妖帝の妻 後編

「……美鶴?」


 一度聞けば忘れることのない声に、美鶴は頭を下げる。


「はい、お待ちしておりました。主上」


 今日から主となった相手に、美鶴は自分が知りうる最上の礼を持って接する。

 だが、それを向けられた当人は苦笑いを浮かべていた。


「頭を上げよ、そう畏まらなくてもよい」

「は、はい」


 畏まるなと言われても、それはそれでどうすればいいのだろう?

 戸惑い顔を上げるが、そうして目に映った男の姿につい見惚れる。

 薄暗い中でも紅玉の瞳はとても印象的で、筋の通った鼻や唇は整った輪郭の中に完璧に配置されていた。

 月光に照らされた白金の髪は白く輝き、人ならざる美しさに魅入られる。


「……美しいな」

「っ! え?」


 自分が相手に向けていた思いを逆に言葉にされ戸惑う。


(美しい? え? 私がということ? 主上ではなく?)


 混乱していると、すっと近付いた弧月は美鶴の髪をひと房すくい取った。


「可愛らしい顔立ちをしているとは思ったが、身綺麗にしただけでこれほどとは……俺の妻として申し分ない」

「あ、ありがとう、ございます……」


 自分よりも確実に美しい男に言われて否定したい気持ちが湧く。

 だが、妖帝の言葉を否定して先程のように怒らせてしまってはならないと礼を言うに留めた。


「……美鶴よ。こうして早急に連れて来てしまったが、そなたは家の者に妖帝の妻となったことを知らせたいか?」


 弧月の美しさにあてられ鼓動が早くなっていたが、両親のことを口にされすっと冷静になる。


「……いいえ、私はあの火の中で死ぬはずだったのです。そのまま、家の者には死んだことになさって下さい」


 もとよりいてもいなくても構わないというような扱いをされていたのだ。あの家に自分が死んで悲しむ者はいないだろう。

 それに、父は野心家でもある。

 大それたことをしようとは思っていないだろうが、娘が妖帝の妻となったことを知れば何らかの利を求めてすり寄ってくるに違いない。


「もし知られれば、きっと主上にご迷惑をおかけしてしまいます」


 弧月は多くは聞かず、「……そうか」とだけ口にすると髪を離しその大きな手の平で美鶴の頭を撫でた。


「っ……」


 慈しむような優しい手の平に、気恥ずかしさと喜びが沸き上がる。


(……温かい)


 助けられたときにぽんと乗せられたときも思ったが、弧月の手は美鶴に安心を与えてくれるのだ。

 ここにいてもいいのだと、安らげる場所なのだと思わせてくれる。

 そのまま引き寄せられて抱き締められた場合は安心どころではないが、こうして頭をなでてくれている間はただただ安らげる。


(そうね。だから私は、このお方に仕えたいのだわ)


 決意を再確認し、弧月を見上げる。

 強い意思を宿した紅玉の目は、美鶴自身をも強くしてくれるように思えた。


 頭に乗っていた手がするりと下りてきて、顎を捕らえる。

 弧月のされるがままでいる美鶴は、じっと彼の目を見た。

 赤い瞳の奥に見たことのない炎を宿した弧月を見続けていると、美しい顔が近付き、唇に彼のそれが触れる。

 そうなるまで美鶴は微動だにしなかった。

 ……いや、出来なかったというべきか。


 弧月の瞳に捕らわれて動けなかった。

 近付き、唇が触れ、その柔らかさに喉の奥から悲鳴が出てきそうでそれを抑えるのに精一杯だったのだ。


「……美鶴、こういうときは目を瞑るものだぞ?」

「ぅえっ⁉ は、はいっ」


 呆れた声に失敗してしまったと焦る。

 慌てて瞼を閉じると、また先程と同じ柔らかなものが唇に触れた。


「……んっ」


 先ほど抱き締められたときよりも触れている個所は狭いのに、どうしてこうも鼓動が早まってしまうのか。

 目を閉じたことで唇の感覚が強くなってしまったのだろうかとも思うが、何かもっと別の理由な気もした。

 何故なのかは分からなかいが、何度も触れる唇は優しく美鶴の中に熱を灯す。


(これは、口づけ……なのよね?)


 両親がしているところを見たことはないが、夫婦の営みとしてすることだといつだったか春音が教えてくれた。

 唇と唇を触れ合わせるのだと。そうして愛を確かめ合うのだと。


(愛を確かめ合う……? 私と主上が?)


 自分はお飾りの妻だ。

 主人と仕える者という関係に敬意などの好意的な感情はあるかもしれないが、愛情は違うだろうと思う。


 それなのに何故弧月はこのようなことをするのだろう?

