第9話

「寒っ!」

修平君が僕をアパートまで送ってくれるのに、二人で外に出た瞬間、かなり冷え込んだ空気に包まれた。

「僕一人で帰れるから、修平君、無理に送ってくれなくても大丈夫だよ。体が冷えて、明日からの練習に差し支えると大変だし…」

「は?別に日常生活は影響とかねぇし。汗が引くと、って言っただろ?汗をかいたあとに気を付けてる、ってだけだ」

「今度、あの、首に巻く、肩まである、冷えないグッズ買っておくよ。冷たい空気が入ってこないように、寝る時とかに使うやつ」

「俺が、裸でそれだけ巻くのか?」

「え?」

想像して、つい笑ってしまった。修平君も、笑う。

「お前、どんだけ裸でイチャイチャしたいんだよ?ヤってる時、あんなに肌くっつけてんのに」

「違っ…。そういうワケじゃ…」

恥ずかしくなって、俯いてしまい、話せなくなる。

「何?前の男がそうだったとか?」

「前の男って…?」

「知らねぇよ。お前が誰と俺を比べてんのか」

「比べてなんかないよ。僕、付き合うのも、修平君が初めてだから。ただ、昔から憧れのシチュエーションだったから。あんなふうに…」

「ふぅん。じゃあ、こーゆーのも?」

修平君が僕の手を握りしめ、自分のダウンジャケットのポケットへと潜り込ませる。温かい手の感触。つい顔がニヤけてしまう。バレないように、必死で口元に力を入れる。アパートになんて、着かなくていいのに…。本気でそう思った。だけど、楽しい時間は本当に早くて、アパートに着いてから、

「明日から、長期間、遠征に行く。たぶん、1ヶ月くらいは帰って来れない」

修平君が、突然、言った。

「そんなに?」

僕は思わず本音を漏らしてしまった。

「そんな顔すんな。覚悟決めたんだろ?」

「決めたけど…」

こんなにも早くに試練が訪れるとは、思っていなかったのだ。

「毎日、LINE、してもいい?おはようと、おやすみだけでいいから、送りたい」

「ああ。俺、マメじゃないから、返信なくても怒らないならいい」

「修平君は、寂しくないの?」

「何が?」

「そんなに長く、ここを離れること」

それと、僕と会えなくなること…。

「小学校の時からずっとだから、もう慣れてる。遠征や練習試合、大会やらで、ほとんどこっちにはいなかったからな。今年一年は、日本代表辞退したから、ゆっくり出来てたけど」

「そっか…。また忙しくなるんだね」

「ああ。じゃあ、またな」

「うん。帰って来る時は、連絡して」

「分かった」

僕は、修平君と握り合っていた手をダウンジャケットの中から、抜いた。

「送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」

僕はアパートの鍵を開けると、玄関の扉を開けた。明日から修平君にしばらく会えなくなると思うだけで、寂しくて、今度は涙が出ないように、唇を噛みしめる。

「じゃあ、おやすみ」

「ああ」

僕は、俯いたまま玄関の扉を閉じた。やっぱりダメだ。涙が零れる。これから、ずっとこんな思いをして、修平君を見送らないといけないのかと思うと、胸がえぐられそうなくらい、痛く、苦しかった。足音が遠ざかる。

「行かないで…」

ずっと一緒にいたいよ。ずっとそばにいたい。


特番のあと、修平君の人気に一気に火が付いた。本人は取材やインタビューをNG としていたけれど、周りが放っておかなかった。無表情で冷静で冷淡な彼を「氷結王子」と名付け、週刊誌やワイドショーなどでも、かなり白熱して取り上げていた。見ないようにはしていたけれど、情報はいろんなところから入ってきて、それが、余計に僕の不安を煽っていた。


もし、修平君が僕のところへ戻って来なかったら…?誰か、他に良い人が現れたら…?

