第10話

「修平」

昼休み、机にぶっ潰して寝ていた修平に、小嶋が声を掛けてきた。

「あ?」

思いっきり機嫌悪そうに、顔を上げる。

「ちょっと話が…」

修平が面倒くさそうに立ち上がり、二人は市役所の屋上へと向かった。

「何だよ」

修平が、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、柵を背に、もたれかかり、不機嫌そうに聞く。

「俺さ、付き合うことになった」

「は?誰と?」

「伸哉さんと…」

小嶋が、嬉しそうに、はにかむ。

「へぇ。良かったじゃん」

「あの日、お前、あのあと伸哉さんに電話してくれたんだろ?それから、毎日、練習帰りに、少しの時間、ケアしてもらいに寄るようになってさ」

「俺は別に。お前、間接固いし、ケガも多いから。あの日も、足を少し引きずってたからな。伸哉さんなら兄貴の友達だし、時間外でも連絡すれば診てくれるから」

「何か、俺の試合、いつも観に来てたみたいで」

小嶋が嬉しそうに目を細めた。


 高校に入って、修平が整骨院に行くたびに、伸哉は必ず小嶋のことを聞いてきていた。一度、純平に、試合中にケガをした門下生のケアに急きょ呼び出された時に、会場で試合をしていた小嶋から目が離せなくなった、と話していたのだ。いくら人に興味のない修平でも、伸哉が小嶋に好意を抱いていていることには、イヤでも気付いてしまうくらいだった。

「伸哉さんてさ、18歳で初めて柔道でオリンピックに出て、そこから二回金メダル獲ってるだろ?ケガが原因で引退したけど」

「ああ。だから、整骨院始めたって。自分みたいに、ケガをしてるのに、無理に試合に出て選手生命をダメにする奴を少しでも減らしたいって言ってた」

「俺も、痛みがあっても、無理に練習とか試合に出るしなー。伸哉さんにいつも注意されるけど」

「ノロケか?で、話って、それだけ?」

修平があくびをする。

「そ、それが、明日、俺たち久しぶりにオフだろ?それで、今日の夜、練習が終わってから、初めて泊まる約束してて…」

小嶋が、ゴニョゴニョと、聞こえるか聞こえないかの小さな声で喋る。

修平が、もじもじする小嶋に、

「何だ。そんなことか」

と、軽くあしらった。

「そんなことって…。俺には、そんな簡単に流せる話じゃないだろ?こんなことになるなら、俺のファーストキス、修平にやるんじゃなかった」

と、柵に肘を付いて、両手で頭を抱えた。

「俺も別に欲しくなかったけどな」

と、呆れたように呟く。

「ってか、お前、あれが初めてだったのか?彼女とか、何人かいただろ?」

そっちの方に修平が食いついた。

「黙れ。変なとこ突っ込むな。俺は意外と純粋なんだ。初めてのキスだけは、好きな奴としたかったんだよ。そこはもう、逆に聞き流せ」

小嶋が恥ずかしそうに俯いた。修平が拳を手に当てて、肩を揺らして笑う。

「何か、悪かったな。初めてが俺って」

「笑うなよ。俺も今はマジでそう思ってっから」

小嶋も、そう言いながら、つられて笑う。

修平は、こみ上げる笑いを抑え、それ以上は何も言わなかった。小嶋との、この柔らかい空気感が、とても心地よく感じたのだ。昔、中学の時に、お互いに切磋琢磨しながら、先のことなんて何も考えずに一緒に練習に励んでいた時に戻ったような感覚だった。 