 理由が分からなくて少し怖い。

 ……だが、優しい熱を与えてくれるこの口づけを嫌だとは思わなかった。


「はぁ……美鶴?」

「はっはい」


 ひとしきり触れ合って離れた弧月は、どことなく熱のこもった声音で美鶴を呼んだ。

 それが何やら恥ずかしくて、美鶴は動じながら返事をする。


「そなた、夫婦の営みは理解しているのか?」

「は、はい。……多分」

「多分?」

「あ、その……同じ褥の上で共寝をするのはわかっているのですが、具体的なことは知らないと申しますか……」


 以前教えてくれた春音は共寝をすることまでは教えてくれたが、そこから先は『姉さんは本当に無知なんだから』と嘲笑するだけで教えてはくれなかった。


「そうか……」


 弧月は納得の声を上げると「すまない」と謝罪の言葉を口にし美鶴を褥の上に押し倒す。


「無垢なそなたを散らすのは気が引けるが、既成事実を作っておかねばうるさい輩もいるのだ。……心配するな、優しくする。美鶴は俺に全てを任せれば良い」


 押し倒されたことに驚きはしたが、もとより弧月が酷いことをするとは思っていない。

 申し訳なさそうに眉を寄せる弧月に、美鶴は大丈夫だと微笑みを浮かべる。


「主上のお好きなようになさって下さい。私は貴方様にお仕えすると決めたのですから」

「っ!……全く、可愛いことを言う……」


 切なげに細められた目に、また熱が灯ったように見えた。

 美しい紅玉が鮮やかに色づいて、魅入ってしまうほど。


 その宝玉と共に口づけが降って来て……美鶴は夫婦の営みがどんなものなのかを知った。


***


「何か望みはあるか?」


 そう聞かれたのは夜も明けようかという頃。

 微睡みの中上体を起こした弧月が美鶴を見下ろすようにして告げた。


「望み、ですか?」

「そなたには今後予知の力で俺を支えてもらう。その褒美として欲しいものはないのか?」


 まさか褒美をもらえるとは思っていなかった美鶴はただ驚く。

 いらないと思っていた自分の異能を必要だと言い、居場所を用意してくれただけで充分だと思っていたというのに、更に褒美までくれるとは。


「そんな……畏れ多い。私は貴方様にお仕え出来るだけで幸せなのです」

「欲がないな。まあ、それも可愛らしいが……」

「っ……!」


 幾度となく告げられる“可愛い”という言葉に、美鶴心臓はとくりと脈打つ。

 夫婦の営みの間も何度も紡がれた言葉。

 同時に初めての行為を思い出してしまい、頬が朱に染まった。


「だが、一つくらい何かないのか? 俺も頻繁にそなたの様子を見に来ることは出来ぬ。慣れぬ場所で不安に思うこともあるだろう……何か、支えになるようなものはないのか?」

「支え……」


 呟きながら、確かにそういうものがあれば助かるのは事実だろうと思う。

 弧月に仕えられればそれだけでいいと思っていた。

 妖帝ともなれば自分以外にも多くの妻がいるだろうし、正式な妻としての役割は他の方がするのだろうから、と。


 だが、内裏のしきたりなど学ばなくてはいけないことも多いだろう。自分は内裏のことも公家のこともよくは知らないのだから。

 その辺りに不安はある。その不安に潰されないように支えとなるものがあれば少しは安心出来ると思った。


「……では、私のことを忘れないという証が欲しいです。主上が覚えていてくださっていると思えば、それだけで頑張れます」


 妖帝としての仕事も多いだろう。妻も多いだろうから、自分にばかり時間を割くことは出来ない。

 きっと、次に会えるのはいつになるかも分からないだろうから……。

 会えなければ、きっと不安になってしまうだろうから……。

 だからせめて、忘れられていないという証が欲しい。


「そなたを忘れていないという証か……」


 呟き、考え込む弧月を見て不安になった。

 よく考えてみれば何という我が儘だろう。

 自分を忘れない証という抽象的なもの、何か物が欲しいというよりも困らせてしまうのではないだろうか。


「あ、あのっ――」

「そうだな」


 願いを取り消そうと声を上げた美鶴だったが、弧月の声に遮られてしまう。


「では、毎日花を一輪贈るとしよう。そなたのことを忘れていないという証に」

「花を?」

「ああ。俺は早朝庭を散策するのが日課でな、そのときに一輪手折ってそなたに贈ろう」

「主上自ら手折って下さるのですか?」

「なんだ、不服か?」

「そんな! むしろ畏れ多くて」


 自分一人のために妖帝の手を汚してしまうのが忍びない。

 そう思い慌てる美鶴の頭を弧月は優しく撫でる。

 その手にはやはり安心感を覚えた。


「そなたはそればかりだな。もう少し我が儘になってもいいと思うぞ?」

「十分、我が儘だと思いますが……」


 居場所を用意してくれただけでも有難いというのに、毎日妖帝自ら手折った花を贈ってもらうのだ。

 これほどの贅沢はないのではないだろうか。


「全く……いやつだ」


 微笑む弧月は、そのまま美鶴の髪を弄ぶように撫でる。

 美鶴は安らぎを与えてくれるその手に、今だけだからと名残惜し気に浸った。

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