになるけど、そりゃ、スイッチが入るのを待つ時間になる。ダックスを買ったのも、この待ち時間の利用のための一環だ。


 ただこの待ち時間の過ごし方も重要なんだ。この時間の目的はいかにスイッチが入りやすい状態に持って行くかの時間と思ってもらえば良いと思う。漫然と時間を過ごしてる訳じゃないんだからね。


 ここをどう過ごしたら良いかはこれまでの経験の積み重ねで判断して作り上げてる。ここも言い換えればスイッチが入るのを邪魔する行為はすべて排除してる。そんなもの仕事の敵以外の何物でもないもの。


 だから家事はやらない。あれはスイッチの敵だ。それどころか親の仇、不倶戴天の仇敵だ。そうだね、あんまり勉強をしない人が無理やりにでも勉強を強いられる時間ってあるじゃない。学生の定期試験なんかがわかりやすいかもしれない。


 そんな時にすんなり勉強に入れないタイプの人はいるでしょ。どうするかと言えば、いきなり部屋の片づけとか始めちゃうのよ。机回りから始めて、部屋全体まで及んで行く感じ。それもとりあえずみたいなものじゃなく、妙に細かいところまで徹底的にやったりする。


 やっと済んだら勉強を始めるかと言えばそうじゃなく、今度は漫画とか、小説を読みだし、挙句の果てにそれで疲れて寝ちゃうとかだ。アリスもそんなタイプだったんだ。だから家事はやらない。勝手な理屈と言われようが、家事はスイッチの敵だと決め付けている。



 スイッチの入っている間だけど、汚部屋化、ゴミ屋敷化も加速されるのだけど、アリスの自身の汚物化も同時で進行する。そりゃ、風呂も入らないし、歯も磨かないし、着替えだってしないものね。あれは汚部屋にいる浮浪者と言われても納得してしまうぐらい。そうだな格好良く言えば、


『汚部屋の女王』


 どこが格好良いのかは置いとくけど、そんな感じで君臨してる。そうなってしまうのは徳永君と交際を始めてからも変わらない。これがアリスのシナリオライターとしてあり続けるための生命線みたいなみたいなものだもの。


 徳永君との交際が始まってから部屋は随分と、いや見違えるように綺麗になったけど、スイッチは入っている時にアリスが汚物化するのは同じなんだ。こんなもの変えようがないし、徳永君だってアリスを風呂に運び込んだり、着替えまで手が出せないもの。


 さっきも言ったけどスイッチが入るタイミングは実に気まぐれだから、徳永君が部屋を訪れてくれた時も汚部屋の女王になってることなんかいくらでもある。そうなってると出迎えさえしない。


 合鍵を渡してるから入れるけど、ディスプレイに集中してるから振り向きもしない。そこから徳永君はルチーンのように汚部屋防止運動をやってくれる。つまりは片付けと掃除だ。これも半端なものじゃないのよね。


 これが終わるとご飯を作ってくれる。これだって出来上がったからといって、一緒に食べるものじゃない。徳永君はアリスが仕事をしながらでも食べられるメニューを考えて作ってくれて、アリスが仕事しながらでも食べやすいところに置いてくれるんだ。


 それからね、アリスの仕事の邪魔にならないように帰る。つまり徳永君がせっかく部屋に来てくれて、ここまでしてくれてるのに、一言も言葉を交わさないどころか、顔すら見ないんだよ。徳永君に見えるのはパソコンの前で格闘する汚部屋の女王だ。


 だけどね、アリスは徳永君が来たのも、片付けや掃除をしてくれてるのも、美味しいご飯を作ってくれてるのも全部わかってるんだ。わかっているけど、スイッチの入っている間は、それに反応する順位が極度に下がってるのよね。


 わかる? こんな状態を見たら誰でも引くよ。百年の恋だって瞬間冷凍になるしかないじゃない。アリスだって感謝はしてる。してるどころの話じゃない。スイッチが切れた時に感謝しても、感謝しても足りない気持ちではち切れそうになる。そうならない人間がいたら見てみたいものだ。