不安で胸が押し潰されそうになる。

そこに、ガチャリ、と、玄関の扉が開いた。

僕はビックリして、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。

「泣いてんじゃねぇよ、バーカ。一人で我慢するな」

修平君が、力強く、僕を抱き締めてくれる。

「だって…」

僕は、その背中に、躊躇なく腕を回した。 

「葵が好きだ」

らしくない修平君の言葉に、ドクン、と心臓が跳ねた。

「うそ…」

修平君からの愛情表現に免疫のない僕は、感激のあまり、体中の力が抜けて、足元から崩れてしまいそうだった。

「葵、遠征から帰ってきたら、俺がここに一緒に住めるように準備しとけ」

「え…?」

「一緒に住んでやるって言ってんだよ。4月から、仕事もここから通うし、ここに帰って来る」

悲しい涙が、嬉しい涙へと変わる。

「うん…。ちゃんと準備しとく。歯ブラシも、茶碗も、布団も、全部。二人で生活できるように、準備しとく」

修平君の胸へと、顔を埋める。

「だから、泣かずに待ってろ」

「うん。大好き、修平君」

「いつもなら、何も感じずに、平気でどこへでも行けたのに。お前のせいで、らしくもなく感情が乱れる。いつも心配ばかりかけて、放っておけないせいで…離れたくなくなる」

「ごめんね…」

「1ヶ月の間に、ちゃんと準備しとけよ」

「うん。任せて」

僕たちは、今までにないくらい、激しく何度も何度も、唇を重ね合わせた。


その週の水曜の練習日のことだった。道場へ行くと、美園ちゃんがすでに空手着姿でストレッチをしていた。

「お疲れ様。今日は早いんだね」

僕が声を掛けると、黙ったまま、じっと僕の目を見る。何か様子が変だ。

「どうしたの?」

「ごめん、葵さん。私、見ちゃったんだ…」

「何を?」

「月曜日、純平さんが仕事終わるだろうなーと思って、純平さんの家に行こうとしてた時に、こうやって…」

美園ちゃんが、手を下に向け、それをグッと握り、自分の腰の方へと寄せた。それが、ダウンジャケットのポケットに手を入れてくれた時のジェスチャーだと、すぐに分かった。

「修平と葵さんが、イチャイチャしてるところ、見ちゃった」

美園ちゃんが、両手で自分の頬を挟み、嬉しそうにニコッと笑う。僕は、真っ赤になるのが自分で分かり、何か話そうとしても、口がモゴモゴするだけで言葉が出てこなかった。

「葵さんぐらいだよ、あんな気難しい修平のこと、取り扱えるの。修平のあんな嬉しそうな顔、初めて見たもん。試合で優勝しても、喜んでんのかどうか分かんないくらい、いつも無表情だからさ」

「へぇー。俺も見たかったな。その、デレデレした修平の顔。葵さん、氷結王子の仮面を溶かす、唯一の融雪の女神ってとこかー。いや、二人がうまくいって、マジで嬉しいよ。これで安心して、来週から県外の大学に行けるなー」

後ろから声がして、ビックリして振り向くと、そこには聡史君が口元に笑みを浮かべながら立っていた。

「いや、その…」

僕が、しどろもどろになってると、

「なるほどな。修平、今回の遠征から戻ってきたら、家を出るって言ってたのは、松原さんと一緒に住むためか。俺でも手に負えない時があるのに、よくあのどう猛犬を飼い慣らしたな」

いつの間にか、美園ちゃんの横に、純平さんが腕を組んで立っていた。

ああ…。うまく誤魔化すことも出来ずに、僕は、ただただ真っ赤になりながら、三人が僕たちのことで盛り上がっている話を聞いて、恥ずかしすぎて、俯いていることしかできなかった。


その日の夜、修平君に、月曜日に手を繋いでたところを美園ちゃんに見られてたこと、聡史君と純平さんにも二人の関係がバレてしまったことをLINEで報告した。

『分かった。そっち戻ったら詳しく聞く。てか、マジでしくった。余計なこと、しゃべるなよ』

と、返信が来た。

『いろいろ聞かれると、誤魔化せなくて…』

『とにかく、何を聞かれても、黙ってろ』

『分かった。練習、お疲れ様。おやすみ』

と、僕は、笑顔になりながら、LINEを終えた。

ただ、隠さなければいけない関係なんだ、ということを目の当たりにして、少し悲しくもなってしまったけど、修平君は、二人の関係を隠したかったワケじゃなく、らしくもなく、自分が本気でベタな恋愛をしていることが恥ずかしすぎて、バレたくなかっただけだった、ということをあとになって教えてくれた。


それから、1ヶ月以上が過ぎ、修平君は無事に市役所へと就職し、日中は市役所の業務をこなし、仕事が終わってから、夜遅くまで空手の練習をする日々を過ごしている。夜の帰宅は、いつも9時30分を過ぎていた。もちろん、遠征や大会に出場することも増え、月のほとんどは、こっちにはいなかった。それでも、修平君の帰って来る家はここなんだ、と思うだけで、僕は安心して毎日を過ごすことができていた。

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