そして、小嶋が口を開く。

「絶対に、今日だよな?」

「何が?」

「だから、その…」

また顔を赤くしながら、声を小さくする小嶋に対して、思わず修平が吹き出す。

「お前って、本当にアホだな」

「俺は本気で悩んで、仕事も手につかないんだぞ」

顔を上げた小嶋は、首のあたりまで真っ赤だった。

「お前が幸せそうで良かったよ。せいぜい頑張れよ」

修平が小嶋の肩を軽く叩くと、屋上を降りて行く階段へと向かって歩き出した。ドアノブに手をかけ扉を開き、振り向くと、

「まぁ、俺が伸哉さんなら、間違いなく、今日ヤるけどな」

小嶋へと、そう言い残して、扉を閉じた。

うろたえる小嶋の姿が想像できて、修平は、また吹き出して、そして階段を降りて行ったのだった。


「ただいま」

大きなリュックを担いで、修平君が帰ってきた。

「お帰り。お疲れ様」

僕は玄関へと向かい、その荷物を受け取る。

「明日、久しぶりにオフだから」

「うん」

「今晩、するだろ?」

「帰って来るなり、それ?」

僕は耳まで真っ赤になる。からかわれてるだけだ、って分かっているのに、いつも素直に反応してしまう。修平君は、その反応を見て楽しんでいるようだった。

「先にお風呂にする?」

「いや、ご飯食べてからにする」

「じゃあ、準備するね」

僕がテーブルに食事を並べたあとに、リュックから、修平君が練習で使った空手着や洗濯物を出していると、

「小嶋、彼氏できたって」

と、不意に修平君が言った。

「え?そうなの?」

僕はビックリしたと同時に、とても嬉しくなった。

「柳原整骨院の先生。兄貴の同級生の」

「あ、小嶋君のことよく聞いてくるって言ってた?確かオリンピックに出てた人だよね?あのイケメンの」

「そう。あの二人、絶対にくっつくと思ってた」

どこか嬉しそうに見えるのは、きっと気のせいじゃない。修平君なりに、小嶋君のことを心配していたのだろうと思った。

「でも、良かった。小嶋君に良い人が見つかって」

どっちの意味でも、僕としては、内心ホッとした。そして、小嶋君には本当に幸せになって欲しいと、ずっと心から願っていた。

「今日、初めてのお泊まりらしいぜ」

「えっ!」

「その話聞いて、めっちゃウケた」

修平君が楽しそうに笑う。あまり見せることのないその笑顔が、たまらなく可愛くて、愛しくて、つい見惚れてしまう。

「小嶋君、ああ見えて、すごく純粋そうだから、ずっとソワソワしてそう」

「俺が伸哉さんなら、絶対に今日ヤるけどな、って言っといた」

そう言って、また笑う。ああ、ダメだ。何度見ても、胸がキュッとなる。

「小嶋君、話す人、間違えたと思ってるよね、絶対に。かわいそう」

きっと、真っ赤になってうろたえてたに違いない、と思った。そして、修平君の笑顔にときめきすぎている僕の頬が熱い。

「じゃあ、俺と葵がどんなことしてるか、教えてやれば良かったか?」

いたずらっぽい笑みを見せる。また赤くなる僕を見て、修平君が優しい表情で僕を見た。僕は恥ずかしくなり、思わず目を背け、洗濯物を持って、脱衣所へと向かおうとした。修平君は、そんな僕の腕を引くと、椅子から立ち上がり、僕をそっと抱き締めてくれる。トクン、と心臓が跳ねた。

「あさってから、また遠征と試合で、しばらく会えなくなるな」

耳元で囁かれ、僕の全身が、カッと熱を持つ。

「うん。世界選手権の代表選考会を兼ねた日本選手権の大会が近いって、純平さんから聞いてる」

「そうだな。もし優勝できたら、兄貴の夢だった五輪出場にも手が届く可能性が出てくる」

純平さんの夢は、いつしか修平君の夢になっていた。

「応援してる」

僕は修平君の背中に、そっと手を回した。


修平君は試合中も、試合に勝っても、ほとんど表情を変えない。そんな「氷結王子」は、未だに取材などを全て断っているせいで、謎多き選手としてメディアや週刊誌が、より執着するようになった。そんな中、修平君のめったに見られない笑顔を激写して掲載したり、放映すると、週刊誌の売上も、ワイドショーの視聴率も爆上がりすると、何かの番組でやっていた。そのせいで、僕は、SNSはもちろん、テレビもあまり見ないようにしていた。修平君の人気を目の当たりにすると、きっと嫉妬したり、不安になってしまって、自分の感情が揺れ動いてしまうから…。


以前、取材を受けない理由を聞いたことがあった。

「あ?だって面倒くせぇだろ?言葉選んで話すとか、まず無理だし」

「確かに。その口の悪さじゃ、反感を買うか、炎上するか…だもんね」

「お前…」

「ごめん、つい」

睨み付けられて、俯いた。

「修平君、試合って、緊張しないの?かなり大きな大会は、テレビとかでも放送されてるよね」

「しない」

「どうして?僕、ただの昇給審査でも緊張するのに」

「別に、試合に負けようが勝とうが、自分の問題だろ?空手は好きだからやってるだけで、試合もその延長みたいなもんだと思ってるから」

「プレッシャーとか、ないってこと?」

「全然ない。自分が楽しけりゃいい。勝つと、やっぱりモチベーションも上がるし、めちゃくちゃ爽快感あるし、快感も半端ないけど。でも、マジで、それだけ。世間の期待とか、俺には全く関係ねぇから」

「やっぱり取材は受けなくて正解かも…」

僕は、思わず呟いたのだった。


「修平君、タクシー来たよ」

「ああ」

大きなスーツケースを持って、玄関へと向かう。

「試合、頑張ってね」

靴を履いて、立ち上がり、僕を見る。

「帰れる日が分かったら、連絡する」

「うん…」

「そんな顔すんな」

僕の頬を片手で包んでくれる。僕はその手を強く握りしめた。修平君が、僕の額に唇を押し当てた。

「じゃあな」

「うん」

ダメだ。手が離せない。

「唇にも、して、って顔してるぞ」

「えっ!し、してないよ!」

「帰ってきてからしてやるよ。そのほうが、待つ楽しみが増えるだろ」

「意地悪…」

修平君の手が、頬から離れ、玄関のドアが開く。

「行ってくる」

「うん。気を付けてね」

バタン、と扉が閉じた。やっぱり、まだまだ慣れそうにない。修平君を悲しまずに見送るなんてこと…。僕は一人取り残された部屋で、しばらく俯いたまま、溢れる涙を止めることなく立ち尽くしていた。

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