 アリスだって四六時中スイッチが入ってる訳じゃないから、少しばかりまともな格好で出迎えたりしようものなら大喜びしてくれるんだ。他愛無い話もしたりすけど、いつもニコニコと興味深げにいつまででも聞いてくれる。


 なにより重要な事は。徳永君がアリスのスイッチの邪魔になっていないこと。これは巨大すぎるポイントだ。邪魔どころか、徳永君と交際し出してからスイッチが入りやすくなってる気さえするもの。


 こんな感覚になったのは生まれて初めてかもしれない。まだ付き合って日は浅いけど、徳永君はすっとアリスの暮らしの中に入り込み、汚部屋を綺麗にし、それでいてアリスの仕事のモチベーションを上げてくれている。


 もう徳永君はアリスの生活の一部であり、それも欠かせないものになってる。人が結婚したくなるってこういう相手が現れるからじゃないかとまで思うぐらい。だから同棲に進むのは自然だし、その先の結婚だってスケジュールみたいに思い始めてるところが出てるぐらい。


 もう手放せないよ。手放したくないんだよ。そりゃ、アリスはハズレ女だ。そんなことは百も承知だ。徳永君ならアリスよりイイ女を幾らでも選べるのだって良く知っている。でも渡したくないんだよ。


 アリスの本性は汚部屋の女王だよ。でもね、でもね、そんなアリスでも愛してくれる男がこの世界に一人ぐらい居たって良いじゃないの。そりゃ、アリスが嫁になったからと言って、徳永君にどんなメリットがあるかと聞かれたら正直なところ困る。


 なんにもしてあげられる物がないのが汚部屋の女王だもの。むしろ余計な負担ばかりかけるのは太陽が東から昇るより確実だ。でも好きなんだよ、惚れちゃたんだよ。こんな想いはどうしようもないじゃない。


 だからせめてじゃない。この体ぐらい捧げたい。そりゃ、ヴァージンじゃないしアラサー女だ。アリスの体の価値なんてそれぐらいなのは知ってるもの。でも他に何があるって言うの。それなのに、それなのにこの体さえ不感症疑惑ってなんなのよ。


 もしそうだったら、なんの価値もない女だ。嫁になんてなる資格なんてあるもんか。それもわかってるし、その覚悟もある。あるけど、あるけど、別れたくないよ。泣いてすがっても別れたくないんだよ。


 だから求められるのが怖い。求められてやってしまえば、すべてがわかってしまう。徳永君とのベッドは、単に恋人同士が愛を確かめ合うものじゃないんだ。そこにアリスのすべてが懸かった試練のベッド、運命のベッドになる。


 そこで下される審判が怖い、怖すぎる。アリスが徳永君に感じなかったらアリスのすべてが終わってしまう。こんなに怖いベッドがこの世にあるものか。でも、でもだよ、もしアリスが感じることが出来たら、運命の扉が開く。


 運命の扉が開いた先にあるのは、夢にまで見たヴァージンロードだ。その先に待ってくれてる徳永君のところに行けるかもしれない。だからこの運命のベッドはどうしても通らないといけないし、与えられた苛酷すぎる試練に打ち勝たないといけない。


 勝ちたい、何があっても、どんなことをしてでも勝ちたいし、勝たなきゃならない試練だ。でも状況は客観的に見れば不利どころか、絶望的だ。なにか、なにかこの状況を打開する起死回生の秘策はないのかな。


 あったら苦労しないか。だから、アリスは女として生き、女として経験したすべてをぶつける。そこに一片の悔いさえ残したくない。最後に一秒まで全力を尽くしてやる。そうだよ、これがアリスの最後のべっドになっても後悔しないようにする。


 神様、お願い。アリスの体を感じさせて。感じさえするのなら、どれだけ感じたってかまわない。感じまくって狂い死にしたってウェルカムだし、色情狂にされても後悔なんてあるものか。


 儚すぎる願いだな・・・いや、最後の最後まであきらめるもんか。何が何でも感じて、運命の扉をこじ開けてやる。運命は待っていても開くものじゃない、自分の力で開くものだ。もっとも女として感じるのにどこで自力を使えるかは疑問だけどね。

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