カワウソの目のヒーロー

山郷ろしこ

カワウソの目のヒーロー

 彼女はいちばん綺麗な女だった。


 入学式の、スーツで真っ黒に染まった講堂。その中にいても、彼女には鮮やかな色がついていた。彼女は真っ直ぐに背筋を伸ばして、学長のつまらない話を熱心に聞いていた。


 そのとき俺は、彼女の斜め後ろの席でうつらうつらと舟を漕いでいた。そうしてふと顔を上げたとき見えた横顔に、へぇ美人じゃん、なんて思っていたのだ。





 カーテンが開く。


「わ、いい天気ですね」


 いつも通り、彼女はぎこちない声ではしゃいだ。ね、と長い黒髪を揺らしながら、俺を振り返る。


 ベッドに腰掛けている俺からは、彼女の向こうの青空は見えない。ドラッグストアの箱状の看板と、カラオケ屋の尖った屋根と、うちと似たような灰色のアパートが見えるだけだ。彼女に電気をつけられた朝七時過ぎのワンルームは、窓から差し込む日の光よりも明るく感じられる。


「そうだね」


 その返事に続ける言葉を、今日も思いつけない。彼女はふふ、と嬉しそうに笑って、音もなく窓から離れた。モスグリーンのワンピースに白いカーディガン、ベージュのリュックサックと丁寧にブラッシングされた髪、薄いピンクに塗られた唇。あとは、白いエナメルのパンプスを履くだけで彼女の身支度は完成する。俺はベッド脇のテーブルに用意されている朝食を確認しながら、まだパンツ一丁だ。


「目玉焼き、綺麗だよな」


 廊下へ出ようとする彼女に声をかける。彼女はまた俺を振り返って、小さく首を傾げた。俺は自分の焦りようを恨めしく思いながら、ボソボソを言葉を繋げる。


「いや、たまに作ってくれるじゃん、目玉焼き……綺麗にできてるなって、いつも」


 彼女は丸い両目を少し見開いてから、整った眉を下げて困ったように笑った。


「……ありがとうございます」


 そのまま丁寧にお辞儀をして、彼女は短い廊下へ消えて行った。俺はそれを引き留めることも、またね、の一言をかけることも、出来ない。


 目玉焼きの皿の隣には、ウスターソースが置かれている。俺はベッドから立ち上がって、台所へ醤油瓶を取りに行く。





 入学後すぐ、学科の新歓コンパが開かれた。新入生歓迎、という名目で上級生たちが酒を飲み、めぼしい異性の連絡先を手に入れるためだけの行事だ。それは言われなくても何となく分かることだから、バイトが忙しい奴や家が遠い奴、コミュニケーション下手で根暗な奴なんかはわざわざ参加したりしない。


 けれど、実家通いで根暗な彼女は参加した……いや、きっと「出席」したのだろう。彼女はいちばん綺麗で、いちばん真面目な女だった。まだ十八だから、と酒を断りながらも、先輩に連絡先を訊かれれば素直に教え、同級生の女たちにも平等にサラダを取り分けてやった。女たちの白い目には気づかずに、だ。


 俺はその様子を横目に見ながら、馬鹿な女だ、と思っていた。あんな素直な女を我がモノにできたら幸せだろうな、とも。





 四限の講義が終わると、火曜日の大学に用はなくなる。けれど、俺がこのまま帰ることはない。講義棟を三つほど通り過ぎ、第三講義棟の裏のベンチに腰掛ける。珍しく、俺以外に人の姿はない。足元には、枯れ葉と一緒に煙草の吸い殻がいくつも転がっていた。


 大学に喫煙所がなくなって数か月、学内で一番目立たないこの場所に、ヤニ中どもはこぞって集まっている。俺もその一人だ。ジーパンのポケットから箱を取り出し、一本出して口に咥える。ライターで火をつけると、薄暗く寒々とした休憩所にもいくらか暖かさが生まれた。


 彼女は五限まで講義を取っている。俺はそれが終わるのを待って、今日こそ彼女を夕食に誘うのだ。先週も先々週も、一本目の煙草を吸い終えた時点で怖くなって帰ってしまったが、今週こそは絶対に、最後まで待つ。本当は彼女のスマホにメッセージを入れれば済むことなのに、俺にはそれが許されていない。


 あちこちから、五限始まりのチャイムが何重にもなって聞こえてくる。





 新歓コンパ以降、当然のように彼女は浮いた。友人を作りたくて色んな奴に話しかけてまわる彼女を、女は誰も相手にしなかった。その代わり、男は続々と彼女の周りに集まってきた。「美人なせいでともだちができない、かわいそうな美少女」を、男たちは助けてやりたがった。先を争うように彼女の隣に近づいて、彼女が欲しがりそうな言葉を片っ端から与えて、マスターベーションしたての右手を綺麗に拭いて差し伸べる。そんな男が何人も、彼女を助けにやってきた。


 彼女は素直に助けられて、望まないまま処女を失って、気づけば何人もの「彼女」になっていて、あれよあれよとボロボロになっていった。





 一本目を吸い終える。二本目を取り出しかけて、やめた。箱を仕舞って、反対側のポケットからスマートフォンを出す。


 ロックを解除し、メッセージアプリを呼び出して、彼女の名前をタップする。いちばん新しいメッセージは、昨日の彼女の『七時ごろ行きますね』。その上には、俺の送ったスタンプが表示されている。カワウソが頬杖をついて、こちらをじっと見つめているイラストだ。いつからかこのカワウソが、俺と彼女の「合図」になっていた。


 過去へ過去へと画面をスクロールしていっても、やり取りは同じものばかり。彼女の言う時刻に違いがあるだけで、俺が送ったカワウソの顔にも、二人の距離感にも何の変化も見当たらない。『今週の日曜、映画でも行かない?』一か月前のこのメッセージだって、結局何も生み出さなかった。『ごめんなさい。そういうお誘いは、申し訳なくて』


 ……やっぱりやめよう。『ごめんなさい』の文字列を見ているうちに、そんな気分になってくる。優しく、柔らかく、生真面目な拒絶。俺はいつだってそれに耐えられない。


 デートに誘う度に、彼女を褒める度に、軽いキスをする度に、彼女は俺から一歩離れるように眉を下げて笑う。その一歩が積み重なったら、彼女はきっと俺から遠く離れたところへ行ってしまうのだろう。そう考えて、俺はいつも何一つ、彼女に伝えることができない。俺はこんなにも臆病な人間だったろうかと、内臓を掻きむしりたくなる。


 スマートフォンを左手にぶら下げたまま、俺はベンチを離れた。講義棟の脇を抜けて、坂を下りながら正門へ歩き出す。風の音がして、乾いた冷気が頬を撫でていった。大学の真上の空にも、紺色の夜が近づいている。


 顔を俯けて歩いていくと、すれ違うカフェの自動ドアが開いた。ありがとうございましたぁ、という店員の不愛想な声が聞こえてきて、何の気なしに顔を上げる。と、店から出てきた女と目が合った。


「あ……」


 彼女だ。ドクン、と心音が腹の底に響く。


「……あれっ五限、あるんじゃなかったっけ?」


 平静を装ったつもりだったが、明らかに早口になった。彼女は伏せた目をちろちろと泳がせる。黒く長いまつ毛が震えていた。


「休講、になってて。さっきはじめて気がついたので、なんだか帰る気にもなれなくて……」


「へぇ、そう、なんだ」


 はい、と答えた彼女の首が、正門の方向へわずかに回る。俺はその視線を先回りしたくて、彼女よりも一歩前に出た。


「門まで一緒に行かない?」


 彼女の肩が跳ねる。たぶん彼女と同じくらい、怖い、と俺も思っている。俺たちのすぐ横を、立ち漕ぎの自転車が通り過ぎていく。


「……はい」


 細い声と同時に、彼女は頷いた。俺は笑顔を作り、ゆっくりと歩き出す。彼女は二、三歩遅れてついてくる。俺はわざと歩調を緩めて、やっぱり元の速さに戻す。


「寒くなってきたよね」

「そう、ですね」

「ほんと、秋だなって感じ」

「はい」

「まぁうちの大学って紅葉とかあんましないし、寂しいだけ、だけど」

「確かに、そうかも」

「もうちょっと見た目にも気を遣えってな、ははは」

「……ふふふ」


 少しずつ辺りが暗くなって、風が冷たくなってくる。正門への真っ直ぐな坂は、もうほとんど平らになっている。



 俺は彼女を、最後に助けただけだった。男に連れていかれそうになっている彼女の右手を引いて逃げ、「私は汚れているの」の言葉を柔らかく否定し、家に連れ込むことも連絡先を聞き出すこともせず、ただ、その場を去っただけだ。


 全部、彼女を手に入れるための打算だった。



「ねぇ」


 俺は立ち止まって、振り返った。彼女の白い頬がわずかに強張る。薄いピンクの唇は、朝よりも色あせて見えた。キスを重ねた後の、ありのままの赤に近かった。


「飯、行こっか」


 喉が渇く。唾を飲み込むと、耳の奥がじんと痛んだ。「二人で」付け足した自分の言葉はひどく惨めに、自分の身体の中だけに響く。


 彼女は肩を縮め、眉を下げて、ぎこちなく口角を上げた。


「ごめんなさい」


 左胸が痺れる。


「どうしても?」


 感情を押し殺そうとして、声が低くなった。それが凄んでいるように聞こえたのか、彼女は少しだけ青ざめて、ごめんなさい、と繰り返した。


「どうしても、です」


「……そう」


 俺は頷いた。本当はもっと、言うべき言葉があるはずだった。けれど、どうしても舌を動かせなかった。


 彼女は謝るように、あるいは念を押すように、小さく頭を下げた。そしてそのまま、小走りに俺を追い越して正門へ向かう。俺は彼女の華奢な背中を見送ろうとして、やめた。


「俺が嫌い?」


 声を投げると、ぴた、と彼女が止まった。俺を振り返らないまま、小刻みに頭を横に振る。黒い髪がさらさらと揺れた。


「じゃあ、どうして?」


 かっこ悪い思いを、どうしても隠し切れていなかった。彼女に追いつきたいのに、両足は根を張ったように地面から離れない。助けてくれ、と自分自身が内側で叫ぶ。


 彼女が、俺を振り返った。


「あなたは、私のヒーローなんです」


 泣きそうな顔で笑っていた。


「ヒーローは、あなたで最後にしたいの」


 そう言って、門の向こうに消えて行く。





 俺に助けられた彼女は、俺を追いかけるようになった。彼女は俺の連絡先を知りたがった。ベッドに押し倒してやれば、俺に抱かれてもいいと言った。なのに、俺のものにはなりたがらなかった。


 俺よりも早く起きて、朝ですよ、とカーテンを開けて、俺の前からいなくなる。


 彼女は俺を「ヒーロー」と呼ぶ。


 自分のことをヒロインとは、決して呼ばない。





 冷たい風の中で、俺はただ立ち尽くしている。頭の中でカワウソがこちらを見て、馬鹿だね、と冷めた目で笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カワウソの目のヒーロー 山郷ろしこ @yamago_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